歴史を歩く46
10 北方民族の活動と中国の分裂④

5 朝鮮・日本の形成
朝鮮の歴史は、伝説的王朝である箕子(きし)朝鮮(?~紀元前190年頃、殷が滅亡した時、王族の箕子が朝鮮に入って建国したと伝えられる)と衛氏朝鮮(紀元前190年頃~紀元前108年、燕から亡命した衛満が箕子朝鮮に仕え、紀元前190年頃にその国を奪って建国したといわれる)に始まります。
前漢の武帝は、紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の4郡を設置しました。
以後約400年にわたって中国の支配が続きます。

広開土王
高句麗(?~668年)は、ツングース系(中国東北地方、東シベリアで狩猟・牧畜を主業としていた民族)の夫余(扶余)族が紀元前後の頃に、中国東北地方に建てた国です。
高句麗は、後漢末に、当時遼東半島で自立した公孫氏の討伐を受けて、鴨緑江中流域の北に移り(209年)、丸都城を築きますが、公孫氏を滅ぼした魏(220年~265年)の遠征軍に丸都城を奪われ(244年)、国王は東方に逃れました。
その後国力を立て直し、中国の混乱期に乗じて、313年に楽浪郡を滅ぼし、朝鮮北部を領有、そして高句麗は第19代の王、広開土王(好太王、在位391年~412年)、長寿王(在位412年~491年)、文咨王(在位491年~519年)の3代の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を領有する強国と成りました。
広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻め、百済救援に北上した日本軍を撃破します。
この物語が有名な好太王(広開土王)碑文に書かれており、倭(大和政権)が朝鮮半島に進出していたことを裏付ける史料とされてきました。
朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)、辰韓(南東部)、弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と呼ばれ、三韓の内部は更に多数の小国に分かれ、楽浪郡、帯方郡の間接的支配を受けていました。
3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一され、百済(4世紀中頃~660年)が成立、3世紀頃12の国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅(4世紀中頃~935年)が成立しました。
弁韓は、3世紀頃には12の国に分かれていたのですが、4世紀中頃日本が進出し、任那(4世紀後半~562年、加羅(から)・伽耶(かや)とも)を支配下に置きます。

4世紀頃の朝鮮半島
こうして4世紀から7世紀にかけて、朝鮮には高句麗、新羅、百済の三国が分立し、抗争を続けたので三国時代と呼ばれます。
6世紀にはいると百済、新羅が勢いを強め、南方の任那(加羅)諸国を次々に支配下に入れたので、大和政権は任那(加羅)に持っていた勢力の拠点を失い、朝鮮半島から事実撤退します(562年)。

有名な「魏志倭人伝」(「三国志」の一つ、「魏志」の「東夷伝」の倭人の条の通称)に「倭人は帯方郡の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国、漢の時朝見(朝貢し謁見するの意味)する者有り。・・・其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼という」と記述されています。
邪馬台国の卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いをおくり、「親魏倭王」の称号と多くの銅鏡を贈られました。
4世紀に入ると大和政権による統一が進み、5世紀には朝鮮半島における政治的、軍事的立場を有利にするために、中国皇帝の権威を利用しようと試み、そのために倭の五王はたびたび中国の南朝に使いを送り、皇帝から高い称号を得ようとしたのです。
倭の五王とは、中国の史書に出てくる讃、珍、済(せい)、興、武で、讃は応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、珍は仁徳天皇、反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇にあたると考えられています。
5世紀の初めからほぼ1世紀の間に9回朝貢した記録が「宋書」などの史書に残されています。
このような朝鮮、中国との交渉を通じて、5世紀から6世紀にかけて鉄器、土器を初めとする技術や漢字、儒教(513年)・仏教(538年、一説には552年)などの学問、宗教も伝わり、文化が進みました。

邪馬台国(イメージ)
ジョークは如何?
『人類の戦いの歴史において、かくも多くの人が、かくも多くのことを、かくも少ない人に委ねたことはいまだかつてなかった。』
この有名な言葉のシャレが当時のパイロットたちの間ではこんなふうにささやかれた。『多くのことを、少ない人にってのはな、
戦死する前に飲み屋のツケを払っておけってことだよ。』
続く・・・

5 朝鮮・日本の形成
朝鮮の歴史は、伝説的王朝である箕子(きし)朝鮮(?~紀元前190年頃、殷が滅亡した時、王族の箕子が朝鮮に入って建国したと伝えられる)と衛氏朝鮮(紀元前190年頃~紀元前108年、燕から亡命した衛満が箕子朝鮮に仕え、紀元前190年頃にその国を奪って建国したといわれる)に始まります。
前漢の武帝は、紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の4郡を設置しました。
以後約400年にわたって中国の支配が続きます。

広開土王
高句麗(?~668年)は、ツングース系(中国東北地方、東シベリアで狩猟・牧畜を主業としていた民族)の夫余(扶余)族が紀元前後の頃に、中国東北地方に建てた国です。
高句麗は、後漢末に、当時遼東半島で自立した公孫氏の討伐を受けて、鴨緑江中流域の北に移り(209年)、丸都城を築きますが、公孫氏を滅ぼした魏(220年~265年)の遠征軍に丸都城を奪われ(244年)、国王は東方に逃れました。
その後国力を立て直し、中国の混乱期に乗じて、313年に楽浪郡を滅ぼし、朝鮮北部を領有、そして高句麗は第19代の王、広開土王(好太王、在位391年~412年)、長寿王(在位412年~491年)、文咨王(在位491年~519年)の3代の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を領有する強国と成りました。
広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻め、百済救援に北上した日本軍を撃破します。
この物語が有名な好太王(広開土王)碑文に書かれており、倭(大和政権)が朝鮮半島に進出していたことを裏付ける史料とされてきました。
朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)、辰韓(南東部)、弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と呼ばれ、三韓の内部は更に多数の小国に分かれ、楽浪郡、帯方郡の間接的支配を受けていました。
3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一され、百済(4世紀中頃~660年)が成立、3世紀頃12の国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅(4世紀中頃~935年)が成立しました。
弁韓は、3世紀頃には12の国に分かれていたのですが、4世紀中頃日本が進出し、任那(4世紀後半~562年、加羅(から)・伽耶(かや)とも)を支配下に置きます。

4世紀頃の朝鮮半島
こうして4世紀から7世紀にかけて、朝鮮には高句麗、新羅、百済の三国が分立し、抗争を続けたので三国時代と呼ばれます。
6世紀にはいると百済、新羅が勢いを強め、南方の任那(加羅)諸国を次々に支配下に入れたので、大和政権は任那(加羅)に持っていた勢力の拠点を失い、朝鮮半島から事実撤退します(562年)。

有名な「魏志倭人伝」(「三国志」の一つ、「魏志」の「東夷伝」の倭人の条の通称)に「倭人は帯方郡の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国、漢の時朝見(朝貢し謁見するの意味)する者有り。・・・其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼という」と記述されています。
邪馬台国の卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いをおくり、「親魏倭王」の称号と多くの銅鏡を贈られました。
4世紀に入ると大和政権による統一が進み、5世紀には朝鮮半島における政治的、軍事的立場を有利にするために、中国皇帝の権威を利用しようと試み、そのために倭の五王はたびたび中国の南朝に使いを送り、皇帝から高い称号を得ようとしたのです。
倭の五王とは、中国の史書に出てくる讃、珍、済(せい)、興、武で、讃は応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、珍は仁徳天皇、反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇にあたると考えられています。
5世紀の初めからほぼ1世紀の間に9回朝貢した記録が「宋書」などの史書に残されています。
このような朝鮮、中国との交渉を通じて、5世紀から6世紀にかけて鉄器、土器を初めとする技術や漢字、儒教(513年)・仏教(538年、一説には552年)などの学問、宗教も伝わり、文化が進みました。

邪馬台国(イメージ)
ジョークは如何?
『人類の戦いの歴史において、かくも多くの人が、かくも多くのことを、かくも少ない人に委ねたことはいまだかつてなかった。』
この有名な言葉のシャレが当時のパイロットたちの間ではこんなふうにささやかれた。『多くのことを、少ない人にってのはな、
戦死する前に飲み屋のツケを払っておけってことだよ。』
続く・・・
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コメント
高句麗って大国だったんだ
気持ちの良い朝です、動きましょうヽ(^▽^@)ノ
(^^)>今日もよろしくお願いします
今日も元気よく参りましょうっする♪
?(。???。?)京都は雨です
zzZZ・・・
<⌒/ヽ-、___
/<_/____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
!?・・朝か?
<⌒/ヽ-、___
/<_/____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
シャキーン!!
∧ ∧∩
(〃・ω・)オハヨウ
⊂ ノ
(つノ
(ノ
___/(___
/ (___/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
2014-09-25 05:25 流木庵{え~ちゃん} URL 編集