2014/11/18

歴史を歩く61

12中国社会と北方民族⑥

6 宋代の社会

1.農業

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占城稲

 宋は、北方民族の遼、西夏、金の圧迫を受け、政治的には苦しい状況が続きましたが、経済的には大いに繁栄し、農業生産力が増大、商工業が急速に発展、外国貿易も栄えました。

 宋の南渡以来、南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下し、江南の人口は急速に増加し、彼等の手で江南の開発が大いに進展しました。
特に長江下流域一帯は米作地帯として発展し、以後中国農業の、ひいては中国経済の一大中心地となりました。

 江南では従来農耕地としては利用できなかった湿地帯や河岸、池等の干拓が盛んに行われ、又水利の便の悪かった処に用水路を引いて水田にするなど新しい水田の開発が盛んに行われたのです。

 又北宋時代に、占城(チャンパー、ヴェトナム南部)から日照りに強い早稲種の占城稲が江南に伝わった事、稲と麦の1年二毛作が普及した事等によって江南の農業生産力が飛躍的に増大しました。
特に長江下流域一帯の米作は中国農業の中心となり「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と云う言葉がその事を良く示しています。
江浙は江蘇省と浙江省の略であり、蘇湖の蘇は蘇州、湖は湖州の略を意味しています。

 又華北の畑作地帯でも唐の中期以後農業技術が進歩し、小麦、粟、豆等の2年三毛作が行われる様になり、農業生産力が此方も増大しました。

 宋代にも、唐以来の大土地所有制(荘園制)が発展しましたが、荘園の所有者の多くは、従来の貴族に代わって、官戸(科挙に合格して官僚を出した家)、形勢戸(地方の有力地主層)等の新興地主層で、彼等は自分達の土地を農奴的な小作人の佃戸に耕作させます。

 佃戸は、法的には自由民ですが、地主のもとで移転の自由を奪われ、地主の家の仕事にかり出されるなど種々の労役を課せられ、収穫物は地主と折半(2等分)が普通でした。
この様に佃戸は地主に隷属する小作人でしたが、 地主にとっては労働力でも在り、地主の保護も受けられたので、生活が成り立たない程の僅かな耕地しか持たず、重税や借財に苦しんだ零細な自作農より恵まれた一面もあったのです。

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茶の栽培(現在・福建省)

 米作以外の諸産業も大いに発達し、特に茶の栽培、製茶業が盛んとなり、飲茶の風が普及しました。インドのアッサム地方が原産である茶は、中国には漢代に四川に伝わり、魏晋南北朝時代に江南に広まりました。
茶は古くは薬として飲まれていましたが、飲茶の風は唐代に至って中国全土に普及し、庶民の間にも普及します。

 宋代にはこの傾向が益々強まり、庶民にとっても茶は生活必需品となり、都市の至る所に茶を飲ませる茶館が現れ、其れに伴って茶の生産地も江南から福建、雲南、四川等各地に広まっていきました。

 宋代には茶は、塩と並ぶ重要な専売品となり、その利益は国家財政の重要な支えと成りました。
又周辺の北方民族の間にも飲茶の風習が広まり、茶は北方民族との貿易にとって重要な貿易品と成り、外国貿易が盛んになる中で従来の絹と共に重要な輸出品に成長して行きました。

2.産業

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青磁三足壷

 絹織物業の世界に機織り技術が進歩し、宋代には江南が生産の中心地と成りました。

 飲茶の風の普及に伴い、陶磁器産業も大いに発展し、宋代には高い技術を使った美しい白磁、青磁等が官用、輸出品として商品生産されるようになり、明代以後窯業の街として世界的に有名となる江西省の景徳鎮も宋代から生産地として繁栄しました。
(但し、宋時代の景徳鎮は、戦乱で荒廃し、現在に伝わる作品は少ないとのことです)

 製茶、絹織物、陶磁器を中心に諸産業が発達し、各地では特産物が生産され、流通する様になると客商(宋代以後活躍した遠隔地商人)等が活躍するように成りました。

3.通貨

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交子

 商業の発達に伴い貨幣経済が発達し、貨幣の流通量が増大し、銅銭の他に金銀も地金のまま用いられ、世界最初の紙幣である交子、会子が使用されるように成ります。

 交子は、北宋時代に四川の成都で民間金融業者が発行した手形を、後に政府が発行権を奪って紙幣として発行した世界最初の紙幣です。

 会子は、当初開封や臨安(杭州)等の大都市の金融業者が発行した手形を、南宋が銅銭の不足を補う為に発行した紙幣でした。

4.都市の発展

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清明上河図・開封

 商工業の発達、貨幣経済の発達に伴い都市が発達しました。
宋代の都市の特色として、唐代迄の大都市は政治都市の性格が強かったのに対し、宋代の都市は商業都市の性格が強く、北宋の都、開封、南宋の都、臨安(杭州)等の大都市も政治都市の性格よりも商業都市としての性格が強かったのです。

 開封、杭州等の大都市と共に、地方でも鎮、市と呼ばれた地方の小都市が数多く出現しました。
鎮、市は各地に設けられた定期市から生まれた草市(城外の物資の交易場)から発達したものです。

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南宋時代の臨安図

 中国の都市は、周囲を城壁で囲まれ、夜になると城門は閉じられ出入りが出来なり、城壁内でも、夜になると「坊」(大通りによって囲まれた方形の区画)の門が閉じられ、他の坊との行き来も出来ませんでした。
又、都市内では「市」(唐の長安の東市、西市が有名)と呼ばれる一定の区域内でのみ商業が許されたのですが、市の四方の門も朝夕に開閉され、営業が許されたのは門が開いている日の出から日没までと定められていました。

 宋代になり、商工業がますます発達するようになると、こうした「坊」、「市」等の制限が崩れ、商人は都市のどこにでも自由に商店を出せるようになり、夜間営業も許されるようになります。

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南宋時代の杭州(イメージ)

 唐代の長安は夜になると暗闇の中でひっそりと朝を迎えたのでしょうが、宋代の開封(人口60~70万人)、臨安(杭州)(人口100~150万人)等の大都市では、夜も煌々と明るく、大通りに沿って酒楼が建ち並び、小料理店が店を並べ、至る所に市が立つようになっていました。
又、瓦市と呼ばれた劇場、寄席等が集まる歓楽街があり、さまざまな娯楽を楽しむことも出来ました。開封の繁栄ぶりは清明節(清明は春分から15日目で中国では墓参が行われた)の日の開封の様子を描いた「清明上河図」で窺い知ることが出来ます。

 営業の自由を獲得した商人達は、営業の独占や相互扶助を目的として同業者が集まって組合を作ります。
商人の同業組合は「行」、手工業者の同業組合は「作」と呼ばれ、米を扱う商人の米行をはじめ、絹行、銀行の他乞食行(!)迄あったと云われています。
行の運営は選ばれた役員が担当しましたが、役員のほとんどは有力な大商人で占められていました。

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宋時代の交易船

 宋代には外国貿易も盛んとなり、茶、絹、陶磁器等が輸出され、外国の諸物資が輸入されます。
イスラム教徒、東南アジア、朝鮮、日本等の船が広州、泉州、明州(めいしゅう、寧波)、臨安(杭州)等の港市に盛んに出入りして貿易を行い、これらの港市は外国貿易によって大いに繁栄し、主な港市には唐代に引き続いて市舶司(海上貿易に関する事務を司る役所)が置かれていました。

ジョークは如何?

ナチ突撃隊の隊長が列車の中で一人のユダヤ人と向きあう。
「ユダヤ人、言ってみろ。ドイツが戦争に敗れたのは誰のせいか。」
「隊長殿、ユダヤ人の将軍たちのせいです。」
「どうしてだ、われわれの陣営にはユダヤ人の将軍など、いなかったぞ。」
「隊長殿、われわれの方ではなく、相手の方です!」


続く・・・

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一度中国のお茶を飲んでみたい

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