歴史を歩く47
11東アジア文化圏の形成
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煬帝時代の版図と周辺諸国・諸民族:Wikipediaより
1 隋の統一
隋の建国者である楊堅(文帝、541年~604年、在位581年~604年)の父は、北周建国の功臣の一人で重臣でした。
楊堅は父の後を継いで、北周の将軍から最高官職である「八柱国」(府兵を指揮する貴族)となり、娘が北周4代皇帝宣帝の妃となったため外戚と成ります。
そして宣帝崩御の後、幼い静帝が即位すると後見となり、これに反対する政敵を倒し、静帝に迫って禅譲させ、隋王朝(581年~618年)を開きました。
尚、楊堅には鮮卑族の血が濃いとの説が在ります。
都は前王朝に引き続いて長安とし、その名を大興城と改め、588年南朝陳討伐の軍を起こし、翌589年に陳を滅ぼし、西晋の滅亡以来、約270年ぶりに中国を統一を果たしました。
文帝は、魏、晋、南北朝以来勢力を伸ばしてきた貴族の権力を弱め、皇帝の権力を強化し、中央集権的国家の樹立を図って行きます。

楊堅(隋王朝初代皇帝 文帝
その為、北朝の律令制度を継承しながら国家体制の整備を推進し、まず軍事面では府兵制を全国に実施しました(590年)。
府兵制は、西魏に始まり北周で行われた兵農一致の兵制で、均田農民から徴兵し、かわりに租庸調を免じる制度です。
更に経済面では、北斉に倣って、北魏以来の均田制をまず華北で、次いで全国で実施します(592年)。18歳~59歳の丁男に露田80畝・永業田20畝を支給し、租庸調の税を徴収しましたが、煬帝の時に北魏で行われていた妻や奴婢への給田を廃止し、官位に応じて官人永業田を与える制度に改めます。
これにより豪族、貴族は大土地を所有し、権威を保つためには隋の官位に就かなければならなくなりました。

科挙試験の風景
文帝が行った改革の中で最も重要な政策は、従来の九品中正にかわって科挙(選挙、官吏を選択推挙するの意味)と呼ばれる官吏任用制を始めたことです。
中正官の推薦による九品中正では「上品に寒門なく、下品に世族なし」といわれたように、上級官職を豪族が独占し、家柄は良いが無能な官吏がのさばり、家柄の低い貧しい家の才能ある者の進出を妨げることになったので、中正官を廃止し(598年)、学科試験の成績によって官吏を採用し、官吏への道を能力に応じて平等に開き、豪族、貴族による高級官職独占の弊害を除き、君主権の強化を図ったのです。
南北を統一した隋は、江南の米をはじめとする物資を運ぶために運河の開削を始め、文帝時代の584年に広通渠(長安と黄河を結ぶ運河)、更に587年に邗溝(淮河と長江を結ぶ運河)が開通します。是等運河延伸を更に大規模に行ったのが、次の煬帝です。
対外的には、当時北方で突厥が強大と成っていましたが、文帝は内紛に乗じて離間策をとり、そのため突厥は東西に分裂 (583年)、東方では高句麗が隋領に侵入してきたことを口実に30万の遠征軍を送りますがこの作戦は大失敗に終わります(598年)。

煬帝
文帝は、当初長男の楊勇を皇太子として指名していましたが、武将として優れた才能を持っていた次男の楊広は母に取り入り、兄を皇太子の位から追い落とし、自ら皇太子と成ります(600年)。
しかし、文帝が再び長男の勇を皇太子に立てようとしたことから、楊広は機先を制して父を毒殺し皇帝の位に就いたと言われています。
楊広は中国史上にその名前を残す第2代皇帝、煬帝(569年~618年、在位604年~618年)と成ります。
煬帝の煬は「天に逆らい、民を虐げる」の意味であり、上述の通り父を毒殺したとの説もあり、人民を酷使し、豪奢な生活を営なむ等、暴君とされ、中国史上の評判は余り良くは在りません。

隋朝時代の運河
煬帝は即位すると、毎月200万人を使役して洛陽に東都を造営しました。
煬帝は大運河の建設と結びつけて語られることが多いですが、大運河建設は煬帝の業績の中で最も有名であり重要な政策で、大運河は、幅30m~50mの水路で華北と江南の各地を結び、当時次第に開発が進み米作の中心となってきた江南(長江の中・下流域)の米を中心とする物資を、人口が多い華北へ運ぶために建設され、全長1500kmに及ぶ大運河は以後華北と江南を結ぶ大動脈となり、中国経済発展に大きく貢献し、現在もなお人々に恩恵を与えています。
大運河の建設は、既に文帝の時に始まっていましたが、大規模な建設を進め完成させたのが煬帝です。
煬帝が大運河を建設したのは、物資の輸送が主目的ではなく、彼が好んだ江都(揚州)への豪遊のためであるとも云われていますが、真実は解りません。
最初100万人を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさいきょ605年)を開削し、既に開通している邗溝を通って黄河と長江が結ばれることと成り、次いで永済渠(えいさいきょ、黄河~天津608年)、江南河(長江~杭州610年)が開通しました。

煬帝の龍船を引く民
通済渠が開通すると、最初の江都行幸が行われ、その時使用された煬帝の「竜舟」は長さ200尺(約60m)、高さ45尺、4層づくりで100数十の部屋が設けられ、更に諸王、百官、女官等10万人の随従の人々を乗せた舟が数千隻が続き、200里(1里は約560m)の列をなしたと云われています。
この為に舟の引き手として8万人が農村からかり出された、この江都行幸は3回行われますが、3度目の時煬帝はその地で殺害されます。
煬帝は対外的にも積極策を取り、北方の突厥に備えて「万里の長城」を修築しますが、この為に100万人の男女を徴発し、突貫工事で完成させ、又西の吐谷渾(とよくこん、青海省を中心に鮮卑系の人々が建てた国)を討って青海地方を併合し、西域諸国へも勢力を伸ばしました。
更に南の林邑(ヴェトナム南部にあったチャム人の国)を討ち、琉球(現在の台湾)を征服します。

遣隋使派遣
この頃、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣し (607年)、その時の国書に「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々」の文書に、煬帝が怒ったと云う話は有名です。
高句麗は、周辺諸国が朝貢する中で、煬帝の入朝の要求に従わなかったことから、突厥と結ぶことをおそれた煬帝は大規模な高句麗遠征を強行します。
第1回の遠征(611年)には、113万人を越える水陸の大軍が集められ、輸送にあたる者230万人が徴発され、行軍の長さは1000里にも達したと云われる程ですが、陸軍は遼河(遼東半島の西の河)の線で高句麗軍の頑強な抵抗に遭遇し6ヶ月も前進できず、一方水軍は陸軍の到着を待たずに高句麗の首都平壌から60里まで迫ったものの伏兵に遭遇して大敗、4万の兵は数千に迄消耗しました。
遅れて陸軍が平壌から30里まで迫った結果、高句麗は偽りの降伏を行い、やがて隋軍が撤退をはじめた処を強襲して大勝利を得ることに成りますが、隋軍30万5千のうち遼東まで脱出できた者はわずか2700人だったと伝えられています。
翌年(612年)、第2回目の遠征が行われますが、遼河を渡ったところで隋内地に楊玄感の反乱が起こり、全軍が反乱討伐にあたり2ヶ月で鎮圧します。
第3回の遠征が614年に行われ、今回は高句麗が実際に降伏したことから、軍は遼東から引き上げた。
高句麗遠征の失敗を機に、大土木事業や度重なる外征に徴発されて苦しんでいた農民が立ち上がり、各地で反乱が相次ぎ、こうした状況の中で自暴自棄となった煬帝は江都に移り(616年)、遊興にふける日々を送ることに成ります。
617年に李淵は長安に入り、煬帝の孫を擁立、終にクーデターが起こり、煬帝は近衛軍の兵士に殺され(618年)、隋は滅亡しました。
ジョークは如何?
ウィストン・チャーチルの言葉より、
「期待される政治家とは、明日なにが起きるかを、国民に予告できなくてはならない。そして、次の日、何故自分の予言通りにならなかったかを国民に納得させる能力がなくてはならない。」
続く・・・
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煬帝時代の版図と周辺諸国・諸民族:Wikipediaより
1 隋の統一
隋の建国者である楊堅(文帝、541年~604年、在位581年~604年)の父は、北周建国の功臣の一人で重臣でした。
楊堅は父の後を継いで、北周の将軍から最高官職である「八柱国」(府兵を指揮する貴族)となり、娘が北周4代皇帝宣帝の妃となったため外戚と成ります。
そして宣帝崩御の後、幼い静帝が即位すると後見となり、これに反対する政敵を倒し、静帝に迫って禅譲させ、隋王朝(581年~618年)を開きました。
尚、楊堅には鮮卑族の血が濃いとの説が在ります。
都は前王朝に引き続いて長安とし、その名を大興城と改め、588年南朝陳討伐の軍を起こし、翌589年に陳を滅ぼし、西晋の滅亡以来、約270年ぶりに中国を統一を果たしました。
文帝は、魏、晋、南北朝以来勢力を伸ばしてきた貴族の権力を弱め、皇帝の権力を強化し、中央集権的国家の樹立を図って行きます。

楊堅(隋王朝初代皇帝 文帝
その為、北朝の律令制度を継承しながら国家体制の整備を推進し、まず軍事面では府兵制を全国に実施しました(590年)。
府兵制は、西魏に始まり北周で行われた兵農一致の兵制で、均田農民から徴兵し、かわりに租庸調を免じる制度です。
更に経済面では、北斉に倣って、北魏以来の均田制をまず華北で、次いで全国で実施します(592年)。18歳~59歳の丁男に露田80畝・永業田20畝を支給し、租庸調の税を徴収しましたが、煬帝の時に北魏で行われていた妻や奴婢への給田を廃止し、官位に応じて官人永業田を与える制度に改めます。
これにより豪族、貴族は大土地を所有し、権威を保つためには隋の官位に就かなければならなくなりました。

科挙試験の風景
文帝が行った改革の中で最も重要な政策は、従来の九品中正にかわって科挙(選挙、官吏を選択推挙するの意味)と呼ばれる官吏任用制を始めたことです。
中正官の推薦による九品中正では「上品に寒門なく、下品に世族なし」といわれたように、上級官職を豪族が独占し、家柄は良いが無能な官吏がのさばり、家柄の低い貧しい家の才能ある者の進出を妨げることになったので、中正官を廃止し(598年)、学科試験の成績によって官吏を採用し、官吏への道を能力に応じて平等に開き、豪族、貴族による高級官職独占の弊害を除き、君主権の強化を図ったのです。
南北を統一した隋は、江南の米をはじめとする物資を運ぶために運河の開削を始め、文帝時代の584年に広通渠(長安と黄河を結ぶ運河)、更に587年に邗溝(淮河と長江を結ぶ運河)が開通します。是等運河延伸を更に大規模に行ったのが、次の煬帝です。
対外的には、当時北方で突厥が強大と成っていましたが、文帝は内紛に乗じて離間策をとり、そのため突厥は東西に分裂 (583年)、東方では高句麗が隋領に侵入してきたことを口実に30万の遠征軍を送りますがこの作戦は大失敗に終わります(598年)。

煬帝
文帝は、当初長男の楊勇を皇太子として指名していましたが、武将として優れた才能を持っていた次男の楊広は母に取り入り、兄を皇太子の位から追い落とし、自ら皇太子と成ります(600年)。
しかし、文帝が再び長男の勇を皇太子に立てようとしたことから、楊広は機先を制して父を毒殺し皇帝の位に就いたと言われています。
楊広は中国史上にその名前を残す第2代皇帝、煬帝(569年~618年、在位604年~618年)と成ります。
煬帝の煬は「天に逆らい、民を虐げる」の意味であり、上述の通り父を毒殺したとの説もあり、人民を酷使し、豪奢な生活を営なむ等、暴君とされ、中国史上の評判は余り良くは在りません。

隋朝時代の運河
煬帝は即位すると、毎月200万人を使役して洛陽に東都を造営しました。
煬帝は大運河の建設と結びつけて語られることが多いですが、大運河建設は煬帝の業績の中で最も有名であり重要な政策で、大運河は、幅30m~50mの水路で華北と江南の各地を結び、当時次第に開発が進み米作の中心となってきた江南(長江の中・下流域)の米を中心とする物資を、人口が多い華北へ運ぶために建設され、全長1500kmに及ぶ大運河は以後華北と江南を結ぶ大動脈となり、中国経済発展に大きく貢献し、現在もなお人々に恩恵を与えています。
大運河の建設は、既に文帝の時に始まっていましたが、大規模な建設を進め完成させたのが煬帝です。
煬帝が大運河を建設したのは、物資の輸送が主目的ではなく、彼が好んだ江都(揚州)への豪遊のためであるとも云われていますが、真実は解りません。
最初100万人を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさいきょ605年)を開削し、既に開通している邗溝を通って黄河と長江が結ばれることと成り、次いで永済渠(えいさいきょ、黄河~天津608年)、江南河(長江~杭州610年)が開通しました。

煬帝の龍船を引く民
通済渠が開通すると、最初の江都行幸が行われ、その時使用された煬帝の「竜舟」は長さ200尺(約60m)、高さ45尺、4層づくりで100数十の部屋が設けられ、更に諸王、百官、女官等10万人の随従の人々を乗せた舟が数千隻が続き、200里(1里は約560m)の列をなしたと云われています。
この為に舟の引き手として8万人が農村からかり出された、この江都行幸は3回行われますが、3度目の時煬帝はその地で殺害されます。
煬帝は対外的にも積極策を取り、北方の突厥に備えて「万里の長城」を修築しますが、この為に100万人の男女を徴発し、突貫工事で完成させ、又西の吐谷渾(とよくこん、青海省を中心に鮮卑系の人々が建てた国)を討って青海地方を併合し、西域諸国へも勢力を伸ばしました。
更に南の林邑(ヴェトナム南部にあったチャム人の国)を討ち、琉球(現在の台湾)を征服します。

遣隋使派遣
この頃、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣し (607年)、その時の国書に「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々」の文書に、煬帝が怒ったと云う話は有名です。
高句麗は、周辺諸国が朝貢する中で、煬帝の入朝の要求に従わなかったことから、突厥と結ぶことをおそれた煬帝は大規模な高句麗遠征を強行します。
第1回の遠征(611年)には、113万人を越える水陸の大軍が集められ、輸送にあたる者230万人が徴発され、行軍の長さは1000里にも達したと云われる程ですが、陸軍は遼河(遼東半島の西の河)の線で高句麗軍の頑強な抵抗に遭遇し6ヶ月も前進できず、一方水軍は陸軍の到着を待たずに高句麗の首都平壌から60里まで迫ったものの伏兵に遭遇して大敗、4万の兵は数千に迄消耗しました。
遅れて陸軍が平壌から30里まで迫った結果、高句麗は偽りの降伏を行い、やがて隋軍が撤退をはじめた処を強襲して大勝利を得ることに成りますが、隋軍30万5千のうち遼東まで脱出できた者はわずか2700人だったと伝えられています。
翌年(612年)、第2回目の遠征が行われますが、遼河を渡ったところで隋内地に楊玄感の反乱が起こり、全軍が反乱討伐にあたり2ヶ月で鎮圧します。
第3回の遠征が614年に行われ、今回は高句麗が実際に降伏したことから、軍は遼東から引き上げた。
高句麗遠征の失敗を機に、大土木事業や度重なる外征に徴発されて苦しんでいた農民が立ち上がり、各地で反乱が相次ぎ、こうした状況の中で自暴自棄となった煬帝は江都に移り(616年)、遊興にふける日々を送ることに成ります。
617年に李淵は長安に入り、煬帝の孫を擁立、終にクーデターが起こり、煬帝は近衛軍の兵士に殺され(618年)、隋は滅亡しました。
ジョークは如何?
ウィストン・チャーチルの言葉より、
「期待される政治家とは、明日なにが起きるかを、国民に予告できなくてはならない。そして、次の日、何故自分の予言通りにならなかったかを国民に納得させる能力がなくてはならない。」
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コメント
100万人を動員しましたか
(/・o・)今日も元気よく参りましょうっする♪
ヾ( ' - '*)オハヨ♪(^▽^)ゴザイマース
(^^)>今日もよろしくお願いします
. .パカッ
. .. .. ..γ""⌒ヽ,
. .. .. ..んヘ/V'vヘ
. .. . . (,・∀・,)ノ
. .. .. .( 'ヘ/V'ヘ|)
. .. .. . ゝ、._,ノ.
2014-09-29 04:20 流木庵{え~ちゃん} URL 編集
こんばんは
今となっては真実は分かりませんが。
2014-09-29 21:12 kopanda06 URL 編集