歴史を歩く63
13 モンゴル民族の発展

モンゴル帝国最大版図:イェケ・モンゴル・ウルス ”Yehe Monggol Ulus.png Yeke Monγγol Ulus”「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」
1 モンゴル帝国の成立
モンゴル高原は、東は大興安嶺から西はアルタイ山脈、南は陰山山脈から北はシベリアに至る高原の砂漠、草原地帯です。
ゴビ砂漠によって南北に分けられ、北を外モンゴル、南を内モンゴルと呼びます。
モンゴル高原では、古くからモンゴル系やトルコ系の遊牧民族が活躍してきましたが、9世紀頃にトルコ系のウイグル人が西方に移動した後は、モンゴル系諸部族の居住地と成りました。

モンゴル帝国成立以前のモンゴル高原
10世紀以後、契丹人が遼を建国して強大となると、モンゴル諸部族の多くはこれに服属しますが、12世紀初めに遼は金に滅ぼされ、しかも金の勢力は外モンゴルに及ばなかった結果、モンゴル高原の諸部族はその勢力を拡大しようとして争いを繰りひろげていきます。
言うまでもなく、遊牧民族の財産は馬、羊等の家畜ですが、その家畜を養うためには水と草が必要で、モンゴル高原には肥沃な草原地帯はそれ程に多く在りません。
古来、豊かな草原地帯として知られてきたのが、外モンゴルの中央部にあるオルコン川やセレンガ川一帯の草原地帯でした。
モンゴル部もオノン川、ケルレン川の畔を根拠地として、西方のオルコン川やセレンガ川流域への進出の機会をねらっていたのです。
そのモンゴル部に、12世紀後半、一人の英雄が現れます。
世界史上最も有名な人物の一人であるチンギス・ハンです。

チンギス・ハン
(1162年~1227年、生年については異説が在り)、幼名テムジン(鉄木真)はモンゴル部の有力な部将イェスゲイの子として生まれたのですが、テムジンが13歳の時に、父がタタール部によって毒殺されたため、父の部下の多くが離散してしまい、テムジン一家(母と5人の子)は窮乏のどん底に陥りました。
一家はブルカン山に逃れ、木の実や草の根をも食べながら困窮の生活に耐えたのです。
こうした逆境の中でテムジンは、草原の戦いに参加して鍛えられながら優れた指導者に成長していきます。
そして同族のジャムカやケレイト部のワン・ハンと同盟して勢力の拡大に努め、やがてモンゴル部の長に推戴され(1188年)、その後、金と協力して父の仇敵であったタタール部を破ります(1196年)。テムジンの勢力が強まるとワン・ハンとは敵対することと成りましたが、これを破ってケレイト部を滅ぼし(1203年)、更にナイマン部、メルキト部を滅ぼしていきました。
ジャムカはこの時ナイマンの陣営に加わっていたのですが捕らえられて殺され、もはやモンゴル高原にはテムジンに敵対する勢力は存在しませんでした。
1206年に全モンゴルの部族の長が集まって開かれたクリルタイ(モンゴル語で「集会」の意味、有力者が集まり、ハンの選定、遠征の決定、法令の発布など国家の重要事を合議、決定する)で、テムジンは全モンゴルのハン(カン、汗、突厥、ウイグル、モンゴルの君主の称)に推戴され、チンギス・ハンの尊称を与えられました。
チンギスとは、「強大」を意味する語とも、シャーマニズムにおける最高神「光の神」の意味とも言われています。

チンギス・ハンと愛馬ホユルザガル、背後に聖地ブルカン山地
チンギス・ハン(太祖、成吉思汗、在位1206年~1227年)は、全モンゴルを統一すると、モンゴル帝国(1206年~1271年)の建国の功臣88人を千戸長に任命し、95の千戸を編成しました。
この千戸制は、全遊牧民を95の千戸集団に分け、それぞれを更に百戸、十戸に分けて、各々に長を置く軍事、行政組織で、モンゴルの強力な軍事力の基礎となったのです。
チンギス・ハンは、全モンゴルを統一すると、シルク・ロードの貿易による利益に着目し、これを手中に収めるために侵略の矛先をシルク・ロードの確保、支配に向け、まず西夏に侵入、これを屈服させ(1209年)、更に金を攻撃して和議を結び、多額の金銀、絹、馬を贈らせることを約束させました(1214年)。

西夏攻略
この頃、西アジアのホラズム朝が和平の使節を送ってきます。
チンギス・ハンも莫大な贈り物とともに返礼の使節を送ったのですが、その隊商隊がホラズムのオトラルに着いた時、その町の長は使節を殺し、物資を掠奪する事件が起こり、このことがチンギス・ハンの大規模な西征のきっかけと成りました。
チンギス・ハンは、中央アジアに軍を進め、西遼(カラ・キタイ)を滅ぼしてその故地を奪ったナイマン部を滅ぼし、翌1219年に20万の大軍でホラズム朝に侵入、オトラルついで首都のサマルカンドを陥落、抵抗する住民を皆殺しにした挙句、あらゆる財物を掠奪し、ホラズム朝を事実上滅亡に追い込み(1221年)、更に逃げるホラズムの王子を追って西北インドに侵入し、別働隊はイラン、南ロシアに侵入し、これを征服しました。
チンギス・ハンは、次男チャガタイ、三男オゴタイ、末子トゥルイとともにモンゴル高原に凱旋したのですが(1225年)、長男のジュチは南ロシアに留まりました。
チンギス・ハンは、帰国後征服した広大な領域を一族の者に分け与え、長男ジュチに南ロシアを、次男のチャガタイに中央アジア西部を、三男オゴタイに中央アジア東部を、そして末子のトゥルイにはモンゴル本土を相続させようとします。
モンゴル民族をはじめ遊牧民族の間には末子相続の慣習があり、この時点ではチンギス・ハンの所領はトゥルイが相続すると考えられていました。
南ロシアに留まっていたジュチはまもなく亡くなり、その後をジュチの子のバトゥが継承します(1224年乃至25年)。

オゴタイ・ハン
チンギス・ハンは帰国後、休む間もなく西夏に遠征し、終に西夏を滅ぼしたのですが、その帰途の陣中で没し(1227年)、チンギス・ハンの死後、モンゴルの慣習に従って末子のトゥルイが国政を執り、次のハンを選定するクリルタイもトゥルイによって召集されました(1229年)。
クリルタイではトゥルイを推す者も多かったのですが、チンギス・ハンの遺言によって三男のオゴタイがハンに推戴されます。
オゴタイは温厚な性格で、仲が悪かった長男ジュチと次男チャガタイの不和をいつも調停する等、人望もあったので、チンギス・ハンはオゴタイを後継者にしたといわれています。
ジョークは如何?
1937年、ロシアの偉大な詩人アレクサンデル・プーシキンの死後百周年を記念して、ソ連政府はプーシキン記念像のコンクールを公布した。様々なアイデアが殺到した。
厳正な選考の結果、次の三つの作品が佳作となった。
「コーカサスの頂きに立ち、はるか彼方を眺めるプーシキン。」
「決闘の敵手の弾丸を胸に受け、まさに倒れんとするプーシキン。」
「ミューズの手から月桂冠を戴くプーシキン。」
だが、一等賞を獲得したのはこんな作品だった。
「プーシキンを読むスターリン。」
続く・・・

モンゴル帝国最大版図:イェケ・モンゴル・ウルス ”Yehe Monggol Ulus.png Yeke Monγγol Ulus”「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」
1 モンゴル帝国の成立
モンゴル高原は、東は大興安嶺から西はアルタイ山脈、南は陰山山脈から北はシベリアに至る高原の砂漠、草原地帯です。
ゴビ砂漠によって南北に分けられ、北を外モンゴル、南を内モンゴルと呼びます。
モンゴル高原では、古くからモンゴル系やトルコ系の遊牧民族が活躍してきましたが、9世紀頃にトルコ系のウイグル人が西方に移動した後は、モンゴル系諸部族の居住地と成りました。

モンゴル帝国成立以前のモンゴル高原
10世紀以後、契丹人が遼を建国して強大となると、モンゴル諸部族の多くはこれに服属しますが、12世紀初めに遼は金に滅ぼされ、しかも金の勢力は外モンゴルに及ばなかった結果、モンゴル高原の諸部族はその勢力を拡大しようとして争いを繰りひろげていきます。
言うまでもなく、遊牧民族の財産は馬、羊等の家畜ですが、その家畜を養うためには水と草が必要で、モンゴル高原には肥沃な草原地帯はそれ程に多く在りません。
古来、豊かな草原地帯として知られてきたのが、外モンゴルの中央部にあるオルコン川やセレンガ川一帯の草原地帯でした。
モンゴル部もオノン川、ケルレン川の畔を根拠地として、西方のオルコン川やセレンガ川流域への進出の機会をねらっていたのです。
そのモンゴル部に、12世紀後半、一人の英雄が現れます。
世界史上最も有名な人物の一人であるチンギス・ハンです。

チンギス・ハン
(1162年~1227年、生年については異説が在り)、幼名テムジン(鉄木真)はモンゴル部の有力な部将イェスゲイの子として生まれたのですが、テムジンが13歳の時に、父がタタール部によって毒殺されたため、父の部下の多くが離散してしまい、テムジン一家(母と5人の子)は窮乏のどん底に陥りました。
一家はブルカン山に逃れ、木の実や草の根をも食べながら困窮の生活に耐えたのです。
こうした逆境の中でテムジンは、草原の戦いに参加して鍛えられながら優れた指導者に成長していきます。
そして同族のジャムカやケレイト部のワン・ハンと同盟して勢力の拡大に努め、やがてモンゴル部の長に推戴され(1188年)、その後、金と協力して父の仇敵であったタタール部を破ります(1196年)。テムジンの勢力が強まるとワン・ハンとは敵対することと成りましたが、これを破ってケレイト部を滅ぼし(1203年)、更にナイマン部、メルキト部を滅ぼしていきました。
ジャムカはこの時ナイマンの陣営に加わっていたのですが捕らえられて殺され、もはやモンゴル高原にはテムジンに敵対する勢力は存在しませんでした。
1206年に全モンゴルの部族の長が集まって開かれたクリルタイ(モンゴル語で「集会」の意味、有力者が集まり、ハンの選定、遠征の決定、法令の発布など国家の重要事を合議、決定する)で、テムジンは全モンゴルのハン(カン、汗、突厥、ウイグル、モンゴルの君主の称)に推戴され、チンギス・ハンの尊称を与えられました。
チンギスとは、「強大」を意味する語とも、シャーマニズムにおける最高神「光の神」の意味とも言われています。

チンギス・ハンと愛馬ホユルザガル、背後に聖地ブルカン山地
チンギス・ハン(太祖、成吉思汗、在位1206年~1227年)は、全モンゴルを統一すると、モンゴル帝国(1206年~1271年)の建国の功臣88人を千戸長に任命し、95の千戸を編成しました。
この千戸制は、全遊牧民を95の千戸集団に分け、それぞれを更に百戸、十戸に分けて、各々に長を置く軍事、行政組織で、モンゴルの強力な軍事力の基礎となったのです。
チンギス・ハンは、全モンゴルを統一すると、シルク・ロードの貿易による利益に着目し、これを手中に収めるために侵略の矛先をシルク・ロードの確保、支配に向け、まず西夏に侵入、これを屈服させ(1209年)、更に金を攻撃して和議を結び、多額の金銀、絹、馬を贈らせることを約束させました(1214年)。

西夏攻略
この頃、西アジアのホラズム朝が和平の使節を送ってきます。
チンギス・ハンも莫大な贈り物とともに返礼の使節を送ったのですが、その隊商隊がホラズムのオトラルに着いた時、その町の長は使節を殺し、物資を掠奪する事件が起こり、このことがチンギス・ハンの大規模な西征のきっかけと成りました。
チンギス・ハンは、中央アジアに軍を進め、西遼(カラ・キタイ)を滅ぼしてその故地を奪ったナイマン部を滅ぼし、翌1219年に20万の大軍でホラズム朝に侵入、オトラルついで首都のサマルカンドを陥落、抵抗する住民を皆殺しにした挙句、あらゆる財物を掠奪し、ホラズム朝を事実上滅亡に追い込み(1221年)、更に逃げるホラズムの王子を追って西北インドに侵入し、別働隊はイラン、南ロシアに侵入し、これを征服しました。
チンギス・ハンは、次男チャガタイ、三男オゴタイ、末子トゥルイとともにモンゴル高原に凱旋したのですが(1225年)、長男のジュチは南ロシアに留まりました。
チンギス・ハンは、帰国後征服した広大な領域を一族の者に分け与え、長男ジュチに南ロシアを、次男のチャガタイに中央アジア西部を、三男オゴタイに中央アジア東部を、そして末子のトゥルイにはモンゴル本土を相続させようとします。
モンゴル民族をはじめ遊牧民族の間には末子相続の慣習があり、この時点ではチンギス・ハンの所領はトゥルイが相続すると考えられていました。
南ロシアに留まっていたジュチはまもなく亡くなり、その後をジュチの子のバトゥが継承します(1224年乃至25年)。

オゴタイ・ハン
チンギス・ハンは帰国後、休む間もなく西夏に遠征し、終に西夏を滅ぼしたのですが、その帰途の陣中で没し(1227年)、チンギス・ハンの死後、モンゴルの慣習に従って末子のトゥルイが国政を執り、次のハンを選定するクリルタイもトゥルイによって召集されました(1229年)。
クリルタイではトゥルイを推す者も多かったのですが、チンギス・ハンの遺言によって三男のオゴタイがハンに推戴されます。
オゴタイは温厚な性格で、仲が悪かった長男ジュチと次男チャガタイの不和をいつも調停する等、人望もあったので、チンギス・ハンはオゴタイを後継者にしたといわれています。
ジョークは如何?
1937年、ロシアの偉大な詩人アレクサンデル・プーシキンの死後百周年を記念して、ソ連政府はプーシキン記念像のコンクールを公布した。様々なアイデアが殺到した。
厳正な選考の結果、次の三つの作品が佳作となった。
「コーカサスの頂きに立ち、はるか彼方を眺めるプーシキン。」
「決闘の敵手の弾丸を胸に受け、まさに倒れんとするプーシキン。」
「ミューズの手から月桂冠を戴くプーシキン。」
だが、一等賞を獲得したのはこんな作品だった。
「プーシキンを読むスターリン。」
続く・・・
スポンサーサイト
コメント
チ(ジ)ンギス・ハンは好きです
( ノ゚Д゚)こんにちは
明るく元気に過ごしましょう
お早うございます
近畿は朝3時ごろ地震が起きました
今日もよろしくお願いします
//
/ /パカ
/ /
/ /ハ,,ハ
/ ヽ(=゚ω゚)ノ__
// ( x ) /
" ̄ ̄ ̄ ̄
2014-11-26 04:15 流木庵{え~ちゃん} URL 編集