歴史を歩く59
12中国社会と北方民族④

遼・西夏
4 遼と西夏
契丹は、5世紀以後、遼河(渤海湾に流れ込む河)の上流シラムレン川流域に現れたモンゴル系にツングース系が混血した遊牧、狩猟民です。
キタイ(Kitai)、キタン(Kitan)の名で呼ばれ、中国では契丹と表記され、Kitaiの名が西方に伝わりCathyと云う中国の別称と成りました。
当初ウイグル(744年~840年に王国形成)に属しましたが、ウイグルが衰え始めた頃から急速に勢力を強めていきます。

耶律阿保機
契丹は多くの部族に分かれていましたが、中国が唐末の混乱に陥っている頃に、民族の英雄である耶律阿保機(太祖872年~926年、在位916年~926年)が登場します。
彼は万里の長城を越えて華北に侵入し、多くの漢人を捕らえて契丹の地に連れ帰り、力ある者を登用して国力を蓄え、やがて契丹諸部族を統合して遼(916年~1125年)を建国しました。
太祖(耶律阿保機)は西方の突厥、ウイグル、タングートに親征を繰り返して外モンゴルから東トルキスタンを制圧し、東方では中国東北地方東部から朝鮮北部を200年以上支配してきた渤海を滅ぼしました(926年)が、その帰途、扶余で病没します。
太祖は独自の契丹文字を作成(920年)させるなど、契丹民族の文化の発展にも尽くしました。

燕雲十六州
次の太宗(在位926年~947年)は、中国で石敬とうが後唐に替わって後晋を建国する際に、彼を援助し、その代償として燕雲十六州を獲得します(936年)。
遼は北方民族である契丹が本拠地を確保しながら中国の領土の一部を支配した最初の国家です。
この様な性格を持った国家を征服王朝と呼び、征服王朝は、ドイツ人の中国研究家ヴィットフォーゲルが遼、金、元、清をDynasty of Conquestと呼んだ訳で、北方民族が中国の領土の一部又は全部を征服して建国した中国風の王朝国家の意味で使われています。
初めて中国の地に領土(燕雲十六州)を持った遼は、中国の官制を取り入れて中国風王朝の建設を試みます。
しかし、遊牧、狩猟民である契丹人が農耕民である漢人を支配することは容易な事でなく、漢人の抵抗が各地で起こり始めました。
その為、遼は漢人を支配するにあたっては二重統治(体制)を採用し、 中央の最高機関である枢密院を契丹人等、遊牧民を統治する北面官と漢人、渤海人等農耕民を統治する南面官に分け、北面官を上位に置き、政治、軍事を担当させました。
そして 契丹人等遊牧民に対しては遊牧民固有の部族制で、漢人等農耕民に対しては中国風の州県制を用いて統治しました。
この統治の仕方を二重統治(体制)と呼んでいます。

6代皇帝聖宗
遼第一の名君と謳われている6代皇帝聖宗(在位982年~1031年)は12歳で即位し、治世の前半の20年は母后や名臣、勇将の補佐を得て国力の充実に努めました。
東方の女真族や朝鮮の高麗を従属させ、西方では中央アジアのウイグル諸国を服従させて後顧の憂いをなくした聖宗は、1004年に自ら大軍を率いて宋に侵入し、黄河北岸の澶州に迫まりました。
これを見た宋の真宗も親征し、両軍は黄河を挟んで南北に対陣したのですが、結局和議が成立し、宋を兄、遼を弟として兄弟の交わりを結ぶこと、宋は遼に毎年銀10万両、絹20万疋を贈ることなどが約された澶淵の盟(前述)なのです。
この和議は以後約100年間にわたって両国によって守られ、両国の間には平和が続きました。
聖宗治世後半には政治、軍事組織が整備され、中央集権体制が確立された結果、次の7代興宗(在位1031年~55ね)・8代道宗(1055年~1101年)に至る3代約120年間が遼の全盛期と成りました。
しかし、9代天祚帝(てんそ、在位1101年~25年)の時代に、北方で女真が強大となり遼から独立し金を建国、そして同盟した宋と金の挟撃を受けて敗れた天祚帝は内モンゴルに逃亡し(1122年)、後に反撃に出たが逆に捕らえられ、中国東北地方の奥地に流され、そこで没します(1125年)。
こうして200年続いた遼は終に滅亡しました(1125年)。

耶律大石
遼が滅亡する直前に、遼の皇族で太祖から数えて8代目の子孫である耶律大石(1087年~1143年、西遼の初代皇帝、在位1132年~43年)は、天祚帝が内モンゴルに逃亡した時に、外モンゴルに逃れ、自立して王位に就きました(1124年)。
彼の元には多くの部族が集結しましたが、やがて金の圧迫が強まった結果、更に西方に移動し、トルキスタン地方のウイグルを抑え、カラ・ハン朝を倒してベラサグンで即位し、西遼を建国します。
西遼はイスラムからはカラ・キタイ(黒い契丹の意味)と呼ばれました。
契丹は当初ウイグル文化の影響を受け、次第に中国文化を吸収し、仏教を受け入れ、特に聖宗から道宗の全盛期には皇帝が仏教を保護、奨励した事から仏教が盛んとなり、大寺院や仏塔が建立され、大蔵経も出版される等仏教文化が栄えました。

契丹文字
太祖は契丹の言語を書き表すために契丹文字を作成し、これによって契丹人が漢化されることを防ぎ、民族意識を持たせようと試みました。
契丹文字には大字と小字があるが、解読はまだ余り進んでいません。

西夏・文人、軍人
宋西北辺境の陜西、甘粛方面にはチベット系のタングート(党項)族が居住していました。
タングートは初め四川、青海方面を中心に活動していましたが、チベットの吐蕃からの圧迫を受けて東遷し、陜西、甘粛に移っていきます。
9世紀頃から陜西の夏州を中心に居住していたタングートの平夏部が強大となり、黄巣の乱の鎮圧に功を立て、唐から李姓を与えられました。

李元昊
その子孫の李元昊(1003年~48年、在位1038年~48年)は父の後を継いで平西王となり(1032年)、タングート諸部族を統合して青海の東部や甘粛西部の敦煌にまで領土を拡大しました。
そして宋に倣って官制、兵制等諸制度を整え、宋、遼に対抗して皇帝を称し、国号を大夏と称しました(1038年)。
中国ではこの国を西夏(1038年~1227年)と呼んでいます。
西夏はシルク・ロードの要衝を押さえ、内陸中継貿易で利益をあげていたましたが、宋と貿易をめぐって対立し、しばしば宋に侵入しました。
李元昊は大軍を率いて宋に侵入したが、戦いが長期化する中で、両国は1044年に慶暦の和約(前述)を結びます。
この和議によって西夏は宋に臣礼をとり、代わりに毎年銀5万両、絹13万疋、茶2万斤を得、更に国境に貿易場を設けて貿易を行うことを認めさせました。
李元昊の時代、東はオルドスから西は敦煌迄領土を拡大し、宋、遼の両大国に対抗してよく国を維持します。
又若い時から文武両道に優れ、法律、仏教に通じていた彼は西夏文字の創製に関与し、漢籍の翻訳を行わせるなど西夏の文化の向上にも努めたのです。

西夏文字
文化面では、中国文化の影響を強く受けながらも、仏教文化を基調とする独自の文化を発展させました。
漢字の体裁に倣って画数の多い複雑な独自の西夏文字を作り、現在6100余字が知られており、3分の2以上の文字の発音や意味も明らかにされています。
又儒教や仏教も盛んで、「論語」や仏典をはじめ中国やチベットの多くの書物が西夏文字に翻訳されています。
西夏は、李元昊以来10代約200年間存続しますが、遼に代わって金が強大となるとこれに服属し、最後はチンギス・ハンによって滅ぼされました(1227年)。
ジョークは如何?
「スターリンが死の床に横たわっていた.その周囲を後継者の椅子を狙う 野心家どもが,心配そうにうろつきまわっている. 突然スターリンがフルシチョフを呼んで 耳元でささやいた.
「君はわしのあと釜に座ることになるが,時がたつにつれ,誰もが君に白い眼を向け始めるだろう.もし,そうなった時にはクレムリンの地下室に私が残しておいた2通の封書を1つず つ開いてみるがよい.必ず役に立つはずだから..」
その言葉を聞き終わるや否やフルシチョフはスターリンの命をつないでいた酸素吸入装置のバルブを止めてしまった. 予言通り首相になったフルシチョフは数年後に幹部の信頼を失って苦境にたった.
そこでふと「遺書」を思い出し,地下室に降りて「第一の封筒」を開いた.
そこには「私を悪者にしなさい」とあった. この日から,例のスターリン批判が始まったという.ともかくこれでフルシチョフの人気は小康を保ったが,間もなく再び信頼を失って,首相の地位が危なくなった.
あわてて「第二の封筒」を開くと,「お前も2通の封筒を用意せよ」とあった。
続く・・・

遼・西夏
4 遼と西夏
契丹は、5世紀以後、遼河(渤海湾に流れ込む河)の上流シラムレン川流域に現れたモンゴル系にツングース系が混血した遊牧、狩猟民です。
キタイ(Kitai)、キタン(Kitan)の名で呼ばれ、中国では契丹と表記され、Kitaiの名が西方に伝わりCathyと云う中国の別称と成りました。
当初ウイグル(744年~840年に王国形成)に属しましたが、ウイグルが衰え始めた頃から急速に勢力を強めていきます。

耶律阿保機
契丹は多くの部族に分かれていましたが、中国が唐末の混乱に陥っている頃に、民族の英雄である耶律阿保機(太祖872年~926年、在位916年~926年)が登場します。
彼は万里の長城を越えて華北に侵入し、多くの漢人を捕らえて契丹の地に連れ帰り、力ある者を登用して国力を蓄え、やがて契丹諸部族を統合して遼(916年~1125年)を建国しました。
太祖(耶律阿保機)は西方の突厥、ウイグル、タングートに親征を繰り返して外モンゴルから東トルキスタンを制圧し、東方では中国東北地方東部から朝鮮北部を200年以上支配してきた渤海を滅ぼしました(926年)が、その帰途、扶余で病没します。
太祖は独自の契丹文字を作成(920年)させるなど、契丹民族の文化の発展にも尽くしました。

燕雲十六州
次の太宗(在位926年~947年)は、中国で石敬とうが後唐に替わって後晋を建国する際に、彼を援助し、その代償として燕雲十六州を獲得します(936年)。
遼は北方民族である契丹が本拠地を確保しながら中国の領土の一部を支配した最初の国家です。
この様な性格を持った国家を征服王朝と呼び、征服王朝は、ドイツ人の中国研究家ヴィットフォーゲルが遼、金、元、清をDynasty of Conquestと呼んだ訳で、北方民族が中国の領土の一部又は全部を征服して建国した中国風の王朝国家の意味で使われています。
初めて中国の地に領土(燕雲十六州)を持った遼は、中国の官制を取り入れて中国風王朝の建設を試みます。
しかし、遊牧、狩猟民である契丹人が農耕民である漢人を支配することは容易な事でなく、漢人の抵抗が各地で起こり始めました。
その為、遼は漢人を支配するにあたっては二重統治(体制)を採用し、 中央の最高機関である枢密院を契丹人等、遊牧民を統治する北面官と漢人、渤海人等農耕民を統治する南面官に分け、北面官を上位に置き、政治、軍事を担当させました。
そして 契丹人等遊牧民に対しては遊牧民固有の部族制で、漢人等農耕民に対しては中国風の州県制を用いて統治しました。
この統治の仕方を二重統治(体制)と呼んでいます。

6代皇帝聖宗
遼第一の名君と謳われている6代皇帝聖宗(在位982年~1031年)は12歳で即位し、治世の前半の20年は母后や名臣、勇将の補佐を得て国力の充実に努めました。
東方の女真族や朝鮮の高麗を従属させ、西方では中央アジアのウイグル諸国を服従させて後顧の憂いをなくした聖宗は、1004年に自ら大軍を率いて宋に侵入し、黄河北岸の澶州に迫まりました。
これを見た宋の真宗も親征し、両軍は黄河を挟んで南北に対陣したのですが、結局和議が成立し、宋を兄、遼を弟として兄弟の交わりを結ぶこと、宋は遼に毎年銀10万両、絹20万疋を贈ることなどが約された澶淵の盟(前述)なのです。
この和議は以後約100年間にわたって両国によって守られ、両国の間には平和が続きました。
聖宗治世後半には政治、軍事組織が整備され、中央集権体制が確立された結果、次の7代興宗(在位1031年~55ね)・8代道宗(1055年~1101年)に至る3代約120年間が遼の全盛期と成りました。
しかし、9代天祚帝(てんそ、在位1101年~25年)の時代に、北方で女真が強大となり遼から独立し金を建国、そして同盟した宋と金の挟撃を受けて敗れた天祚帝は内モンゴルに逃亡し(1122年)、後に反撃に出たが逆に捕らえられ、中国東北地方の奥地に流され、そこで没します(1125年)。
こうして200年続いた遼は終に滅亡しました(1125年)。

耶律大石
遼が滅亡する直前に、遼の皇族で太祖から数えて8代目の子孫である耶律大石(1087年~1143年、西遼の初代皇帝、在位1132年~43年)は、天祚帝が内モンゴルに逃亡した時に、外モンゴルに逃れ、自立して王位に就きました(1124年)。
彼の元には多くの部族が集結しましたが、やがて金の圧迫が強まった結果、更に西方に移動し、トルキスタン地方のウイグルを抑え、カラ・ハン朝を倒してベラサグンで即位し、西遼を建国します。
西遼はイスラムからはカラ・キタイ(黒い契丹の意味)と呼ばれました。
契丹は当初ウイグル文化の影響を受け、次第に中国文化を吸収し、仏教を受け入れ、特に聖宗から道宗の全盛期には皇帝が仏教を保護、奨励した事から仏教が盛んとなり、大寺院や仏塔が建立され、大蔵経も出版される等仏教文化が栄えました。

契丹文字
太祖は契丹の言語を書き表すために契丹文字を作成し、これによって契丹人が漢化されることを防ぎ、民族意識を持たせようと試みました。
契丹文字には大字と小字があるが、解読はまだ余り進んでいません。

西夏・文人、軍人
宋西北辺境の陜西、甘粛方面にはチベット系のタングート(党項)族が居住していました。
タングートは初め四川、青海方面を中心に活動していましたが、チベットの吐蕃からの圧迫を受けて東遷し、陜西、甘粛に移っていきます。
9世紀頃から陜西の夏州を中心に居住していたタングートの平夏部が強大となり、黄巣の乱の鎮圧に功を立て、唐から李姓を与えられました。

李元昊
その子孫の李元昊(1003年~48年、在位1038年~48年)は父の後を継いで平西王となり(1032年)、タングート諸部族を統合して青海の東部や甘粛西部の敦煌にまで領土を拡大しました。
そして宋に倣って官制、兵制等諸制度を整え、宋、遼に対抗して皇帝を称し、国号を大夏と称しました(1038年)。
中国ではこの国を西夏(1038年~1227年)と呼んでいます。
西夏はシルク・ロードの要衝を押さえ、内陸中継貿易で利益をあげていたましたが、宋と貿易をめぐって対立し、しばしば宋に侵入しました。
李元昊は大軍を率いて宋に侵入したが、戦いが長期化する中で、両国は1044年に慶暦の和約(前述)を結びます。
この和議によって西夏は宋に臣礼をとり、代わりに毎年銀5万両、絹13万疋、茶2万斤を得、更に国境に貿易場を設けて貿易を行うことを認めさせました。
李元昊の時代、東はオルドスから西は敦煌迄領土を拡大し、宋、遼の両大国に対抗してよく国を維持します。
又若い時から文武両道に優れ、法律、仏教に通じていた彼は西夏文字の創製に関与し、漢籍の翻訳を行わせるなど西夏の文化の向上にも努めたのです。

西夏文字
文化面では、中国文化の影響を強く受けながらも、仏教文化を基調とする独自の文化を発展させました。
漢字の体裁に倣って画数の多い複雑な独自の西夏文字を作り、現在6100余字が知られており、3分の2以上の文字の発音や意味も明らかにされています。
又儒教や仏教も盛んで、「論語」や仏典をはじめ中国やチベットの多くの書物が西夏文字に翻訳されています。
西夏は、李元昊以来10代約200年間存続しますが、遼に代わって金が強大となるとこれに服属し、最後はチンギス・ハンによって滅ぼされました(1227年)。
ジョークは如何?
「スターリンが死の床に横たわっていた.その周囲を後継者の椅子を狙う 野心家どもが,心配そうにうろつきまわっている. 突然スターリンがフルシチョフを呼んで 耳元でささやいた.
「君はわしのあと釜に座ることになるが,時がたつにつれ,誰もが君に白い眼を向け始めるだろう.もし,そうなった時にはクレムリンの地下室に私が残しておいた2通の封書を1つず つ開いてみるがよい.必ず役に立つはずだから..」
その言葉を聞き終わるや否やフルシチョフはスターリンの命をつないでいた酸素吸入装置のバルブを止めてしまった. 予言通り首相になったフルシチョフは数年後に幹部の信頼を失って苦境にたった.
そこでふと「遺書」を思い出し,地下室に降りて「第一の封筒」を開いた.
そこには「私を悪者にしなさい」とあった. この日から,例のスターリン批判が始まったという.ともかくこれでフルシチョフの人気は小康を保ったが,間もなく再び信頼を失って,首相の地位が危なくなった.
あわてて「第二の封筒」を開くと,「お前も2通の封筒を用意せよ」とあった。
続く・・・
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コメント
ウイグル族も古いんですね~
良き日をお迎えくださいね
モーニンモーニング
(^_^)/おはよー
今日も楽しくいきましょう
+
☆。:.+: .
.. :. ξ´・∀・`)~♪
/ ̄ヽ/,― 、\ o。。。
.:☆ | ||三∪●)三mΕ∃.
.:* \_.へ--イ\ ゚ ゚ ゚
..♪.:。゚*.:.. (_)(_)☆。:.+:
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2014-11-12 03:50 流木庵{え~ちゃん} URL 編集