歴史を歩く51
11東アジア文化圏の形成⑤

4 唐の盛衰(その4)
安史の乱は平定されましたが、長安、洛陽等の都市や農村は荒廃し、唐を支えた三本柱である均田制、租庸調制、府兵制は崩壊し、この反乱を機に国力は衰退して行きました。
唐は、安史の乱をウイグルの援助で平定した為、以後北からのウイグルと西からの吐蕃の侵入に脅かされる結果となり、特に吐蕃には一時長安を占領され (763年)、 西域地方は彼等の支配下に置かれ、唐は其れまでの征服地の大半を失いました。

唐の弱体化に乗じて異民族の侵入が繰り返される中で、当初辺境にのみ置かれていた節度使が、内地にも置かれる様になり、その数は40から50にも及びました。
彼等は、その地方の軍事権のみならず、政治、財政権も掌握した上に軍閥を形成し、中央から独立した勢力となり、次第に藩鎮と呼ばれる様に成っていきます。

宦官
中央では、宦官が財政、軍事権を握るようになり、宦官は憲宗(11代、在位805年~820年)を殺害して穆宗(ぼくそう)を擁立し以後、宦官は皇帝を殺害、追放して次の皇帝を立て、継承権の在る皇太子を廃しては意のままになる人物を皇太子に立てて行きます。
文宗(14代、在位826年~840年)は宦官の排除に失敗し、宦官勢力は以後益々強まって行きました。
この間、徳宗(9代、在位779年~805年)は、安史の乱後の回復を図り、楊炎(727年~781年)の献策によって両税法(後述)と呼ぶ新税法を実施します(780年に全面実施)。
画期的税制改革を断行した結果、財政は一時好転したものの、後に再び財政難に陥り、財政の立て直しの為の増税、宦官や節度使の横暴、外民族の侵入による軍事費の増大等は、結局人民に負担増としてのしかかってきます。

人民と黄巣
こうした中で、逃亡して流民となる農民が続出し、貧富の差は益々大きくなり、社会不安が増大していきました。
この様な状況の中で黄巣の乱(875年~884年)が勃発します。
黄巣(?~884)は、山東省に生まれ、科挙を目指しましたが数度受験に失敗し、後に塩の密売人となって富裕となり、多くの侠客を養っていました。
塩は言うまでもなく生活必需品ですが、唐はこれを専売とし、重要な財源でした。
唐の財政が窮乏する中で、塩の価格は上昇に上昇を続け、750年に1斗10銭であったものが、788年には370銭にも成りました。
塩の密売人は、政府の価格より安く売っても大きな利益を得ることが出来、貧しい人々からは喜ばれました。
彼等は大規模な組織を作り、自ら兵を養って武装して行商を行い、貧しい農民や流民を養っていきます。
同じ塩の密売人の王仙芝(?~878年)が、河北で挙兵し(875年)、山東に進出してきました。
黄巣はこれに呼応して河南、山東を荒らし回ったものの、王仙芝が唐の官職につられて投降しようとした結果、これと別れ王仙芝が敗死した後、その軍を吸収して江南、福建を経て広州を陥れ、そこから北上して長江流域に進出し、北上して洛陽、長安を占領 (880年)、帝位に就いて国号を大斉と称しました。
長安に入った時、反乱軍は60万に達していました。
しかし、唐の反攻に遭遇して長安を撤退し(883年)、故郷の近くの泰山で自害 (884年)しました。
黄巣の乱は略10年にわたり、四川以外の殆ど全中国を荒掠しました。
唐が安史の乱後も150年間近く続いたのは、経済の中心である江南が荒廃を免れた為ですが、その江南が荒掠された事は、唐に決定的な打撃を与える事となり、唐は衰退の一途をたどります。
日本からの遣唐使が廃止(894)された理由の一つは、黄巣の乱によって中国への渡航が危険になった事でした。

朱温(852年~912年)は黄巣の乱の有力な部将の一人で、彼は安徽省に生まれ、早く父を失い、母と貧しい生活を送っていたましたが、黄巣の乱が起こるとこれに加わります。
しかし、黄巣軍が長安を占領したものの略奪、放火、殺人等で人心を失うと、黄巣を見限って唐に寝返り、「全忠」の名を与えられ(以後、朱全忠と呼ばれる)、開封の節度使に任じられました(883年)。朱全忠は、黄巣の乱鎮圧の功によって着々と力をつけ、昭宗(19代、在位888年~904年)を殺害して、哀宗(20代、唐最後の皇帝、在位904年~907年)を即位させ、哀宗に迫って禅譲させ、907年遂に皇帝となり、国号を梁(後梁:こうりょう)と改め、都を開封に定めました。
こうして20代、約290年間続いた唐は終に滅亡しました。
5 隋・唐の社会

均田制、租庸調制の概念
隋の文帝は、国家権力の強化に努め、貴族の力を弱める為に均田制を施行して大土地所有を制限し、租庸調制、府兵制を行いました。
唐も隋の制度を継承し、均田制、租庸調制、府兵制を実施し、この3つの制度は、唐を支える三本柱であり、お互いに密接に関連しており、その一つが崩れると全部が崩れる性格のものでもあったのです。
唐の均田制は、高祖の代に隋の制度をもとに制定され (624年)、丁男(21歳から59歳)と中男(16歳から20歳)に口分田(穀物を植える土地)80畝と永業田(桑、麻を植える土地)20畝、計100畝を支給しました。
100畝は、日本の5町5反で約5.5haの相当し、1haは10000平方メートルである為、日本の農地の規模から見ると広大な土地でした。
日本の班田収授の法に於ける口分田は2反(約23a)で、口分田はその人一代に限って使用が認められ、死ねば国家に返還させましたが、永業田は子孫への世襲が認められていました。
この他に、官人永業田(高級官僚への永業田、官位により広さは異なるが、大きなものは1万畝)、職分田(官職に応じて授ける土地)、公廨田(こうかいでん、官庁の公費にあてるための土地)等が在り、老男、身体の不住な人、寡婦、丁男のいない戸主、商工業者、僧侶、道士(道教の僧)・特殊身分への給田もあったのです。
均田制が始まった北魏では、妻、奴婢更に耕牛に迄土地が支給されましたが、隋では奴婢や耕牛への支給がなく、更に唐では妻への支給もなくなり、成年男子が支給の対象とされました。
政府は農民に土地を均等に与える事によって、自作農を増加させ、土地への定着を図り、均田農民に租税と兵役を負担させ、同時に貴族の大土地所有を制限しようと試みたのですが、全国で土地の支給と返還がどの程度行われたかは良くわかっていません。
土地を支給される代わりに均田農民には租・庸・調が課せられました(624年制定)。
唐の租は粟(ぞく、外皮がついたままの穀物)2石(1石は26.73kg)、庸は年間20日の無償労働又は1日絹3尺(1尺は31.1cm)・布(あさぬの)3.5尺の割で換算した代償、そして調は絹2丈(1丈は10尺)と綿(まわた)3両(1両は37.3g)又は布2.5丈と麻3斤(1斤は222.7g)でした。
この他に雑徭(ざつよう、ぞうよう)と呼ばれ地方での土木事業等に労役を提供する制度が在り、年間40日以内(50日説も存在)とされていました。
府兵制は、西魏で始まり隋、唐で整備された兵農一致の兵制です。
唐では全国に折衝府(せつしょうふ、全国の約600カ所に設置された軍営、その8割は長安、洛陽周辺に在り、府兵の徴集、訓練、動員などを司った)を置き、丁男中から強健な府兵を選び農閑期に訓練し、国都の衛士及び辺境の防人になりました。兵役期間中の租庸調は免除されましたが、武器、衣服は自弁でした。
636年に制定されましたが、均田制崩壊による均田農民の没落と共に、募兵制に変化し、749年に廃止されました。
唐に於いて、貴族は父祖の官位に従って任官する蔭位(おんい)の制によって官僚となり、上級の官職を独占していました。
しかも、唐の均田制では、官人永業田や職分田等官僚を優遇する制度が存在し、高級官僚では永業田だけで100頃(けい、1頃は100畝)、下級官僚でも職分田と永業田を合わせると4頃在りました。
従って高級官僚を出した一族は、数代経つと永業田が蓄積されて大土地所有者となり、貴族による大土地所有制が事実上認められていたのです。
元来、国家から支給された土地を売買することは禁止されていましたが、高宗の頃には土地の売買が行われるようになり、貴族、官僚、寺院等による土地の兼併が進み、大土地所有制が進展しました。これ等の貴族等の所有地(私有地)は荘園と呼ばれ、貴族は荘園を奴婢や半奴隷的な小作人に耕作させたのです。
均田制は、8世紀の初め頃から行きづまりだしました。
人口が増加し、土地が不足する様になり、土地の支給や返還が上手く行かなくなり、農民や官僚に与えられた永業田が売買されていきました。
更に、産業や商業が発達して貧富の差が大きくなり、貴族や新興の地主等は、山林、沼沢、辺地を開発して荘園を広げ、貧しい農民の土地を奪い荘園をいっそう広げていったのでした。
均田農民の負担のうち、租、調の負担はあまり重くありませんでしたが、農民を苦しめたのは庸と徴兵でした。
玄宗の時代、外征に多くの農民が狩り出され、農地は荒廃し、特に安史の乱後、政治的混乱の中で、土地を捨てて、当ても無くさまよう流民の群が各地にうまれました。
その一方で、没落して逃亡した農民を労働力とする荘園が益々発展していきました。
均田制が上手く行かなくなると、府兵制は実施困難となり、募兵制が行われる様になりました。
玄宗は723年に12万人の兵を募集したとの記録が在ります。
募兵制の発達により、府兵制は749年に廃止されました。
又均田制の崩壊と共に、租庸調の税制も行われなくなり、唐の財政は窮乏します。
こうした状況を打開する為に実施された税制が両税法と呼ばれる新税制です。
徳宗(9代、在位779年~805年)は、安史の乱後の回復をはかり、楊炎(727年~781年)を宰相に任命し、楊炎の意見を入れて、780年に両税法を全面的に実施しました。
両税法は、現住地で(土地を捨てて移動した農民を、元の土地に戻す事を放棄し、現に居住する場所で課税)、実際に所有している土地や資産の額に応じて(均田制では租は粟2石というように税は均等でしたが、両税法では多くの土地、資産を所有する人からは多くの税を徴収しようとした。これは唐が大土地所有制を認めた事を意味します)、 夏6月(麦の取り入れ期)と秋11月(稲の取り入れ期)の年2回徴収する(ここから両税法の名が来ている、両は二つの意味)税法で、銭納を原則とし(実際の納入には、粟や布帛などの代納を認めた)、単税主義(今までは租庸調以外にも雑多な税があったが、税を一本化した)を採りました。
この両税法の施行によって、唐の国家財政は一時的に好転します。
しかし、楊炎は、政敵を暗殺し、独断専行した為、徳宗の信任を失い、又藩鎮(節度使)の反感を受け、宰相の地位を追われ、左遷されて赴任する途中で自害を命じられます。
両税法は、その後、土地税の性格を強め、宋、元、明に受け継がれ、明の中期に一条鞭法が実施される迄、ほぼ800年に亘って続く事になる画期的な税法でした。
こうして、唐を支えた三本柱である均田制、租庸調制、府兵制は、安史の乱後、完全に崩壊し、行われなく成りました。

ジョークは如何?
外国新聞の特派員がチェコ人にきいた。
「あなたはソ連人を友人と考えていますか? それとも兄弟と考えていますか?」
チェコ人は答えた。
「もちろん、兄弟ですよ。友人は自分で選ぶものですからね。しかし兄弟だと選べませんから。」
続く・・・

4 唐の盛衰(その4)
安史の乱は平定されましたが、長安、洛陽等の都市や農村は荒廃し、唐を支えた三本柱である均田制、租庸調制、府兵制は崩壊し、この反乱を機に国力は衰退して行きました。
唐は、安史の乱をウイグルの援助で平定した為、以後北からのウイグルと西からの吐蕃の侵入に脅かされる結果となり、特に吐蕃には一時長安を占領され (763年)、 西域地方は彼等の支配下に置かれ、唐は其れまでの征服地の大半を失いました。

唐の弱体化に乗じて異民族の侵入が繰り返される中で、当初辺境にのみ置かれていた節度使が、内地にも置かれる様になり、その数は40から50にも及びました。
彼等は、その地方の軍事権のみならず、政治、財政権も掌握した上に軍閥を形成し、中央から独立した勢力となり、次第に藩鎮と呼ばれる様に成っていきます。

宦官
中央では、宦官が財政、軍事権を握るようになり、宦官は憲宗(11代、在位805年~820年)を殺害して穆宗(ぼくそう)を擁立し以後、宦官は皇帝を殺害、追放して次の皇帝を立て、継承権の在る皇太子を廃しては意のままになる人物を皇太子に立てて行きます。
文宗(14代、在位826年~840年)は宦官の排除に失敗し、宦官勢力は以後益々強まって行きました。
この間、徳宗(9代、在位779年~805年)は、安史の乱後の回復を図り、楊炎(727年~781年)の献策によって両税法(後述)と呼ぶ新税法を実施します(780年に全面実施)。
画期的税制改革を断行した結果、財政は一時好転したものの、後に再び財政難に陥り、財政の立て直しの為の増税、宦官や節度使の横暴、外民族の侵入による軍事費の増大等は、結局人民に負担増としてのしかかってきます。

人民と黄巣
こうした中で、逃亡して流民となる農民が続出し、貧富の差は益々大きくなり、社会不安が増大していきました。
この様な状況の中で黄巣の乱(875年~884年)が勃発します。
黄巣(?~884)は、山東省に生まれ、科挙を目指しましたが数度受験に失敗し、後に塩の密売人となって富裕となり、多くの侠客を養っていました。
塩は言うまでもなく生活必需品ですが、唐はこれを専売とし、重要な財源でした。
唐の財政が窮乏する中で、塩の価格は上昇に上昇を続け、750年に1斗10銭であったものが、788年には370銭にも成りました。
塩の密売人は、政府の価格より安く売っても大きな利益を得ることが出来、貧しい人々からは喜ばれました。
彼等は大規模な組織を作り、自ら兵を養って武装して行商を行い、貧しい農民や流民を養っていきます。
同じ塩の密売人の王仙芝(?~878年)が、河北で挙兵し(875年)、山東に進出してきました。
黄巣はこれに呼応して河南、山東を荒らし回ったものの、王仙芝が唐の官職につられて投降しようとした結果、これと別れ王仙芝が敗死した後、その軍を吸収して江南、福建を経て広州を陥れ、そこから北上して長江流域に進出し、北上して洛陽、長安を占領 (880年)、帝位に就いて国号を大斉と称しました。
長安に入った時、反乱軍は60万に達していました。
しかし、唐の反攻に遭遇して長安を撤退し(883年)、故郷の近くの泰山で自害 (884年)しました。
黄巣の乱は略10年にわたり、四川以外の殆ど全中国を荒掠しました。
唐が安史の乱後も150年間近く続いたのは、経済の中心である江南が荒廃を免れた為ですが、その江南が荒掠された事は、唐に決定的な打撃を与える事となり、唐は衰退の一途をたどります。
日本からの遣唐使が廃止(894)された理由の一つは、黄巣の乱によって中国への渡航が危険になった事でした。

朱温(852年~912年)は黄巣の乱の有力な部将の一人で、彼は安徽省に生まれ、早く父を失い、母と貧しい生活を送っていたましたが、黄巣の乱が起こるとこれに加わります。
しかし、黄巣軍が長安を占領したものの略奪、放火、殺人等で人心を失うと、黄巣を見限って唐に寝返り、「全忠」の名を与えられ(以後、朱全忠と呼ばれる)、開封の節度使に任じられました(883年)。朱全忠は、黄巣の乱鎮圧の功によって着々と力をつけ、昭宗(19代、在位888年~904年)を殺害して、哀宗(20代、唐最後の皇帝、在位904年~907年)を即位させ、哀宗に迫って禅譲させ、907年遂に皇帝となり、国号を梁(後梁:こうりょう)と改め、都を開封に定めました。
こうして20代、約290年間続いた唐は終に滅亡しました。
5 隋・唐の社会

均田制、租庸調制の概念
隋の文帝は、国家権力の強化に努め、貴族の力を弱める為に均田制を施行して大土地所有を制限し、租庸調制、府兵制を行いました。
唐も隋の制度を継承し、均田制、租庸調制、府兵制を実施し、この3つの制度は、唐を支える三本柱であり、お互いに密接に関連しており、その一つが崩れると全部が崩れる性格のものでもあったのです。
唐の均田制は、高祖の代に隋の制度をもとに制定され (624年)、丁男(21歳から59歳)と中男(16歳から20歳)に口分田(穀物を植える土地)80畝と永業田(桑、麻を植える土地)20畝、計100畝を支給しました。
100畝は、日本の5町5反で約5.5haの相当し、1haは10000平方メートルである為、日本の農地の規模から見ると広大な土地でした。
日本の班田収授の法に於ける口分田は2反(約23a)で、口分田はその人一代に限って使用が認められ、死ねば国家に返還させましたが、永業田は子孫への世襲が認められていました。
この他に、官人永業田(高級官僚への永業田、官位により広さは異なるが、大きなものは1万畝)、職分田(官職に応じて授ける土地)、公廨田(こうかいでん、官庁の公費にあてるための土地)等が在り、老男、身体の不住な人、寡婦、丁男のいない戸主、商工業者、僧侶、道士(道教の僧)・特殊身分への給田もあったのです。
均田制が始まった北魏では、妻、奴婢更に耕牛に迄土地が支給されましたが、隋では奴婢や耕牛への支給がなく、更に唐では妻への支給もなくなり、成年男子が支給の対象とされました。
政府は農民に土地を均等に与える事によって、自作農を増加させ、土地への定着を図り、均田農民に租税と兵役を負担させ、同時に貴族の大土地所有を制限しようと試みたのですが、全国で土地の支給と返還がどの程度行われたかは良くわかっていません。
土地を支給される代わりに均田農民には租・庸・調が課せられました(624年制定)。
唐の租は粟(ぞく、外皮がついたままの穀物)2石(1石は26.73kg)、庸は年間20日の無償労働又は1日絹3尺(1尺は31.1cm)・布(あさぬの)3.5尺の割で換算した代償、そして調は絹2丈(1丈は10尺)と綿(まわた)3両(1両は37.3g)又は布2.5丈と麻3斤(1斤は222.7g)でした。
この他に雑徭(ざつよう、ぞうよう)と呼ばれ地方での土木事業等に労役を提供する制度が在り、年間40日以内(50日説も存在)とされていました。
府兵制は、西魏で始まり隋、唐で整備された兵農一致の兵制です。
唐では全国に折衝府(せつしょうふ、全国の約600カ所に設置された軍営、その8割は長安、洛陽周辺に在り、府兵の徴集、訓練、動員などを司った)を置き、丁男中から強健な府兵を選び農閑期に訓練し、国都の衛士及び辺境の防人になりました。兵役期間中の租庸調は免除されましたが、武器、衣服は自弁でした。
636年に制定されましたが、均田制崩壊による均田農民の没落と共に、募兵制に変化し、749年に廃止されました。
唐に於いて、貴族は父祖の官位に従って任官する蔭位(おんい)の制によって官僚となり、上級の官職を独占していました。
しかも、唐の均田制では、官人永業田や職分田等官僚を優遇する制度が存在し、高級官僚では永業田だけで100頃(けい、1頃は100畝)、下級官僚でも職分田と永業田を合わせると4頃在りました。
従って高級官僚を出した一族は、数代経つと永業田が蓄積されて大土地所有者となり、貴族による大土地所有制が事実上認められていたのです。
元来、国家から支給された土地を売買することは禁止されていましたが、高宗の頃には土地の売買が行われるようになり、貴族、官僚、寺院等による土地の兼併が進み、大土地所有制が進展しました。これ等の貴族等の所有地(私有地)は荘園と呼ばれ、貴族は荘園を奴婢や半奴隷的な小作人に耕作させたのです。
均田制は、8世紀の初め頃から行きづまりだしました。
人口が増加し、土地が不足する様になり、土地の支給や返還が上手く行かなくなり、農民や官僚に与えられた永業田が売買されていきました。
更に、産業や商業が発達して貧富の差が大きくなり、貴族や新興の地主等は、山林、沼沢、辺地を開発して荘園を広げ、貧しい農民の土地を奪い荘園をいっそう広げていったのでした。
均田農民の負担のうち、租、調の負担はあまり重くありませんでしたが、農民を苦しめたのは庸と徴兵でした。
玄宗の時代、外征に多くの農民が狩り出され、農地は荒廃し、特に安史の乱後、政治的混乱の中で、土地を捨てて、当ても無くさまよう流民の群が各地にうまれました。
その一方で、没落して逃亡した農民を労働力とする荘園が益々発展していきました。
均田制が上手く行かなくなると、府兵制は実施困難となり、募兵制が行われる様になりました。
玄宗は723年に12万人の兵を募集したとの記録が在ります。
募兵制の発達により、府兵制は749年に廃止されました。
又均田制の崩壊と共に、租庸調の税制も行われなくなり、唐の財政は窮乏します。
こうした状況を打開する為に実施された税制が両税法と呼ばれる新税制です。
徳宗(9代、在位779年~805年)は、安史の乱後の回復をはかり、楊炎(727年~781年)を宰相に任命し、楊炎の意見を入れて、780年に両税法を全面的に実施しました。
両税法は、現住地で(土地を捨てて移動した農民を、元の土地に戻す事を放棄し、現に居住する場所で課税)、実際に所有している土地や資産の額に応じて(均田制では租は粟2石というように税は均等でしたが、両税法では多くの土地、資産を所有する人からは多くの税を徴収しようとした。これは唐が大土地所有制を認めた事を意味します)、 夏6月(麦の取り入れ期)と秋11月(稲の取り入れ期)の年2回徴収する(ここから両税法の名が来ている、両は二つの意味)税法で、銭納を原則とし(実際の納入には、粟や布帛などの代納を認めた)、単税主義(今までは租庸調以外にも雑多な税があったが、税を一本化した)を採りました。
この両税法の施行によって、唐の国家財政は一時的に好転します。
しかし、楊炎は、政敵を暗殺し、独断専行した為、徳宗の信任を失い、又藩鎮(節度使)の反感を受け、宰相の地位を追われ、左遷されて赴任する途中で自害を命じられます。
両税法は、その後、土地税の性格を強め、宋、元、明に受け継がれ、明の中期に一条鞭法が実施される迄、ほぼ800年に亘って続く事になる画期的な税法でした。
こうして、唐を支えた三本柱である均田制、租庸調制、府兵制は、安史の乱後、完全に崩壊し、行われなく成りました。

ジョークは如何?
外国新聞の特派員がチェコ人にきいた。
「あなたはソ連人を友人と考えていますか? それとも兄弟と考えていますか?」
チェコ人は答えた。
「もちろん、兄弟ですよ。友人は自分で選ぶものですからね。しかし兄弟だと選べませんから。」
続く・・・
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コメント
唐の時代興味あり
こんにちは。
いつもありがとうございます。
秋の深まりが人生の充足感と比例するような
素敵な季節でありますように(*^▽^*)
[お] [は] [よ] [う]
∥∧∧ ∥∧∧ ∥∧,,∧
∩・ω・) ∩・ω・), ∩・ω・)
( ), ( ).,,( ),
`u-u´,, u-u´ ,, u-u´ ,`
素敵な一日でありますように
2014-10-14 06:29 流木庵{え~ちゃん} URL 編集