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2014/10/30

歴史を歩く57

12中国社会と北方民族②

2 宋の統一(その1)

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宋・遼の時代(10世紀)

 宋(北宋)の建国者の趙匡胤(太祖、927年~976年、在位960年~976年)は、後唐の武将の子として生まれ、後周の世宗に仕えて軍功をあげ、精鋭を誇った禁軍(皇帝の親衛軍)の最高司令官となりました。
世宗が崩御し、7歳の恭帝が擁立されると、この機に乗じて契丹と北漢が侵入します。
趙匡胤は、これを迎え撃つために出動命令を受けて出陣したのですが、その途中、陣中で酒に酔って眠っているところを起こされ、無理矢理に天子の着る黄袍を着せられ、いくら固辞しても部下の将兵が納得せず、やむを得ずこれを受けたと伝えられています。

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趙匡胤

 こうして部下の将兵によって皇帝に推戴され、恭帝から禅譲を受けた趙匡胤は宋王朝(960年~1279年、北宋(960年~1127年)を樹立し、開封を都と定めました。

 趙匡胤は即位すると、これまで藩鎮(節度使)の強大な勢力が皇帝の権力を弱体化させたことに鑑み、藩鎮(節度使)の勢力の削減を図り、藩鎮(節度使)から統帥権を剥奪し指揮権のみを与え、 一方で藩鎮の精鋭兵士を禁軍(皇帝の親衛軍)に吸い上げて禁軍を強化して行きました。

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禁軍騎兵

 こうして唐末、五代の藩鎮(節度使)の武断政治を廃し、科挙合格者で学識のある文人官僚によって政治を行う文治主義を押し進め、君主独裁中央集権体制の確立を目指したのです。

 中央官制では、唐代以来貴族の牙城であった門下省を廃止して中書省に吸収、その長官(宰相)に六部を統轄させ、優秀な官僚を確保するために、隋、唐以来の科挙を改革し、従来の地方、中央の試験に殿試を加えて、州試、省試、殿試の三段階としました。

 殿試は、省試合格者に対して皇帝自らが出題する最終で最高の試験あり、太祖が創設し、上位合格者には高官への道が約束されました。
又殿試によって、合格者である官僚は皇帝の学問上の弟子を意味し、皇帝に絶対的な忠誠を誓うようになり、皇帝権力の強化すなわち君主独裁制の確立に大きな役割を果たしたのです。

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 科挙は隋代に始まり、唐に受け継がれ、宋代に完成されました。
宋代には前述のように太祖によって殿試が創設され、州試(第1段階としてに地方試験)、省試(第2段階として州試の合格者に対して中央の尚書省が行う試験)、殿試(省試の合格者に対して皇帝自らが行う最後で最高の試験)の三段階が確立しました。

 宋代、科挙に合格して官僚になった者を出した家は官戸と呼ばれ、戸籍に明記され、役の減免や裁判上でも特権が与えられ、又科挙に合格して官僚になった者には、将来の出世、高官への道が約束され、その上莫大な収入があったので3年勤めると孫子の時代迄も安楽な生活が出きると云われました。
この為、科挙には受験者が殺到し、競争は熾烈を極め、なかには何度も受験に失敗し、70歳を過ぎてようやく合格した者もいたと伝えられています。

 科挙にはいくつかの科目があり、試験科目も異なっていました。
唐代には秀才(科)が重視されましたが、宋代には進士(科)が最も重視され、宋代中頃には進士に一本化されます。

 進士の試験科目は経義(経書の暗記)、詩賦(作詩)、策論(時事問題についての意見書)でした。経義では論語等儒学の重要な書物の内容暗記がテストされましたが、暗記しなければならない文の文字数は62万字に及んだと伝えられています。

 進士を優秀な成績で合格した者(トップ合格者は状元と呼ばれます)が宰相以下の高官を独占した。
科挙は3年に1度実施され、その合格者は極めて少数で、進士は太祖の時は年平均9人、太宗の時は50人、真宗の時に78人となり、仁宗の時代は最も多かったのですが、其れでも113人に過ぎなかったのです。
受験者は太宗の時の例で見ると、州試に合格して省試を受験した者5300人(976年)、多いときは17300人にも達しました。

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 科挙の受験資格は広く庶民にも開かれていましたが、このように超難関試験であった結果、合格するには長年にわたって科挙だけを目的に脇目もふらず勉強しなければならず、従って合格することは勉強に十分な時間とお金が充てられる富裕な家の出身者でないと不可能であり、貧乏な家の者は受験など思いも寄らぬことでした。
この様な事情から、科挙合格者は特定の富裕な階層の者に限られて来ます。

 多くの合格者を出した富裕な階層の代表は、当時「形勢戸」と呼ばれた地方の有力地主層でした。科挙に合格者し官僚を出した家は「官戸」と呼ばれ様々な特典を与えられ、宋代には、唐代迄の旧貴族に代わって、「形勢戸」、「官戸」が新しい社会の支配層、新しい貴族階級を形成するように成ったのです。

 官僚になるには科挙に合格する以外にも、例えば高官の子弟や親戚の者とか、政府に多額の献金をした者、役所の書記を長く勤めた者などが、その職に就くことが可能でした。
官僚になると高額の俸給を与えられた結果、官僚の増加は政府の財政を圧迫する原因となり、有資格者の増加の為、合格しても官僚になれない者も続出し、彼らは官僚になるために賄賂を送る等の不正行為を行った結果、官界の腐敗を招くことになりました。

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 太祖は契丹の南侵をくい止め、呉越、北漢を除く五代以来の地方政権を滅ぼしましたが、中国統一を見ることなく崩御(976年)、尚、この崩御に関しては諸説在り、弟の趙光義(後の太宗)に殺されたとも云われています。

 太祖の後を継いだ太宗(939年〜997年、在位976年~997年)は、太祖の弟で、兄の建国を助けて大きな功績が在りましたが、太祖の2人の子を飛び越えて2代目の皇帝となり、兄の遺業を継いで呉越、北漢を滅ぼし中国の統一に成功しました(979年)。
更に勢いを駆って遼(契丹)に出兵したものの此方は失敗に終わり、燕雲十六州の回復は叶いません。

 内政でも、太祖の文治主義を継承し、君主独裁中央集権官僚制の確立に努めます。

 太宗は節度使の財政権を奪う等、節度使の権限を更に縮小し、又節度使に欠員が出る度に文官を任命した結果、節度使は単なる地方の行政官に過ぎなくなり、藩鎮体制は解体されましたが、節度使の軍隊の弱体化は同時に辺境防衛力も著しく弱体化させる結果を招き、以後契丹、西夏等の侵入に苦しめられる新たな問題を生じさせます。

 太祖、太宗は伴に、節度使の権限を奪い、文治主義を採用し、文官を重く用いて、君主独裁を強化し、中央集権の体制を作りあげました。
この体制を支えた文官(官僚)は科挙によって登用された人材です。
 
 太宗の死後、真宗(在位997年〜1022年)が即位し、当時国内には平和が訪れ、宋は安定、発展期に入っていたのですが、対外的には国力を充実させた遼(契丹)がしばしば宋の北辺に侵入し、この防御に苦しめられていたのです。

ジョークは如何?

 スターリンが死んだ。この独裁者を厄介払いすべくフルシチョフは海外に埋葬場所の提供を求めた。
英国「わが国にはすでにチャーチル卿がおられます。大戦の英雄は1人で十分です」
ドイツ「わが国にはすでにヒトラーがいます。独裁者は1人でたくさんです」
そこへイスラエルから提供してもよいという応えが入った。だがそれを聞いたフルシチョフは青ざめた顔で猛反対した。
「あそこは以前に復活があったんだ!」


続く・・・

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