2014/10/18

歴史を歩く53

11東アジア文化圏の形成⑦

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呉道玄:八十七神仙図巻(部分)

5 唐代の文化②

(3) 文化

◎儒教
 
 儒教も、唐初期から儒教の興隆に力をそそいだことに加え、特に儒教の古典が科挙の必修科目になったことから盛んでした。

 太宗に仕えて国子監(中央の諸学校を統轄した機関)の長官や皇太子の教育係等を歴任した孔頴達(574年~648年)は、太宗の命をうけて、儒教の重要な経典である五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記)の国定注釈書ともいうべき「五経正義」を編纂し(653年完成)、科挙試験の標準とされました。

 しかし、国家によって五経の解釈が統一された為に、訓詁学(特に儒教の字句解釈を主とする儒学)が発達し、自由な学問の発達が阻害されることに成ったのです。

◎詩・文

 唐詩は、単に唐代の文化を代表するだけでなく、中国文化を代表するものと考えて良く、五言絶句や七言律詩の形式が完成し、多くの優れた詩人が輩出しました。

 盛唐時代の王維(701年頃~761年)、李白(701年~762年)、杜甫(712年~770年)や中唐の白居易(772年~846年)等は特に有名です。
王維は自然詩人として、画家としても有名です。

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李白

 李白は、富裕な商人の子として生まれ、少年時代は四川で過ごし、25歳頃四川を出て、生涯のほとんどを放浪に過ごします。
知人の推薦で玄宗に仕えましたが(742年~744年)、その後また各地を遍歴しました。
杜甫が「李白一斗、詩百編」と言ったように、酒を愛し、あびるように飲んでは、その間に詩を読んだと言われ、「詩仙」と称されました。

杜甫
杜甫

 杜甫は、官僚の家に生まれ、何度の科挙に失敗し、職もなく妻子を連れて放浪し、40歳頃知人の推薦で下級官吏になったのですが、安史の乱に遭遇、反乱軍の捕虜となった後に脱走し、粛宗のもとで官職に就きますが、2年後に免職となり、妻子と伴に各地を遍歴し、四川の成都に至り、6年間この地に留まりました。
この時期が杜甫の生涯の中で最も良い時代で、その後長江を下って放浪し、59歳で亡くなります。
杜甫は「兵車行」に見られる様に社会の不正を暴露、批判する詩を多く歌い、「詩聖」と称されました。

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白居易

 白居易、字は楽天、白楽天の名で知られ、29歳で進士に合格し、刑部尚書(司法長官)にまで昇進します。
玄宗と楊貴妃の恋愛を歌った「長恨歌」で有名となりますが、政治や官吏の腐敗を批判した詩を作ったため、二度左遷され、後政界を嫌って官吏の地位を捨てます。
唐代最多と言われる程多くの詩を残しましたが、平易な詩が多く、早くから日本に伝わり広く愛誦され、「白氏文集」は平安貴族の必読書で、日本の文学に大きな影響を及ぼしました。

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韓愈

 文章では韓愈(768年~824年)と柳宗元(773年~819年)の二大文豪が有名です。
伴に進士に合格し、官僚となり出世しましたが、後に左遷された。文章家としては、当時流行していた六朝以来の四六駢儷体(対句を多く使い、韻を踏んだ華麗な美辞を用いた文、内容より文章の美しさを重んじた)を排し、漢代の「古文」復興を主張し、古文復興運動の中心人物となり、伴に「唐宋八大家」(唐・宋の8人の代表的な文章家)に数えられています。

◎書画・工芸

 絵画では、六朝に始まる山水画が進歩し、呉道玄(8世紀頃)、李思訓(651年頃~718年)、王維等が現れました。

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呉道玄

 呉道玄は、玄宗に仕え、人物、鬼神、山水を描き、仏寺や道観の壁画も多く描いています。

 李思訓は、唐の王室の出で、玄宗に仕え、山水画に優れた作品を残しています。

 書道も盛んになり、多くの優れた書家が輩出しました。
唐代の官吏は科挙合格者だけでなく、科挙合格者以外でも官吏に登用されましたが、官吏の任用にあたっては、言(ことばづかい)、書(習字)などの試験があり、綺麗な文字を書くことは官吏になる必須の条件であったことからも書道は盛んでした。

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褚遂良

 初唐の三大書家と呼ばれる欧陽詢(557年~641年)、虞世南(558年~638年)、褚遂良(596年~658年)や盛唐の書家、顔真卿(709年~786年頃)等が有名です。

 褚遂良は、王羲之の書風を継いで書に巧みであった為、太宗の書道顧問となって信任を得て、中書令(宰相)に就任しますが、次代の高宗が武昭(則天武后)の皇后擁立に反対して左遷され、3年後に没しました。

 顔真卿は、前述の様に、安史の乱の際、平原(山東)の太守として義勇軍を率いて反乱軍と戦いました。
彼の書は従来の王羲之風の典雅な書を一変させ、男性的な力強い書風を始め、一世を風靡します。

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唐三彩:馬俑

 工芸の分野では、唐三彩が有名。
唐三彩は緑・褐・白の三色で彩色して焼き上げた陶器で、人物、動物を題材として作られ、葬具に用いられた他、胡人の風俗等も題材として多く用いられ、当時の華やかな貴族文化、異国趣味等を知る資料としても重要です。

ジョークは如何?

ヒトラーは、ババリア・アルプスを散歩するのが好きだった。というのは、
オーバーザルツブルクというところに山荘を持っていたのだ。

彼はいつものように山荘を出て、山の中を散策していたとき、川に落ちてしまった。
ヒトラーは泳げなかった。彼は右手をまっすぐに上げて、
「助けてくれ、助けてくれ!」と叫んだ。
すると森の中から一人の男があらわれて、ヒトラーを助けてくれた。

ヒトラーはずぶぬれになりながらも威厳をつくろって言った。
「余は大ドイツ民族の大統領である。よく救ってくれた。礼をいうぞ。
で、おまえの名前は?」
貧相な男は答えた。
「イスラエル・コーエンです。」
「なに?ユダヤ人か!しかし、おまえがユダヤ人であるにしても、たいへん
勇気のあるやつだ。願いがあったら一つだけ叶えてやろう。」
と、ヒトラーは濡れた口髭を、ぬれたハンカチでふきながらいった。
「ああ、それでしたら、たいへん大きな望みがあります。ほんとうにいっていい
でしょうか?」
「よろしい。」とヒトラーは言った。

「私があなたを救ったことだけは、誰にも言わないでください。」

続く・・・
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