歴史を歩く45
10 北方民族の活動と中国の分裂③

4 六朝時代の文化
魏、晋、南北朝時代の文化に関して最も重要なことは、中国において仏教が社会一般に普及したことでした。
仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67年)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされていましたが、最近は「紀元前2年、前漢時代、長安の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節が来朝し、仏陀の教えについて語った。」 と云う記録から、年表等にも紀元前2年と記述されていますが、紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよいと思います。

しかし、当初は一部の人々の間で外国趣味として扱われ、シルク・ロード周辺を中心とした西域の人々に信仰されていたに過ぎませんでした。
後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱、戦乱が続く中で人々は否応なしに死について考え、救いを求めました。
こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まって行きました。

仏図澄
仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人物が仏図澄(?~348年)です。
仏図澄は西域の亀茲(きじ、天山山脈南麓のオアシス都市、仏教が盛ん、付近にキジル千仏洞が存在)に生まれ、本名はブドチンガ、310年に洛陽に来て、後趙(五胡十六国の一つ、羯族が建てた国)の石勒と石虎(暴虐な王として有名)の信頼を得て、混乱の華北で仏教を広めました。
寺院893カ所を建立し、その門下生は1万人に達したと云われています。

鳩摩羅什
仏図澄と同じ亀茲の出身で、仏典の漢訳に大きな功績を残した人物が鳩摩羅什(くまらじゅう、344年~413年)、本名クマラジーヴァ、父はインド人、母は亀茲王の妹で熱心な仏教徒でした。
7歳で出家し、中央アジア、インドで仏教の教理を学び、前秦、苻堅の亀茲遠征時に捕らえられ涼州(甘粛省)に移り、その地で中国語を学びました。
後に後秦王の国師として長安に迎えられ(401年)、布教に努めると共に「妙法蓮華経」をはじめとする仏典35部294巻を漢訳しています。
以後、仏教は華北に於いて北魏朝廷の保護を受け(太武帝は弾圧しましたが)盛んとなり、又東晋から南朝にかけて、江南でも仏教は非常に盛んでした。
多くの仏寺、仏像が造営され、僧尼の数は激増し、特に南朝の梁の武帝は仏教に傾倒し、多くの名僧が輩出して南朝仏教の黄金期を現出しました。

法顕
東晋の僧、法顕(337年?~422年?)は出家生活に必要な戒律の原典を求める為に、60余歳の老齢で数人の同志と共に長安を出発 (399年)、敦煌を通り6年かかってインド(グプタ朝)に入り、仏跡を巡拝し、仏典を得てセイロン(現スリランカ)に渡り、インド、セイロンに約5年滞在した後、海路帰国の途につき412年に帰国します。
帰国後は仏典の漢訳に従事し、その旅行記「仏国記」は、当時の西域、インド、南海諸国(東南アジア)の事情を知る上で貴重な文献と成りました。
仏教の隆盛と共に仏寺、仏像が盛んに造られ、又各地に石窟、石仏が掘られましたが、特に敦煌、雲崗、竜門の各石窟は中国仏教遺跡として有名です。

敦煌莫高窟

敦煌・莫高窟第112窟壁画「反弾琵琶」. 唐(618~907年). 胡旋舞を踊る舞人
敦煌莫高窟(千仏洞)は五胡十六国時代の366年頃から鳴沙山の麓で開鑿され始め、元代(14世紀)迄の間に約1000窟が掘られ、492窟が現存しています。
仏像が約2400体、壁画(仏画、仏陀の生涯、仏陀の伝説等)が約4万5千平方メートルにわたって描かれており、1900年にその一窟の壁の中から5万点に及ぶ経典類、古写本、古文書が発見されました。
何故大量の経典等が窟の壁の中に隠されていたのかは、現在でも謎ですが11世紀の西夏の侵入による兵乱を避け、仏典を守る為に隠したとの解釈で書かれた作品が、井上靖氏の「敦煌」で、映画化されましたので見られた方も多いことでしょう。

雲崗石窟の第5・6窟

雲崗石窟第20窟 露天大仏
雲崗石窟は、鮮卑族が建国した北魏初期の都があった平城(現在の大同)の西20kmの所に位置する大石窟寺院で、3代太武帝の廃仏(仏教弾圧)の後に即位した4代文成帝(在位452年~465年)が仏教を復興し、5窟の大仏を造らせてから、6代孝文帝が洛陽に遷都する(494年)迄に大小53の石窟が東西1kmにわたって造営され、ガンダーラ、グプタ様式の影響を受けた仏像が並んでおり、特に有名な大仏は高さ14mに達します。
孝文帝の洛陽遷都の後、孝文帝の子、宣武帝が雲崗の石窟にならい、洛陽の南13kmの伊水に沿う竜門に、父と曾祖母の為に2窟を開き、更に自らの為に1窟を開きました。
完成に23年間、80万人の労働力が投じられたと云われています。
以後、唐の玄宗皇帝(在位712年~756年)迄の約250年間に2100余の石窟が開かれましたが、その仏像様式は雲崗に比べると中国化しています。
仏教の隆盛に刺激され、この頃道教が成立しました。
道教は後漢末の太平道(黄巾の乱の指導者である張角が始祖)や張陵の始めた五斗米道(天師道、祈祷によって病気を治し、謝礼に米5斗を取った)を起源とし、それに当時貴族の間に流行していた不老長生を願う神仙術と老荘思想、更には易、呪術、占卜等の様々な要素を含む宗教です。
北魏の寇謙之(363年~448年)は、河南省嵩山(すうざん)に20年間篭って修行し、天神の啓示を受けて、今迄の五斗米道を改革して新天師道を創始し、太武帝の尊信を受けて、道教を国教とし (442年)、更に太武帝に廃仏を行わせました。
道教は初めて国家公認の宗教となり、形式も整えられ、道士(道教の僧)・道観(道教の寺院)等の言葉や教団組織が確立されます。
道教の不老長生と現世的利益を願う教えが中国人に受け入れられ、以後長く民衆に信仰され、儒教、仏教と伴に中国の三大宗教のひとつと成りました。
ジョークは如何?
市民たちは密告やささいな咎で次々に逮捕、処刑され、だれもが次は自分の番だと恐れおののいて暮らしていた。
ある晩のことアパートをドンドン叩く音がして、その住人は震え上がり声も出ないようすで誰もドアを開けることができなかった。
とうとう、ひとりの老人が立ってドアを開けた。そして、すぐにうれしそうな顔で戻ってきて言った。
「みんな、安心しろ。ただの火事だ。」
続く・・・

4 六朝時代の文化
魏、晋、南北朝時代の文化に関して最も重要なことは、中国において仏教が社会一般に普及したことでした。
仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67年)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされていましたが、最近は「紀元前2年、前漢時代、長安の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節が来朝し、仏陀の教えについて語った。」 と云う記録から、年表等にも紀元前2年と記述されていますが、紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよいと思います。

しかし、当初は一部の人々の間で外国趣味として扱われ、シルク・ロード周辺を中心とした西域の人々に信仰されていたに過ぎませんでした。
後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱、戦乱が続く中で人々は否応なしに死について考え、救いを求めました。
こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まって行きました。

仏図澄
仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人物が仏図澄(?~348年)です。
仏図澄は西域の亀茲(きじ、天山山脈南麓のオアシス都市、仏教が盛ん、付近にキジル千仏洞が存在)に生まれ、本名はブドチンガ、310年に洛陽に来て、後趙(五胡十六国の一つ、羯族が建てた国)の石勒と石虎(暴虐な王として有名)の信頼を得て、混乱の華北で仏教を広めました。
寺院893カ所を建立し、その門下生は1万人に達したと云われています。

鳩摩羅什
仏図澄と同じ亀茲の出身で、仏典の漢訳に大きな功績を残した人物が鳩摩羅什(くまらじゅう、344年~413年)、本名クマラジーヴァ、父はインド人、母は亀茲王の妹で熱心な仏教徒でした。
7歳で出家し、中央アジア、インドで仏教の教理を学び、前秦、苻堅の亀茲遠征時に捕らえられ涼州(甘粛省)に移り、その地で中国語を学びました。
後に後秦王の国師として長安に迎えられ(401年)、布教に努めると共に「妙法蓮華経」をはじめとする仏典35部294巻を漢訳しています。
以後、仏教は華北に於いて北魏朝廷の保護を受け(太武帝は弾圧しましたが)盛んとなり、又東晋から南朝にかけて、江南でも仏教は非常に盛んでした。
多くの仏寺、仏像が造営され、僧尼の数は激増し、特に南朝の梁の武帝は仏教に傾倒し、多くの名僧が輩出して南朝仏教の黄金期を現出しました。

法顕
東晋の僧、法顕(337年?~422年?)は出家生活に必要な戒律の原典を求める為に、60余歳の老齢で数人の同志と共に長安を出発 (399年)、敦煌を通り6年かかってインド(グプタ朝)に入り、仏跡を巡拝し、仏典を得てセイロン(現スリランカ)に渡り、インド、セイロンに約5年滞在した後、海路帰国の途につき412年に帰国します。
帰国後は仏典の漢訳に従事し、その旅行記「仏国記」は、当時の西域、インド、南海諸国(東南アジア)の事情を知る上で貴重な文献と成りました。
仏教の隆盛と共に仏寺、仏像が盛んに造られ、又各地に石窟、石仏が掘られましたが、特に敦煌、雲崗、竜門の各石窟は中国仏教遺跡として有名です。

敦煌莫高窟

敦煌・莫高窟第112窟壁画「反弾琵琶」. 唐(618~907年). 胡旋舞を踊る舞人
敦煌莫高窟(千仏洞)は五胡十六国時代の366年頃から鳴沙山の麓で開鑿され始め、元代(14世紀)迄の間に約1000窟が掘られ、492窟が現存しています。
仏像が約2400体、壁画(仏画、仏陀の生涯、仏陀の伝説等)が約4万5千平方メートルにわたって描かれており、1900年にその一窟の壁の中から5万点に及ぶ経典類、古写本、古文書が発見されました。
何故大量の経典等が窟の壁の中に隠されていたのかは、現在でも謎ですが11世紀の西夏の侵入による兵乱を避け、仏典を守る為に隠したとの解釈で書かれた作品が、井上靖氏の「敦煌」で、映画化されましたので見られた方も多いことでしょう。

雲崗石窟の第5・6窟

雲崗石窟第20窟 露天大仏
雲崗石窟は、鮮卑族が建国した北魏初期の都があった平城(現在の大同)の西20kmの所に位置する大石窟寺院で、3代太武帝の廃仏(仏教弾圧)の後に即位した4代文成帝(在位452年~465年)が仏教を復興し、5窟の大仏を造らせてから、6代孝文帝が洛陽に遷都する(494年)迄に大小53の石窟が東西1kmにわたって造営され、ガンダーラ、グプタ様式の影響を受けた仏像が並んでおり、特に有名な大仏は高さ14mに達します。
孝文帝の洛陽遷都の後、孝文帝の子、宣武帝が雲崗の石窟にならい、洛陽の南13kmの伊水に沿う竜門に、父と曾祖母の為に2窟を開き、更に自らの為に1窟を開きました。
完成に23年間、80万人の労働力が投じられたと云われています。
以後、唐の玄宗皇帝(在位712年~756年)迄の約250年間に2100余の石窟が開かれましたが、その仏像様式は雲崗に比べると中国化しています。
仏教の隆盛に刺激され、この頃道教が成立しました。
道教は後漢末の太平道(黄巾の乱の指導者である張角が始祖)や張陵の始めた五斗米道(天師道、祈祷によって病気を治し、謝礼に米5斗を取った)を起源とし、それに当時貴族の間に流行していた不老長生を願う神仙術と老荘思想、更には易、呪術、占卜等の様々な要素を含む宗教です。
北魏の寇謙之(363年~448年)は、河南省嵩山(すうざん)に20年間篭って修行し、天神の啓示を受けて、今迄の五斗米道を改革して新天師道を創始し、太武帝の尊信を受けて、道教を国教とし (442年)、更に太武帝に廃仏を行わせました。
道教は初めて国家公認の宗教となり、形式も整えられ、道士(道教の僧)・道観(道教の寺院)等の言葉や教団組織が確立されます。
道教の不老長生と現世的利益を願う教えが中国人に受け入れられ、以後長く民衆に信仰され、儒教、仏教と伴に中国の三大宗教のひとつと成りました。
ジョークは如何?
市民たちは密告やささいな咎で次々に逮捕、処刑され、だれもが次は自分の番だと恐れおののいて暮らしていた。
ある晩のことアパートをドンドン叩く音がして、その住人は震え上がり声も出ないようすで誰もドアを開けることができなかった。
とうとう、ひとりの老人が立ってドアを開けた。そして、すぐにうれしそうな顔で戻ってきて言った。
「みんな、安心しろ。ただの火事だ。」
続く・・・
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コメント
雲崗石窟が有名ですね~
良き日をお迎えくださいね
モーニンモーニング
(^_^)/おはよー
今日も楽しくいきましょう
+
☆。:.+: .
.. :. ξ´・∀・`)~♪
/ ̄ヽ/,― 、\ o。。。
.:☆ | ||三∪●)三mΕ∃.
.:* \_.へ--イ\ ゚ ゚ ゚
..♪.:。゚*.:.. (_)(_)☆。:.+:
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2014-09-21 04:50 流木庵{え~ちゃん} URL 編集