2014/09/29

歴史を歩く48

11東アジア文化圏の形成②

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唐時代のモンゴル、シベリア

2突厥の活動

 モンゴル高原では、鮮卑が華北に移動後の5~6世紀に、モンゴル系の柔然が強大と成り、モンゴル高原を中心に南満州からタリム盆地を支配下に置き、北魏と対立しました。
しかし、5世紀後半に支配下にあった高車が独立した後、次第に衰退し、6世紀中頃にトルコ系の突厥に滅ぼされます。

 アルタイ語族に属するトルコ人は、古くはモンゴル高原の北方、バイカル湖の南からアルタイ山脈にわたる地域で遊牧生活を営んでいました。

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突厥の兵士

 中国史に登場する丁零(ていれい、紀元前3世紀~後5世紀頃、初め匈奴に属し、後に独立、匈奴に対抗)、高車(こうしゃ、丁零の後身、柔然に属していたが、5世紀後半に独立、柔然と対立)、鉄勒(てつろく、丁零・高車の後身、隋・唐時代に中国人が突厥以外のトルコ人を呼んだ総称、バイカル湖の南からカスピ海にわたる広い地域に分布)等は何れもトルコ系民族です。

 トルコ系遊牧民のうち、アルタイ山脈の西南に居住した人々は、初め柔然に服属していましたが、6世紀中頃から強大となり、柔然を滅ぼし、モンゴル高原にトルコ人による統一国家を建国します。この国は中国では突厥(とっけつ、トルコの正しい音のテュルクの音訳)と呼ばれました。

 遊牧国家の君主はハガン(可汗)の称号を用い、国を保つ王の意味で、柔然の王が初めて用いたとされていますが、突厥の君主もこの称号を用いました。
 突厥の建国者は伊利(いり)可汗(552年~553年)と号し、その子3代の王、木杆(もくかん)可汗(?~572年)の時、ササン朝ホスロー1世と同盟しエフタル(5~6世紀に中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族)を挟撃して滅ぼし(566年)、東は満州から西は中央アジアに跨る大帝国となりました。
そしてシルク・ロードを押さえて巨利を得て繁栄しますが、6世紀末内紛が発生、当時成立したばかりの隋の文帝はこの内紛を利用して離間を図ったので、突厥はモンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂しました(583年)。

 その後間も無く東突厥は隋に朝貢する事と成り、その後も内紛が続いたのですが、7世紀初頭の隋末の混乱に乗じて、再び勢いを取り戻しますが、630年に唐によって滅ぼされます。

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突厥文字

 19世紀末、ロシアの考古学者ニコライ・ヤドリチェフがオルホン川(モンゴル高原からバイカル湖に注ぐ川)の流域で碑文(ホショ・ツァイダム碑文)を発見し、デンマークの言語学者ウィルヘルム・トムセンによって解読されました。
この碑文は、東突厥の可汗の功績を讃えたもので、732年~735年に建てられたものであることが分かり、そこから8世紀のトルコ語を記録した突厥文字が、北方遊牧民族の最古の文字であることが明らかに成りました。
  
3唐の盛衰(その1)

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李淵

 隋末、煬帝の高句麗遠征の失敗を機に各地で農民反乱が勃発しますが、これに各地の豪族が加わり、各地に国を建て皇帝を称し、中国全土で激しい抗争が続きました。
その混乱を収め、唐(618年~907年)を建国する人物が、山西で挙兵した李淵、即ち唐の高祖(565年~635年、在位618年~626年)です。
李淵の先祖は、隋を建てた楊氏と同様に鮮卑が多く居住した武川の軍閥で、祖父は西魏、北周の「八柱国」(府兵を指揮する軍人貴族)である最高官職に就いていました。
この為、李氏は鮮卑族であると云う説も存在しています。

 李淵は7歳で父の後を継いで北周に仕え、楊堅(文帝)が隋を建てると、李淵の母が楊堅の皇后の姉にあたる(李淵と煬帝は従兄弟)ことから、隋に仕えて八柱国と成りました。
しかし、煬帝に警戒され、中央の官職に就くことは叶わず、地方長官等を歴任し、隋末の混乱期には、突厥防衛の為に山西の留守(りゅうしゅ、非常時に皇帝から文武の大権を委任された官職)の地位に在りましたが、次男の李世民(後の2代皇帝太宗)の勧めで挙兵し(617年)、突厥の援助を得て長安を占領します。

当時、煬帝は江都に在り、李淵は孫の恭帝を擁立して即位させ、煬帝が暗殺されると、恭帝に禅譲させ、唐王朝(618年~907年)を樹立し、首都を長安に定め、唐の基礎を固めました。

 しかし、唐は成立しましたが、未だ長安の地方政権にすぎず、各地には皇帝を称する群雄が割拠し、唐は群雄平定に10年近くの歳月を費やし、次の太宗の時代にやっと中国統一を達成しました(628年)。この間、次男の李世民の活躍は目覚しく、皇太子であった長男の李建成はこれを妬み、三男の李元吉と結んで李世民暗殺を企てますが、反対に殺さます(玄武門の変、626年)。

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李世民

 これを見た高祖は、李世民に譲位し、李世民は即位して太宗(在位626年~649年)となり、年号を貞観(じょうがん)と改めました。
太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、房玄齢や杜如晦(とじょかい)らの名臣に補佐されて、国内はよく治まり、理想的な政治が行われた時代とされます。
唐は、隋の制度をほぼそのまま継承し、高祖、太宗の2代にわたって律令体制を整備、確立しました。

 中央官制としては、三省・六部(りくぶ)を置き、ここで三省とは中書省(詔勅の立案・起草を司る)・門下省(詔勅の審議を行う、修正や拒否の権限があったので、貴族勢力の牙城となった)・尚書省(詔勅を実施する行政機関)であり、尚書省の下に、吏部(官吏の選任を担当)・戸部(財政を担当)・礼部(祭祀、教育を担当)兵部(軍事を担当)・刑部(裁判を担当)・工部(土木を担当)の六部が置かれました。
そして官吏の監察機関として御史台(ぎょしだい)が置かれました。

 又、地方統治制度としては州県制を施行し、全土を10道に分け(627年)、その下に州(隋、唐は従来の郡を廃して州とした)、県を置き、長安、洛陽、太原の重要都市には府を設置しました。

 唐は律、令(れい、りょう)を整備し、成文法に基づいて政治を行うしくみ、いわゆる律令体制を完成しました。
律は刑法、令は行政法ないし民法典を意味します。
他に補充改正規定である格(かく、きゃく)と施行細則である式が存在し、この律令体制は日本をはじめ東アジア諸国に大きな影響を及ぼしました。

 官吏任用制度としては、隋で始まった科挙制を受け継いで強化します。
唐代の科挙科目には秀才、明経、進士、明法、明算等が在り、唐初期には政治についての意見や時事問題についての対策等の論文を課す秀才が最高のものとされましたが(学才を持つ人を秀才と呼ぶ語源)、中期以降は明経と進士が主要な科と成りました。

 明経は儒教の古典である「五経」が課せられ、進士は文章と詩賦によって作文能力をためすものでした。
次第に進士が重視されるようになり、合格者は将来の栄達が約束されたも同然でですが、当然、狭き門となり、進士科の毎年の合格者は、1000~2000人の応募者に対して10人前後であったと云います。

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東突厥討伐

 対外的には、それまで北方で強大な勢力を持ち、隋・唐にとって脅威であった東突厥を討って可汗(かかん、突厥の王の称号)を捕虜としました(630年)。
当時、異常気象が突厥の地を襲い、連年の雪害で大量の家畜が死に、可汗が税を厳しく取り立てたために諸部が離反した時に乗じて討伐軍を派遣し、可汗を捕虜とする大勝利を得て、長年の北方の脅威を取り除くことに成功し、後に安北都護府を置いて統治します。

 更に青海地方にあった吐谷渾(とよくこん)を服属させ(635年)、639年には中央アジアのトゥルファン地方にあって栄えていた漢人系の高昌(こうしょう)に遠征軍を送り、640年にこれを滅ぼし、安西都護府を設置して(640年)西域地方を支配下におさめました。

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文成公主

 当時、チベットにソンツェン・ガンポ(?~649年)が出て、640年頃迄にチベット高原全体を征服して吐蕃(とばん)を建国、唐の西辺に侵入しました。
そのため唐の太宗は、文成公主(?~689年)を降嫁させ(641年)、親和関係を成立させます。
文成公主は唐と吐蕃の和平に尽力し、又中国の文物がチベットに入るきっかけをつくるなどの功績により、現在もラマ教(チベット仏教)の尊像に刻まれてチベット人に敬愛されています。

 東方では高句麗遠征を行ますが(645年)、これは大失敗に終っています。

 太宗時代に度々の対外遠征により、唐の領土は拡大し、大帝国となり、次の高宗の時代に唐の領土は最大と成りました。

ジョークは如何?

シベリアの強制収容所にて。
「きみは、どうしてここにいるんだい?」
「1939年に同志ポポフの悪口を言ったからさ。で、きみは?」
「ぼくは1943年に同志ポポフを誉めたからだよ」
二人はもう一人の囚人に問いかけた。
「きみは?」

「私はポポフだ」


続く・・・
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