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2014/10/29

歴史を歩く56

12中国社会と北方民族

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唐代・藩鎮の分布

1 五代の形勢

 唐代、玄宗は異民族の侵入に備えて辺境に十節度使(辺境の防備のために置かれた軍団の司令官)を設置しましたが、安史の乱(755年~763年)後は内地にも置かれるように成ります。

 節度使は、当初皇帝に任命され、強力な軍隊を預かり、州を支配し、州の租税を徴収して軍隊にかかる費用に充て、その残高を中央に送りました。
しかし、唐末になると強力な節度使は中央に送るべき租税を私有化し、又本来は皇帝の軍を私兵として、中央から自立して行きました。
こうして節度使はその地方の軍事、財政、民政権を握り、地方で自立して地方軍閥となり藩鎮と呼ばれるように成ります。

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朱全忠・Wikipediaより

 節度使(唐末五代では藩鎮と同じ意味に使われることが多い)は数州を領有し、その数は唐末で40~50、五代で30~40に及んだと云われています。
唐末の大農民反乱である黄巣の乱(875年~884年)に加わり、後に唐に降って節度使に任命された朱全忠(852年~912年)は、黄巣の乱の鎮圧の功績によって梁王となり(901年)、衰退した唐の皇帝昭宗を暗殺、哀帝に禅譲を迫り、やがて唐を滅ぼし、自ら帝位について後梁(907年~923年)を建国、都を汴州(開封)に定めます。

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五代十国

 以後、約50年間に華北では後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝が交替し、これを五代と総称します。
又その間に、その他の地方でも多くの節度使(藩鎮)がそれぞれ自立し、10前後の国が興亡した結果、之を十国と呼び、唐の滅亡から宋の中国統一迄の(907年~979年)この時代を五代十国(時代)と呼びます。

 唐を滅ぼした朱全忠(太祖、在位907年~912年)が建てた後梁(907年~923年)の勢力範囲は黄河中、下流域に限られ、李克用等の藩鎮が各地に割拠していました。
朱全忠はこれ等の敵対勢力との戦いに明け暮れる中で次男に殺され、後梁は2代16年で滅びたのでした。

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李克用

 朱全忠と対立した李克用(856年~908年)は、突厥の沙陀(さだ)部の出身で、黄巣の乱の鎮圧の功によって節度使となり、朱全忠と華北の覇権をめぐって激しく対立し、その攻撃を受けて応戦中に病死します。
しかし李克用の子が後梁を滅ぼし、後唐(923年~936年)を建国したのも束の間、後唐も4代13年で滅亡してしまいました。

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石敬瑭

 後晋の建国者である石敬瑭(高祖、在位936年~942年)も突厥出身と云われています。
後唐最後の皇帝の妹婿であった彼は皇帝と対立し、契丹の援助を受けて後唐を滅ぼし、後晋(936年~946年)を建国しました。

 石敬瑭は契丹の援助を受ける際に契丹に臣礼をとって歳貢を贈り、燕雲十六州(北京(燕州)、大同(雲州)を中心とする万里の長城の南に沿った十六の州)を割譲しました。
この燕雲十六州の回復が漢民族の宿願となり、宋と遼との抗争の大きな原因となって行きます。
しかし、その後晋も2代10年で滅びて行きます。

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劉知遠

 後晋を倒して後漢の建国者と成った人物も突厥の沙陀(さだ)部出身の劉知遠(高祖、在位947年~948年)です。
彼は後唐に仕え、後晋の建国を助けて禁軍(皇帝の護衛兵)を掌握し、各地の節度使を兼ねて有力者となり、後晋が契丹の侵入を受けて滅亡すると、自ら帝位につき後漢(947年~950年)を興したものの、翌年に病没し、後漢は2代僅か3年で部将の郭威に滅ぼされます。

郭威
郭威

 後周の建国者、郭威(太祖、在位951年~954年)は、劉知遠の建国を補佐し、その子隠帝が殺されると、軍隊に擁立されて即位し、後周(951年~960年)を建国しました。

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世宗

 後周の第2代皇帝、世宗(在位954年~959年)は五代第一の名君と称され、契丹や南唐等の諸国を討ち、国内政治を整えましたが、中国史上大規模な仏教弾圧事件を「三武一宗の法難」と呼びますが、一宗の宗は彼を指しています。
後周も3代9年で滅亡して行きました。

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開封府・天下一首府

 五代のうち、後唐(都は洛陽)を除く四王朝は開封を都と定めました。
開封は古くから水陸交通、軍事の要衝でしたが、特に隋代の大運河の開通により、都の長安と江南を結ぶ大運河の分岐点となり、以後交通、商業の中心地として大いに発展し、次の北宋も開封を都としたのです。

 華北で五代が興亡を繰り返した間、江南では呉(902年~937年)・呉越(907年~978年)・荊南(907年~963年)・楚(927年~951年)・南唐(937年~975年)が、 四川では前蜀(907年~925年)・後蜀(934年~965年)が、福建のびん(門のなかに虫)(909年~945年)、 華南の南漢(917年~971年)、そして華北の北漢(951年~979年)等の国々が興亡します。

以上の国々が十国に数えられ、この十国の中で最も強勢だった国が、江南の富を背景に栄えた南唐であり、唐の文化を継承し、文化が大いに栄えました。

 唐末五代の時代は中国史上、春秋戦国時代と並ぶ社会の大変革期でした。

 政治的には、魏晋南北朝時代から隋唐の時代に国家の支配層であった貴族が、特に黄巣の乱やうち続く戦乱と下剋上の風潮の中で、経済的な基盤であった荘園を失って没落し、旧貴族に変わって藩鎮や形勢戸と呼ばれる新興地主等が支配層にのし上がって行きました。
彼等は唐末の戦乱によって荒廃した土地の開発を進め、新たに荘園の所有者となり、佃戸制に基づく大土地所有制を発展させ、また諸産業の回復、開発に努めたのです。

 こうした社会の変化の中で、従来の都を中心とした貴族文化は衰退し、代わって庶民文化や地方にも特色ある新しい文化が興るなど社会は大きく変動を遂げて行きました。

ジョークは如何?

スターリンがチャーチルと電話で話し合っている。
「ニェート…、ニェート…、ニェート…、ニェート…、ニェート…、ニェート…、ダー」
特派員「スターリン同志、どんな質問にあなたが「ダー」とお答えになったか、おききしてもよろしいでしょうか?」
「チャーチルがきいたのさ、彼の声がこっちによく聞こえるか、とね。」

(注)「ニェート」はロシア語で「いいえ」、「ダー」は「はい」の意味。

続く・・・
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