2014/11/28

歴史を歩く64

13 モンゴル民族の発展②

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モンゴル帝国の家系図

1 モンゴル帝国の成立その2

 オゴタイ・ハン(太宗、1186年~1241年、在位1229年~41年)は、即位するとチンギス・ハンの宿願であった金攻略に乗り出し、南宋と結んでついに金を滅ぼしました(1234年)。
これによって淮水以北の広大な農耕地帯がその支配下に入りますが、漢人の支配にはチンギス・ハンの遺言に従って遼の王族出身の耶律楚材(1190年~1244年)を用います。

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耶律楚材

 オゴタイ・ハンはオルコン川上流のカラコルムに長方形の城壁に囲まれた中国風の首都を建設しました。
そしてカラコルムと占領地との間に公道を建設し、駅伝制(ジャムチ)を整備し、又甥のバトゥに命じてヨーロッパ遠征(1236年~42年)を行わせるなど領土の拡大に努めます。

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バトゥ

 バトゥ(1207年~55年)は、チンギス・ハンの長男ジュチの次男で、父の死後南ロシアの所領を受け継ぎ、ヨーロッパ遠征の指揮を取り、15万の大軍を率いて東欧に向い、モスクワを陥落させ、ドン川の畔で軍馬を休ませ、1年にわたって兵力を蓄えた後、ロシアの中心都市キエフを攻略(1240年)、全ロシアを征服し、バトゥの本隊はハンガリーに向かいます。

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ワールシュタット(リーグニッツ)の戦い

 副指揮官であるスブタイ率いる別隊はポーランドに侵入し、シュレジェン侯ハインリヒ2世の率いるポーランド・ドイツ連合軍がポーランドのリーグニッツ東南でモンゴル軍との戦いに敗走し、ハインリヒは戦死しますが、後にこの地はワールシュタット(死体の地)と呼ばれた、戦いもワールシュタット(リーグニッツ)の戦い(1241年)と呼ばれます。
ポーランド各地を荒掠した後、南下してバトゥの本隊と合流し、ハンガリーを征服しました。

 次は西ヨーロッパ諸国がモンゴル軍の侵略の恐怖にさらされることと成りましたが、モンゴル軍は翌年俄かに撤退を始めました。
オゴタイの死(1241年)の報が伝えられたためでした。

しかし、バトゥはモンゴル本国に帰国せず、ヴォルガ下流のサライに留まり、父ジュチの封土に南ロシアのキプチャク草原一帯を加えて、サライを都とするキプチャク・ハン国(1243年~1502年)を創建し、その初代のハンと成りました。

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モンゴル遠征図

 オゴタイ・ハンの死後、その皇后が監国となって政務を司ります。
彼女はオゴタイの子のグユクをハン位に就けようと考えたのですが、グユクとかねてより仲が悪かった最長老のバトゥはグユクの即位に反対し、南ロシアに留まってクリルタイに出席しようとしませんでした。

 オゴタイの死から5年後、バトゥ不在の中でクリルタイが開かれ、グユク(在位1246年~48年)が大ハンに選ばれて即位します、グユクは僅か在位2年で病死し、その結果汗位相続争いが再燃します。
バトゥは自等の手でクリルタイを開き、強引にチンギス・ハンの末子のトゥルイの長男モンケを第4代の大ハンに選出しました。

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モンケ・ハン

 モンケ・ハン(憲宗、1208年~59年、在位1251年~59年)は即位すると、オゴタイ系の諸王を処分し、ハンの権威の確立に努め、対外的には弟のフビライ(1215年~94年)を中国(華北)の大総督に任命して華北経営にあたらせるとともに、吐蕃(チベット)、大理(雲南)遠征を行わせ、又同じく弟のフラグをイラン方面の総督に任命し、西アジア遠征を行わせました。

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モンゴル軍、フラグのバグダット包囲

 フラグ(1218年~65年)は中央アジア、カスピ海南岸を経て、アッバース朝の首都バグダードに至ってこれを攻撃し、翌年バグダードを陥れると共に掠奪、虐殺を行い街を焼き払います。
此処に500年間渡って繁栄したアッバース朝は終に滅亡しました(1258年)。

 フラグは次いでシリアを征服し、更にマムルーク朝治下のエジプトへ侵入を試みますが撃退され、イランに戻ったフラグはこの地にイル・ハン国(1258年~1353年)を建国しました。

 フラグ・ハン(在位1258年~65年)は、モンケ・ハンの死(1259年)に際し、帰国を諸事情から断念し、イランに留まり、兄フビライが大ハン位を継ぐと(1260年)元朝と友好関係を保ち、キプチャク・チャガタイ両ハン国と抗争を繰り返しました。

 モンケ・ハンは、自等は南宋攻略に出陣しましたが(1258年)、四川の陣中で病没し(1259年)、
こうしてモンゴル帝国は13世紀の中頃迄には、東は中国の華北から西は西アジア・ロシアにまたがる空前の大帝国へと成長しました。

ジョークは如何?

1941年9月、ドイツ軍がレニングラードに侵攻し、たちまち包囲されてしまった。
ソ連軍の善戦のもと、戦いは膠着状態となった。
1日も早くレニングラードが解放されることが期待されたが、ある日、守備隊長から、至急あるものを送って欲しい、という電報が届いた。
武器が足りなくなったのかと思ったら、
「もっと度数の強いウォッカを送って下さい。戸外の温度は-45度、ここにあるウォッカの度数は40度。とても戦争にはなりません。」


続く・・・

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知っているのはフビライだけ笑

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