歴史を歩く62
12中国社会と北方民族⑦
7 宋代の文化
宋代の文化の特色は、中国的、国粋的な文化でり、士大夫(社会的には農工商に対して読書人、知識人階級を指し、官界では科挙出身の高級官僚を指す)を中心とした学問、文芸が発達し、商工業の発達によって力をつけてきた都市の庶民が文化の担い手となり庶民文化が栄えたことなどがあげられます。
1、学問・思想
宋は軍事的に弱体で北方民族の圧迫に苦しめられた為、その文化は中国的、国粋的なものとなりましたが、此れは学問、思想の面によく表れていると思います。
儒学では宋学がおこり、南宋の朱熹によって大成されました。
宋学は、唐代迄の儒学が経典の字句の解釈を中心とする訓詁学が中心であったことへの批判から、細かい字句の解釈にとらわれず、経典を自由に解釈し、儒学の精神、本質を明らかにしょうとした新しい儒学です。

周敦頤
宋学は北宋の周敦頤(1017年~73年)に始まり、彼は「大極図説」を著し、大極と名づける宇宙の本体から万物、人間、聖人が生ずるとし、人は学んで聖人になりうると説いて宋学の始祖とされました。
彼の説は弟子の程顥(1032年~85年)、程頤(1033年~1107年)によって更に発展しました。

程顥、程頤兄弟
周敦頤、程顥、程頤等の学説を発展させて宋学を集大成した人物が南宋の朱熹(朱子、1130年~1200音)で、彼は19歳で科挙に合格し、後に皇帝の侍講となりましたが、権臣に憎まれてわずか45日で辞職し、以後70歳で辞官する迄、其の殆どを名目的な奉祠の官(道教寺院の管理官)に留まりました。

朱熹
朱熹は、「理気説(理気二元論)」(宇宙、万物は、理と気からなり、理は人、物の性(本性・本質)であり、気は物質・存在を意味し、この理と気が結びついて万物が存在するという二元的存在論)に基づいて、これを人間の道徳に応用し「性即理」(心の本体である性は理であるから、気(欲望)を捨てて理にしたがって生きることを理想とする倫理説)を説き、その学問方法として「格物致知」(物の理をきわめて、知をつくすこと)を唱え、従来儒教の聖典とされてきた「五経」よりも「四書」(大学、中庸、論語、孟子)を重んじたのでした。
漢民族は古くから中華思想を持ち続け、自等を中華と誇り、周辺の異民族を戎狄蛮夷(じゅうてきばんい)と呼んで蔑視してきました。
ところが南宋は華北を金に奪われ、金に臣下の礼をとらざるを得なかったことから、朱熹は北宋の司馬光らも唱えた「大義名分論」(上下関係の秩序を重んじ、君臣・父子の身分秩序を正そうとする思想的立場)、「正統論」を唱え、華夷の区別を論じ、「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著して君臣、父子の道徳を絶対視して宋の君主独裁制を思想的に支えました。
宋学は、朱熹によって大成されたので朱子学とも呼ばれ、又程朱学、理学、性理学とも呼ばれます。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、朝鮮や日本の思想に大きな影響を与え、李氏朝鮮(李朝)は朱子学を官学とし、江戸幕府も統治理念として朱子学を採用しました。

陸九淵
朱熹とほぼ同時代に活躍した南宋の陸九淵(陸象山、1139年~92年)は、朱熹の「性即理」説に対して「心即理」説を唱えます。
彼は宇宙本体の理は個人の心であり、心をさぐれば理が見いだせると説いて朱熹と対立し、朱熹が学問、知識を重んじたのに対し、道徳の実践を重んじます。
その説は明代に王守仁(王陽明)に受け継がれ、陽明学の源流と成ります。
儒学以外の学問の分野では、民族意識の高まりのなかで歴史学や地理等の学問が重要視され、「新唐書」(欧陽脩らの撰、唐一代を記した紀伝体正史)や「新五代史」(欧陽脩撰、五代の紀伝体正史)等の多くの歴史書が著された中でも、司馬光の「資治通鑑」は特に有名で著作物です。

司馬光
北宋の政治家で旧法党の党首であった司馬光が著した「資治通鑑」は、編年体の通史で戦国時代から五代までの1362年間の事跡を本文294巻に編纂した歴史書であり、完成迄に19年を要した大著です。
この歴史書は儒教的大義名分論、正統論の立場で貫かれ、君主治世の参考資料として書かれ、以後学者必読の書とされました。
朱熹は「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著し、「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」は「資治通鑑」に書かれた事実を大義名分論、正統論の立場から再編纂した歴史書で、後世に大きな影響を及ぼします。
2.宗教

王重陽
宗教では、仏教が宋代には生活の中に深く根を下ろし、実践的な仏教に成長しました。
その代表が禅宗と浄土宗で、禅宗は官僚層、知識人の間に浸透したのに対し、一般庶民の間には阿弥陀仏の浄土に往生を説く浄土宗が広まっていきました。
道教も北宋の真宗や徽宗の信仰を得て、北宋時代には仏教をしのぐ隆盛ぶりでした。
金の統治下にあった華北では王重陽を開祖とし、儒、仏、道三教の調和をはかる全真教が道教の革新を唱えて勃興します。
3.庶民文化

欧陽脩
庶民文化が栄えたことは宋文化の大きな特色ですが、庶民文化を代表するものが「詞」です。
詞は五言、七言にこだわらず長短の句をつないで楽曲に合わせて歌われた韻文で、「唐詩」に対して「宋詞」と称され大いに流行しました。
詞は詩から変化してきたものですが、唐代の詩が貴族や知識人の文学でしたが、詞は民衆に親しまれ、酒席でも客や芸妓によって唱われたので、民衆にも分かる俗語がふんだんに使われています。
一方、知識人も格調高い詞を作っています。
詞とともに庶民に親しまれたものが雑劇や口語をまじえた小説で、雑劇は中国の古典演劇で、北宋で歌としぐさを伴う歌劇として成立し、元代に「元曲」として完成します。
文学では散文が盛んに成り、唐代に韓愈や柳宗元が唱えた古文復興を北宋の欧陽脩が唱えると自由に文章を書くことが流行し、多くの名文家を輩出しました。
唐代の韓愈、柳宗元の二人に宋代の欧陽脩、蘇軾(蘇東坡)、王安石等6人を加えた「唐宋八大家」は名文家として有名です。
文学的教養と並んで、書、絵画も士大夫(知識人階級)にとって重要な教養でした。
4.美術工芸

桃鳩図
美術では、知識人を中心とする文人画や宮廷画家を中心とする院体画がうまれ、文人画は南画とも呼ばれ、士大夫階級の絵画の意味で、山水、自然を題材として水墨で作者の主観的な心境を表現する絵が多く、北宋時代に全盛期を迎えます。
これに対して院体画は院画、北画と呼ばれ、宮廷の画院に属する職業画家の画風で、写実を重んじ装飾的であることが特色で、花鳥、山水、人物等を宮廷趣味に合うように描いきました。
北宋の皇帝徽宗は院体画の代表的な画家としても有名で、「桃鳩図」は徽宗の代表作としてよく知られています。
文人画と院体画はやがてそれぞれ南宗画(なんしゅうが)、北宗画となり、その伝統は清末迄中国画壇を支配していくことに成ります。
工芸では青磁、白磁等の陶磁器が発達しました。
5.科学分野
宋代は中国の科学が発展した時代でも在り、科学技術の面で、いわゆる印刷術、火薬、羅針盤の三大発明が飛躍的な発展をとげて実用化されたのも宋代でした。

活字印刷考案者・畢升
印刷術は隋か唐初に発明されたと推定されていますが、宋代になると文治主義が採用され、科挙が盛んになったことから受験参考書の需要が増大し、大都市では民間の出版物も生まれ、大蔵経等の仏教の経典も数多く出版されました。
初期は一枚の版木に一頁分を彫る整板印刷といわれる方法でしたが、11世紀半ばに北宋の畢昇(ひつしょう)が、泥と膠(にかわ)を混ぜたものに文字を刻み、焼き固めて活字を作った(膠泥活字)と伝えられていますが、木版印刷に比べて不便な為あまり利用されませんでした。

黒色火薬を使用したロケット兵器(12世紀頃)
硝石、硫黄、木炭等を混ぜ合わせて作ったは唐代錬金の過程で偶然出来たと考えられています。
火薬が実戦に用いられるようになったのも宋代で、最初は点火用、威嚇用に用いられ、手や投石機で投げていたのですが、南宋になると大きな竹筒の中に火薬をつめて発射する火筒(ほづつ)が発明され、金軍との戦闘に使用されました。
元寇時にモンゴル軍が使用したのは筒を銅や鉄で作った火筒であったと云われています。
火薬は13世紀頃イスラムを経てヨーロッパに伝えられました。

指南魚のイメージ
磁針が南北を指すことは中国では戦国時代末期に既に知られていたと伝えられています。
それが航海に使われるようになったのも宋代で、北宋の書物に指南魚(魚形の磁鉄を水に浮かべて方角を知る)として用いたことが記されており、南宋の書物には磁針を航海に使用したことが書かれています。
やがて中国に来航したアラビア商人も磁針を利用するようになり、後にヨーロッパに伝わって行きました。
ジョークは如何?
ジュンブル魂
ドイツ兵の攻撃を受けて追いつめられたイギリス兵(チャーチルの場合もあり)がこういった。
「これでわざわざ敵をやっつけるために遠くへ出かけていかなくてすんだ。」
続く・・・
7 宋代の文化
宋代の文化の特色は、中国的、国粋的な文化でり、士大夫(社会的には農工商に対して読書人、知識人階級を指し、官界では科挙出身の高級官僚を指す)を中心とした学問、文芸が発達し、商工業の発達によって力をつけてきた都市の庶民が文化の担い手となり庶民文化が栄えたことなどがあげられます。
1、学問・思想
宋は軍事的に弱体で北方民族の圧迫に苦しめられた為、その文化は中国的、国粋的なものとなりましたが、此れは学問、思想の面によく表れていると思います。
儒学では宋学がおこり、南宋の朱熹によって大成されました。
宋学は、唐代迄の儒学が経典の字句の解釈を中心とする訓詁学が中心であったことへの批判から、細かい字句の解釈にとらわれず、経典を自由に解釈し、儒学の精神、本質を明らかにしょうとした新しい儒学です。

周敦頤
宋学は北宋の周敦頤(1017年~73年)に始まり、彼は「大極図説」を著し、大極と名づける宇宙の本体から万物、人間、聖人が生ずるとし、人は学んで聖人になりうると説いて宋学の始祖とされました。
彼の説は弟子の程顥(1032年~85年)、程頤(1033年~1107年)によって更に発展しました。

程顥、程頤兄弟
周敦頤、程顥、程頤等の学説を発展させて宋学を集大成した人物が南宋の朱熹(朱子、1130年~1200音)で、彼は19歳で科挙に合格し、後に皇帝の侍講となりましたが、権臣に憎まれてわずか45日で辞職し、以後70歳で辞官する迄、其の殆どを名目的な奉祠の官(道教寺院の管理官)に留まりました。

朱熹
朱熹は、「理気説(理気二元論)」(宇宙、万物は、理と気からなり、理は人、物の性(本性・本質)であり、気は物質・存在を意味し、この理と気が結びついて万物が存在するという二元的存在論)に基づいて、これを人間の道徳に応用し「性即理」(心の本体である性は理であるから、気(欲望)を捨てて理にしたがって生きることを理想とする倫理説)を説き、その学問方法として「格物致知」(物の理をきわめて、知をつくすこと)を唱え、従来儒教の聖典とされてきた「五経」よりも「四書」(大学、中庸、論語、孟子)を重んじたのでした。
漢民族は古くから中華思想を持ち続け、自等を中華と誇り、周辺の異民族を戎狄蛮夷(じゅうてきばんい)と呼んで蔑視してきました。
ところが南宋は華北を金に奪われ、金に臣下の礼をとらざるを得なかったことから、朱熹は北宋の司馬光らも唱えた「大義名分論」(上下関係の秩序を重んじ、君臣・父子の身分秩序を正そうとする思想的立場)、「正統論」を唱え、華夷の区別を論じ、「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著して君臣、父子の道徳を絶対視して宋の君主独裁制を思想的に支えました。
宋学は、朱熹によって大成されたので朱子学とも呼ばれ、又程朱学、理学、性理学とも呼ばれます。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、朝鮮や日本の思想に大きな影響を与え、李氏朝鮮(李朝)は朱子学を官学とし、江戸幕府も統治理念として朱子学を採用しました。

陸九淵
朱熹とほぼ同時代に活躍した南宋の陸九淵(陸象山、1139年~92年)は、朱熹の「性即理」説に対して「心即理」説を唱えます。
彼は宇宙本体の理は個人の心であり、心をさぐれば理が見いだせると説いて朱熹と対立し、朱熹が学問、知識を重んじたのに対し、道徳の実践を重んじます。
その説は明代に王守仁(王陽明)に受け継がれ、陽明学の源流と成ります。
儒学以外の学問の分野では、民族意識の高まりのなかで歴史学や地理等の学問が重要視され、「新唐書」(欧陽脩らの撰、唐一代を記した紀伝体正史)や「新五代史」(欧陽脩撰、五代の紀伝体正史)等の多くの歴史書が著された中でも、司馬光の「資治通鑑」は特に有名で著作物です。

司馬光
北宋の政治家で旧法党の党首であった司馬光が著した「資治通鑑」は、編年体の通史で戦国時代から五代までの1362年間の事跡を本文294巻に編纂した歴史書であり、完成迄に19年を要した大著です。
この歴史書は儒教的大義名分論、正統論の立場で貫かれ、君主治世の参考資料として書かれ、以後学者必読の書とされました。
朱熹は「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著し、「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」は「資治通鑑」に書かれた事実を大義名分論、正統論の立場から再編纂した歴史書で、後世に大きな影響を及ぼします。
2.宗教

王重陽
宗教では、仏教が宋代には生活の中に深く根を下ろし、実践的な仏教に成長しました。
その代表が禅宗と浄土宗で、禅宗は官僚層、知識人の間に浸透したのに対し、一般庶民の間には阿弥陀仏の浄土に往生を説く浄土宗が広まっていきました。
道教も北宋の真宗や徽宗の信仰を得て、北宋時代には仏教をしのぐ隆盛ぶりでした。
金の統治下にあった華北では王重陽を開祖とし、儒、仏、道三教の調和をはかる全真教が道教の革新を唱えて勃興します。
3.庶民文化

欧陽脩
庶民文化が栄えたことは宋文化の大きな特色ですが、庶民文化を代表するものが「詞」です。
詞は五言、七言にこだわらず長短の句をつないで楽曲に合わせて歌われた韻文で、「唐詩」に対して「宋詞」と称され大いに流行しました。
詞は詩から変化してきたものですが、唐代の詩が貴族や知識人の文学でしたが、詞は民衆に親しまれ、酒席でも客や芸妓によって唱われたので、民衆にも分かる俗語がふんだんに使われています。
一方、知識人も格調高い詞を作っています。
詞とともに庶民に親しまれたものが雑劇や口語をまじえた小説で、雑劇は中国の古典演劇で、北宋で歌としぐさを伴う歌劇として成立し、元代に「元曲」として完成します。
文学では散文が盛んに成り、唐代に韓愈や柳宗元が唱えた古文復興を北宋の欧陽脩が唱えると自由に文章を書くことが流行し、多くの名文家を輩出しました。
唐代の韓愈、柳宗元の二人に宋代の欧陽脩、蘇軾(蘇東坡)、王安石等6人を加えた「唐宋八大家」は名文家として有名です。
文学的教養と並んで、書、絵画も士大夫(知識人階級)にとって重要な教養でした。
4.美術工芸

桃鳩図
美術では、知識人を中心とする文人画や宮廷画家を中心とする院体画がうまれ、文人画は南画とも呼ばれ、士大夫階級の絵画の意味で、山水、自然を題材として水墨で作者の主観的な心境を表現する絵が多く、北宋時代に全盛期を迎えます。
これに対して院体画は院画、北画と呼ばれ、宮廷の画院に属する職業画家の画風で、写実を重んじ装飾的であることが特色で、花鳥、山水、人物等を宮廷趣味に合うように描いきました。
北宋の皇帝徽宗は院体画の代表的な画家としても有名で、「桃鳩図」は徽宗の代表作としてよく知られています。
文人画と院体画はやがてそれぞれ南宗画(なんしゅうが)、北宗画となり、その伝統は清末迄中国画壇を支配していくことに成ります。
工芸では青磁、白磁等の陶磁器が発達しました。
5.科学分野
宋代は中国の科学が発展した時代でも在り、科学技術の面で、いわゆる印刷術、火薬、羅針盤の三大発明が飛躍的な発展をとげて実用化されたのも宋代でした。

活字印刷考案者・畢升
印刷術は隋か唐初に発明されたと推定されていますが、宋代になると文治主義が採用され、科挙が盛んになったことから受験参考書の需要が増大し、大都市では民間の出版物も生まれ、大蔵経等の仏教の経典も数多く出版されました。
初期は一枚の版木に一頁分を彫る整板印刷といわれる方法でしたが、11世紀半ばに北宋の畢昇(ひつしょう)が、泥と膠(にかわ)を混ぜたものに文字を刻み、焼き固めて活字を作った(膠泥活字)と伝えられていますが、木版印刷に比べて不便な為あまり利用されませんでした。

黒色火薬を使用したロケット兵器(12世紀頃)
硝石、硫黄、木炭等を混ぜ合わせて作ったは唐代錬金の過程で偶然出来たと考えられています。
火薬が実戦に用いられるようになったのも宋代で、最初は点火用、威嚇用に用いられ、手や投石機で投げていたのですが、南宋になると大きな竹筒の中に火薬をつめて発射する火筒(ほづつ)が発明され、金軍との戦闘に使用されました。
元寇時にモンゴル軍が使用したのは筒を銅や鉄で作った火筒であったと云われています。
火薬は13世紀頃イスラムを経てヨーロッパに伝えられました。

指南魚のイメージ
磁針が南北を指すことは中国では戦国時代末期に既に知られていたと伝えられています。
それが航海に使われるようになったのも宋代で、北宋の書物に指南魚(魚形の磁鉄を水に浮かべて方角を知る)として用いたことが記されており、南宋の書物には磁針を航海に使用したことが書かれています。
やがて中国に来航したアラビア商人も磁針を利用するようになり、後にヨーロッパに伝わって行きました。
ジョークは如何?
ジュンブル魂
ドイツ兵の攻撃を受けて追いつめられたイギリス兵(チャーチルの場合もあり)がこういった。
「これでわざわざ敵をやっつけるために遠くへ出かけていかなくてすんだ。」
続く・・・
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コメント
桃鳩図が良いね
今日も元気よく参りましょうっす
今日もよろしくお願いします
|_∧ オハヨ-♪
|∀゜)
|⊂
|/
|′
2014-11-24 05:13 流木庵{え~ちゃん} URL 編集