2014/11/30

歴史を歩く65

13 モンゴル民族の発展③

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2 モンゴル帝国の分裂

 モンゴル帝国は、13世紀の中頃には、東は中国の華北から西は西アジア・ロシアにまたがる空前の大帝国に成長しましたが、この大帝国には遊牧地帯と農耕地帯があり、宗教や文化の異なる民族が多数存在した為、全領土を一つの国家として支配することは本来困難でした。

 チンギス・ハンが西征の後、領土を子供達に分け与えた頃からこの大帝国に分裂の傾向が現れ、フビライが大ハンの位についた(1260年)頃にはモンゴル帝国は、元と西北モンゴルのオゴタイ・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国、ロシアのキプチャク・ハン国そしてイラン方面のイル・ハン国の4ハン国に事実上分裂しました。

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 フビライ(1215年~94年)は、モンケ・ハンが即位すると、中国(華北)の大総督に任命され華北経営にあたるとともに、吐蕃(チベット)、大理(雲南)に遠征を行い、これを征服します。

 モンケが南宋攻略中に四川で病没した時、フビライは顎州(現在の武漢)を包囲しており、モンケ・ハンの直属軍は本国に引き揚げたのですが、フビライは安南(ヴェトナム)に出兵している部将を見殺しに出来ず、その北上を待って合流して長江を渡り、上都(開平)に帰還します。

 モンケ・ハンの死後、フビライは次のハンの有力な候補者でしたが、首都カラコルムに残っていた末弟のアリクブガはモンケ・ハンに最も寵愛されていたので、モンケ・ハンの死後、後事を託されていたと唱え、クリルタイでハン位に推戴されるよう画策していました。
これに対してフビライの最も有力な支持者であるフラグは、西アジアに赴いていて頼みにならず、クリルタイにおける選挙の結果は予断を許さない情勢でした。

 そこで南宋攻略のための大軍を握っていたフビライは、実力でハン位を争うことを決意し、有力者の不参加を無視して北京の北方にある上都(開平)でクリルタイを開き、推戴されて大ハンの位に就いたのです(1260年)。

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モンゴル帝位継承戦争

 フビライの即位に対しては方々で反対が起こりました。
アリクブガは、フビライのクリルタイを認めず、反対派から推戴されて大ハンを名乗り、軍備を整えて敵対し、フビライはしばしば敗北しますが、劣勢を盛り返して敵軍を破り、ついにアリクブガを降伏させます(1264年)。
こうしてアリクブガは降伏したものの、今度はハイドゥが反乱を起こします。

 ハイドゥは、オゴタイ・ハンの孫で、グユク・ハンの死後、ハン位がオゴタイ系からトゥルイ系に移ったことに不満を持ち、モンケ・ハンの即位の時に暗殺を謀ったが失敗し、封地を削減されていました。
フビライが即位してアリクブガと対立すると、アリクブガを支持して反乱を起こした(1266年)のですが、これも失敗に終わると、キプチャク、チャガタイ、オゴタイの3ハン国連合の盟主となって元朝に反抗を続けますが、戦傷が原因で没します(1301年)。
 
 この40年近くに及ぶハイドゥの乱(1266年~1301年)によってモンゴル帝国の分裂は決定的となりました。

オゴタイハン
オゴタイ・ハン

 オゴタイ・ハン国(1225年頃~1310年)は、オゴタイ・ハンおよびその子孫がジュンガリア地方に建てた遊牧国家で、首都はイリ川の西北エミールに定められました。
元朝に対してはしばしば反乱を起こし、先にも述べたハイドゥの乱がその最大のもので、後にチャガタイ・ハン国に併合されました。

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チャガタイ・ハン

 チャガタイ・ハン国(1227年~1300年代後半)は、チャガタイがイリ川からシル川にかけて建国した遊牧国家で、イリ川流域のアルマリクを都とし、ハイドゥの乱後まもなくオゴタイ・ハン国を併合したものの、14世紀にイスラム化し、内紛によって東西に分裂しました(1321年)。
このうち西チャガタイ・ハン国はティムールによって滅ぼされます。

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バトゥ・ハン
 
 キプチャク・ハン国(1243年~1502年)は、チンギス・ハンの孫のバトゥが西征の帰途に南ロシアに建てた遊牧国家で、都はヴォルガ下流のサライに置かれました。
14世紀前半に在位したウズベク・ハンはイスラム教を正式に採用し、又商業、貿易を奨励して最盛期を現出します。
しかし、14世紀末にティムールにサライを掠奪されて衰え始め、更に支配下にあったモスクワ大公国が次第に台頭し、そのイヴァン3世の時に独立した(1480年)結果崩壊しました。

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フレグと第一正妃ドクズ・ハトゥン

 イル・ハン国(1258年~1353年(1411年))は、チンギス・ハンの孫のフラグが、1258年にアッバース朝を滅ぼし、イラン地方を支配して建てた国で、都はカスピ海南西のタブリーズに置かれました。イル・ハン国は元朝と友好を保ち、キプチャク・チャガタイ両ハン国と抗争します。

 イル・ハン国は、初めネストリウス派キリスト教徒を保護し、イスラム教徒を圧迫しましたが、第7代の英主ガザン・ハン(在位1295年~1304年)は、イスラム教に改宗し、これを国教としました。又彼はイラン人のラシード・ウッディーンを宰相に任命し、セルジューク朝のイクター制を採用し、学芸、文化を保護するなどイル・ハン国の黄金時代を築きますが、その後はハン位抗争や内乱に苦しみ、14世紀後半には分裂し、その領土はティムールに征服、併合されていきました。

ジョークは如何?

第二次世界大戦でのイタリア軍の話

彼らは一週間かけて60km進軍した・・・・
イギリス軍の反撃を受けて60kmを一日で後退した・・・

イタリアの戦車には前進1速・後進6速の戦車があるらしい。

続く・・・

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コメント

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モンゴル帝国の版図に朝鮮が入ってない地図は結構独特ですね^^ニヤニヤ