2014/11/02

歴史を歩く58

12中国社会と北方民族③

3 宋の統一(その2)

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 遼が、1004年に黄河北岸の澶州に迫り、真宗が宰相の諫言で自ら親征し、遼軍と対峙した結果、両国間で和議が結ばれました。

 この澶淵の盟(1004年)で、以下
(1)両国は宋を兄、遼を弟とする兄弟の交わりを結ぶ。
(2)宋は遼に歳幣として毎年、銀10万両と絹20万疋を贈る。(両は37.3g、疋は反物2反、1反は約10.6m:漢和辞書)。
(3)宋と遼は国境を保全し、捕虜、越境者は送還することを約す。
以上

 澶淵の盟は、以後100年間にわたって両国によって忠実に守られ、平和が続き両国の繁栄をもたらしたのですが、宋が遼に贈った歳幣は以後宋の財政を圧迫することに成ります。

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周敦頤

 4代目の仁宗(在位1022年~63年)時代は、欧陽脩等の有能な官僚の補佐のもとに、周敦頤、程顥(北宋の儒学者)等の優れた学者が輩出し、北宋で最も国力が充実した時期を現出しましたが、この頃西北辺で李元昊(在位1038年~48年)がタングート族を統合して西夏を建国し(1038年)、宋の北辺を脅かします。

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李元昊:1988年大映制作「敦煌」より渡瀬恒彦演じる李元昊

 その為、慶暦の和約(1044年)を結び、以下
(1)西夏は宋に対して臣下の礼を取る。
(2)宋は西夏に歳幣として毎年、銀5万両、絹13万疋そして茶2万斤を贈る。
(3)国境に貿易場を設けて貿易を行うことを約す。
以上

 宋は和約を結ぶ一方で西北辺に兵力を集中し、又西夏との和約を機に、遼との歳幣も銀20万両、絹30万疋に増額されました。
こうした軍事費、歳幣更に官僚の俸給が増大し、仁宗の治世の後半には宋の財政は急激に悪化しました。 

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王安石

 北宋の第6代皇帝、神宗(1048年~85年、在位1067年~85年)が父英宗の後を継いで即位した頃には、対外的には遼、西夏の圧迫、国内では財政の窮乏、重税による自作農の没落等国家の再建が大きな課題として残されていました。
その為、青年皇帝神宗は政治、財政改革に着手し、地方官であった王安石(1021年~86年)を抜擢して宰相に任命し(1070年)、新法を次々に実施させました。
 
 王安石(1021年~86年)は江西省出身、21歳で科挙に合格して進士となり、地方官を16年間勤めました。
この間、仁宗に政治改革の必要性を説く意見書を提出し、神宗は即位すると政治改革を断行する為に、その王安石を地方官から大抜擢して副宰相(1069年)、更に宰相(中書省と門下省の長官を兼ねる官職)に任命しました(1070年)。

 王安石は神宗の全面的な信頼を得て、軍事、財政の危機を克服する為に「新法」と呼ばれる富国強兵策を次々に実施しました(王安石の改革)

 王安石の「新法」の主なものは、青苗法、均輸法、市易法、募役法等の富国策と保甲法、保馬法等の強兵策です。

1、青苗法

 貧農の中には籾種さえ食い尽くして田植えの出来ない者がおり、彼等は地主から高利で銭を借りてその返済に苦しんでいました。
そのような農民に穀物や銭を低利で貸し付け収穫時に返済させ、大地主の高利に苦しんでいた貧農を救済しようとする政策でした。

2.均輸法

 前漢の武帝も実施しましたが、均輸官を各地に置き、その地の特産物を輸送させ、それを不足地に転売する法で、地域の物価を平均化させると共に、その差額が政府の収入となりました。この法は大商人の利益を奪うものとして彼等の激しい反対を受けました。

3.市易法

 大商人の営利独占、小商人の抑圧等を排し、小商人の商品が売れない時は政府がこれを買い上げ、又はその商品を抵当にして低利で融資を行い、小商人を保護し、商業の振興をはかった政策です。


4.募役法

 徴税、治安維持等の地方の労役が上、中層農民にとって大きな負担となっていた為、労役を免ずる代わりに免役銭を徴収し、一方ではどんなに苦しい仕事でも働いて収入を得ないと生活できない貧しい人々の中から希望者を募り、雇銭を支給し労役に充てた政策です。

5.保甲法

 当時、宋の傭兵制が軍隊の質の低下、軍事力の弱体化、軍事費の増大を招いていた為、民戸10家を保、50家を大保、500家を都保とする民兵制度を組織し、農閑期に農民を集めて軍事訓練を施し、治安維持等にあたらせた兵農一致の政策です。

6.保馬法

 遼、西夏との戦いに必要な軍馬が遼、西夏の輸出禁止策によって入手難となり、軍馬が不足した結果、これを打開する為に民間に官馬又は代価を与え馬を養わせ、平時には使役に使うことを許し、戦時にはこれを徴発して、軍馬を確保しようとした政策です。

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司馬光

 この様に王安石の行った「新法」は貴族、特権官僚、大商人、大地主等の特権、利益を抑え、中小農民や中小商工業者を保護、育成し、財政の再建をはかろうとした政策であった結果、特権階層からは激しい反対を受けました。
彼等は司馬光を中心とする「旧法党」に結集し、王安石の新法を支持する「新法党」を激しく攻撃し、これと対立しました。

 王安石の新法は可也の成果を上げ、財政や治安は好転したのですが、旧法党と新法党の「党争」(官僚間の権力争い)が激しくなる中で、彼は終に辞職し(1076年)郷里に隠退しました。

 神宗が没した翌年に旧法党の司馬光が宰相となり、新法は尽く廃止される中で王安石は亡くなります(1086年)。
彼は文章家としても有名で「唐宋八大家」の一人に数えられています。

 司馬光(1019年~86年)は、山西省の大地主の家に生まれ、20歳で科挙に合格して進士となり、地方官を歴任した後に神宗の時中央政界に入り(1067年)、王安石の改革が実施されると司馬光は急激な改革に反対して中央政界を去り(1070年)、以後編年体の歴史書である「資治通鑑」(294巻)の編纂に専念しました。
神宗が没して哲宗が即位すると(1085年)、 旧法党の党首として中央政界に復帰し、宰相となり(1086年)、王安石の新法を尽く廃したがその数ヶ月後に彼も没します。

 哲宗(在位1085年~1100年)の時代は「党争」(旧法党と新法党の権力争い)に明け暮れ、宋の国力は弱体化しました。

 哲宗の死後、弟の徽宗(在位1100年~25年)が第8代皇帝と成りました。
徽宗は政治にはあまり熱意はなく、学芸に秀で詩文書画をよくし、「風流天子」と呼ばれました。
書に優れ、新画風の院体画を開き、文化の保護、奨励に努め、書画や古器物の収集を盛んに行い、豪奢な宮廷生活によって国費を乱費します。

 こうした宮廷の奢侈の為に国民に負担を強いたので、江南では北宋最大の農民反乱である方臘(ほうろう)の乱が起きました(1120年~21年)。

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南宋と周辺諸民族国家

 この頃、中国東北地方の奥地にいたツングース系女真族が俄かに強大となり、その首長である阿骨打(あぐだ、1068年~1123年、在位1115年~23年)は遼に反旗を翻し、金を建国し(1115年)、次第に遼を圧迫して行きました。

 この情勢を見た宋は新興の金と同盟を結び宿敵遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州の回復を図ろうとしましたが、かえって金の華北侵入を招き、金軍は首都開封に迫りました(1025年)。

 徽宗はその事態に驚き、「己を罪する詔」を出し、全国に勤王軍を募ると共に、子の欽宗(在位1125年~27年)に譲位しました。

 宋は一旦金と和を結びましたが、金は翌年宋の違約を責めて再び開封を包囲し、終に開封を陥れました(1126年)。
そして翌1127年、徽宗、欽宗、后妃、皇族、官僚、技術者等数千人を捕虜として東北地方の奥地(現在の黒竜江省の依蘭付近)に連れ去りました。
この出来事は靖康の変(1126年~27年)と呼ばれますが、靖康の変によって北宋はついに滅亡しました(1127年)。

 徽宗はその地に幽閉されたまま帰国の願いは叶わずその地で没し(1135年)、欽宗も幽閉は30年に及び、金と南宋との和平の成立(1142年)後も帰国は許されず、終にその地で没しています(1061年)。

ジョークは如何?

第二次世界大戦、ピンチのときは

新兵器で逆転を狙う ドイツ軍
精神力と自爆攻撃 日本軍
パニックになってしまう フランス軍
督戦隊と囚人部隊の ソビエト軍
すばやく降伏 イタリア軍
物量つぎ込む アメリカ軍
アメリカ軍がやってくるのを待つ イギリス軍
占領された祖国のことを考え頑張る ポーランド軍


続く・・・  

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コメント

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