2014/09/12

歴史を歩く43

10 北方民族の活動と中国の分裂②

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五胡十六国時代

1三国と晋その2

 武帝は統一の直後に占田・課田法と呼ばれる土地制度を施行しました。
武帝の死後(290年)、恵帝(290年~306年)が即位したものの暗愚で、外戚の政権争いが頻発、これに乗じて八人の王(王に封じられていた司馬一族の者)が政権をめぐって争う八王の乱(290年~306年)が起こります。
このとき諸王が周辺民族の兵力を利用した結果、五胡の侵入を招く事態となりました。

 五胡とは、当時中国の北辺又は西北辺で活躍していた匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の5族を指しています。

 匈奴は、前漢末の紀元前1世紀中頃に東西に分裂し、分裂後、西匈奴は漢と東匈奴に滅ぼされ、更に東匈奴は後漢初頭の48年に南北に分裂、分裂後、北匈奴は後漢の攻撃を受けて中央アジア方面に移動し、更に西進してヨ-ロッパに進出、ゲルマン民族の大移動の発端をつくったフン族は北匈奴であるとの説が有力です。

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八王の乱

 一方の南匈奴は後漢に服属して長城付近に定着し、その南匈奴の劉淵は八王の乱に乗じて漢(後に前趙と称す、304年~329年)を建国しました。

 劉淵は、308年に皇帝を称し、洛陽攻略をめざしましたが、その直前に死去(310年)、子の劉聡の時に、洛陽を陥れ(311年)、懐帝(武帝の子、晋の第3代皇帝)を捕らえ、更に316年には長安の愍帝(びんてい、武帝の孫、晋の第4代皇帝)を降して西晋を滅ぼします。
この匈奴を主とする兵乱を当時の年号から永嘉(えいか)の乱(307年~312年)と呼ばれます。

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司馬睿(元帝)

 司馬懿の曾孫にあたる司馬睿(しばえい、元帝、在位317年~322年)は、当初琅邪(ろうや、山東半島)王でしたが、八王の乱を避けて江南(長江の中・下流域)に逃れ、西晋が滅ぼされると土着の豪族と華北から移住してきた名門貴族の支持を受け、皇帝に即位し東晋(317年~420年)を建国し、晋を復活させ、都を建康(現在の南京)に置きました。

2 五胡十六国と南北朝

 西晋末、匈奴兵の乱(永嘉の乱)をきっかけに、中国の北辺や西辺からモンゴル系又はトルコ系の匈奴、鮮卑、匈奴の別種族である羯、チベット系のてい(氏の下に一)、羌が一斉に華北に侵入し、相次いで国を建て、この匈奴、鮮卑、羯、氐、羌を五胡と呼びます。

 華北では、4世紀初頭から5世紀初頭迄の約100年間に、匈奴の劉淵が建てた前趙(304年~329年)を初めとして13の国が五胡によって建国されました。
これに漢民族の建国した3つの国を合わせて五胡十六国と言い、この時代を五胡十六国時代(304年~439年)と呼びます。

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淝水の戦い

 この間、チベット系の氐族が建国した前秦(351年~394年)第3代目の王、苻堅(在位357年~385年)は、漢人宰相を用いて内政を整え、華北を統一し、中国の統一をめざして100万と称する大軍で南下したものの、淝水の戦い(383年)で東晋軍に大敗し、以後国内は分裂、その結果鮮卑族の勢力が増大します。

 鮮卑族は、モンゴル高原の遊牧民で匈奴に服属していましたが、匈奴滅亡後の2世紀に一時統一されモンゴル高原で強大な勢力を誇りました。
その後、再び分裂し各地に諸部族が割拠し、五胡十六国時代には、諸部族の一つの慕容氏等が華北に侵入し、4世紀以後16国のうちの5つの国を建国します。

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拓跋圭

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北魏の版図

 鮮卑族の一部族である拓跋氏は2世紀後半から鮮卑の中心氏族となり、拓跋圭(371年~409年、道武帝、在位386年~409年)の時、前秦崩壊に乗じて拓跋部を統一し、魏王の位に就きます(386年)。後に華北に侵入、制圧し、平城(現在の大同)に遷都、国号を北魏(386年~534年)と称し(398年)、部族制を解散して中国的王朝を創始しました。

 北魏第3代皇帝の太武帝(在位423年~452年)は、北涼を滅ぼし華北の統一を完成し(439年)、五胡十六国時代に終止符を打ちました。
又鮮卑が華北に移動した後にモンゴル高原で強大となり、北魏の北辺を脅かしていた柔然(モンゴル系の遊牧民族)を討ち、南下して宋(南朝)に打撃を与えます。
太武帝は道士の寇謙之(363年~448年)を信任して道教を信じ、仏教を弾圧して廃仏を行い(446年)。これは中国史上「三武一宗の法難」と云われる仏教の四大弾圧最初の弾圧と成りました。

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孝文帝

 北魏第6代皇帝が有名な孝文帝(在位471年~499年)で、5歳で即位し、486年迄は祖母の太皇太后が執政を司りました。
その間に官吏の俸給制、均田制(485年)(後述)、三長制(486年)(5家を隣、5隣を里、5里を党とし、隣長、里長、党長(三長)を置いて戸口調査、徴税、均田制の実施を担当させた村落制度)等が実施されました。

 孝文帝は、幼少の時から読書を好み、儒教の教養を身につけ、中国文化に憧れます。
親政を始めるや徹底した鮮卑族の中国化政策を推進、平城から洛陽に遷都し(494年)、鮮卑人の胡服を禁止(鮮卑族は遊牧に適した筒袖・ズボンを着用していたが、それを禁止してゆったりとした中国服に改めさせた)、胡語を禁止(鮮卑語の使用を禁止し中国語を使用させた)、胡姓を禁止してすべて中国風に改めさせ、更に鮮卑と漢人の通婚を奨励しました。
又洛陽郊外の龍門に大石窟が開かれていくのも洛陽遷都以後の時代です。

 孝文帝の徹底した鮮卑族の中国化政策は、北魏を急速に文化国家に変貌させて行きましたが、その一方で今迄の素朴質実な鮮卑族の生活が贅沢に替り、其れと同時に軍事力が衰え、鮮卑族はその後、漢人に同化され歴史上から姿を消していくことと成ります。

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東魏・西魏の位置関係

 孝文帝の死後、30数年で北魏は分裂、東魏(534年~550年)と西魏(535年~556年)が成立しました。
東魏は、将軍の高歓が孝文帝の曾孫を擁立して建てた国であり、西魏は同じく将軍の宇文泰(うぶんたい)が高歓のもとから逃げてきた北魏最後の皇帝を殺害して、孝文帝の孫を擁立して建てた国です。

 高歓の子で東魏の宰相であった高洋は、東魏から禅譲により北斉(ほくせい、550年~577年)を建国しますが、北斉は6代続いた後に北周に滅ぼされました。

 宇文泰の子が西魏から禅譲により建国した国家が北周(556年~581年)で、北周は北斉を滅ぼして華北を統一し5代続いた後、外戚の楊堅に国を奪われますが、この楊堅こそは隋の創始者です。
北魏、東魏、西魏、北斉、北周の5王朝を総称して北朝(439年~581年)と呼びます。

ジョークは如何?

工場の財産を労働者たちがくすねるのを防ぐために、門では守衛が見張っている。その守衛が、手押し車に袋を乗せて通り過ぎようとするイワンに目を付けた。
「袋の中はなんだ? イワン」
「おがくずでさ。こいつをうちでたき付けにするのを監督さんが許可してくれたんだ」
しかし、守衛はイワンの言葉を信用しない。
「開けるんだ!」
袋の中味がぶちまけられる。本当におがくずしか入っていない。
次の日も同じ場面が繰り返される。
「今度はだまされないぞ。開けろ!」
イワンは袋を開ける。やはり、おがくず以外なにもない。三日目、四日目と、同じことが繰り返される。
七日目、ついに守衛は根負けしてしまった。
「なあイワン、お前が何かくすねてるってことはわかってるんだ。だけど、もうおれは検査しないよ。おれは見て見ぬふりをする。
誰にも言わない。だから、こっそり教えてくれ。いったい何をくすねてるんだ?」

「手押し車。」

続く・・・

 

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コメント

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これは知らなかった

挨拶忘れてたよ!
      Λ,,Λ ゚ 。 ≡=-
     (・ω・`;)っ   ≡=-
おはよう o   '     ≡=-
日曜日です  (⌒  )    ≡=-
        `J o   ≡=-
今日も良き日でありますように