歴史を歩く66
13 モンゴル民族の発展④

フビライ・ハン
3 元の中国支配(侵略)
フビライ・ハン(世祖、在位1260年~94年)は、兄モンケ・ハンの死後、上都(開平)でクリルタイを開き大ハンの位に就き(1260年)、都をカラコルムから大都(現在の北京)に遷都(1264年)、国号を中国風に元と称しました(1271年)。
フビライは、彼の即位に反対するアリクブガの反乱を平定すると、全力を傾けて南宋攻略に着手し、南宋の重要な拠点である襄陽を5年にもわたる長期包囲戦で陥落させると(1273年)、更に南下して長江中流の要衝である顎州(現在の武漢)を占領し、長江を下り、蕪湖で南宋軍を劇は、首都臨安を包囲しました。
南宋では文天祥らが抗戦を唱えましたが、皇太后は幼い恭帝(在位1274年~76年)を伴って元に降伏しますが、主戦論を唱えた陸秀夫等は恭帝の庶兄である端宗(在位1276年~78年)を擁立し、彼の死後は弟の帝昞(ていへい、在位1278年~79年)を擁立して海上に逃れ、福州、泉州を経て、最後はマカオの西南の崖山島に逃れましたが、元軍の総攻撃を受けて南宋軍が壊滅する中で、陸秀夫は幼い皇帝を背負って入水し、南宋は終に滅亡します(崖山の戦い、1279年)。

南宋滅亡・崖山の戦い
文天祥は、講和の交渉の為に元の陣中に赴いたものの、そのまま抑留され、後に脱走して各地を転戦して元軍と戦いますが、最後には捕らえられて大都に送られた後、死刑と成りました(1282年)。
南宋を滅ぼし中国全土を支配下に置いた元の領土は、フビライ治世時に最大となり、その領土は中国、モンゴル、満州に及び、チベット(1252年に服属)、朝鮮(高麗)、ミャンマー(ビルマ)を属国としました。

高麗軍将兵
高麗(918年~1392年)は、オゴタイ・ハンの時代に元軍の侵入を受けて降伏した(1231年)のですが、その翌年都を開京から江華島に移し、モンゴルに背いた結果、モンゴルは再び大軍を送り込みます。
以後連年にわたる侵略、掠奪と破壊を続け、高麗は再び降伏し、モンゴルの属国となりました(1259年)。
モンゴルはダルガチ(占領地の統治官、長官)を派遣して高麗を直接支配し、以後モンゴルの文化、制度を強制していきます。
このモンゴルの占領下で三別抄(別抄、強兵軍団)が反乱を起こしました(1270年~73年)。
別抄3軍団は、最後に耽羅(済州島)に篭って抵抗続けましたが終に鎮圧され、高麗は完全に属国となり、フビライは此処高麗を拠点とし、更に日本を服属させようと画策します。
これより前、フビライの使節が太宰府に来て国書を持参していました(1268年)。
更に翌年にも使節を対馬に派遣したものの目的を果たせず、2年後に3度目の使節を遣わしたのですが(1271年)、この使節も使命を果たせずに帰国しています。

文永の役
フビライは高麗に軍船900隻の建造と兵員、水手の徴発を命じ(1274年初頭)、その完成を待って、モンゴル、高麗の連合軍28000人の大軍が900艘に分乗して合浦を出発し、対馬、壱岐を襲い博多沖に攻め寄せました(1274年10月)。
しかし、暴風雨に遭遇して軍船の多くを失い、溺死した者約13500人と云われています(文永の役)。
フビライは、その翌年4度目の使節を派遣しましたが、時の執権北条時宗は全員を竜の口で斬り捨てました。
フビライは再度の侵略準備を進めましたが、南宋攻略軍が臨安に迫っていた時期でもあった為、軍船の建造も一時中止していました。
間も無く、南宋は臨安陥落の前に降伏(1276年)、崖山の戦いで滅亡したのは上述に通りです(1279年)。

弘安の役・神風
フビライは、南宋を滅ぼすと南宋、高麗に軍船の建造を命じ、1281年今度は軍を二つに分け、一つは高麗から4万人の軍勢が900艘に分乗し、もう一つの軍は征服した南宋軍を主力とした10万人の大軍が3500艘に分乗して江南を発し、7月、4400艘が博多湾に集結、博多付近へ上陸を試みましたが日本側の激しい反撃に遭遇し、鷹島に退いたこの時も再度台風(大風)に遭い、軍船の多くは覆没し、約10万人が溺死したと伝えられています(弘安の役)。
フビライは三度目の遠征を企てますが、江南の反乱、ヴェトナムの反抗更にハイズの乱とそれに呼応するモンゴル東部、満州での反乱が続発し、フビライは終に日本遠征を断念せざるを得なくなりました。

元の東アジア遠征
フビライは日本、ヴェトナム、ジャワに遠征軍を送ったのですが、その遠征は強い抵抗にあって総て失敗に終わっています。
ヴェトナム南部チャンパの反抗に対して、海路大軍を送り込み王城を占領しますが、ここでも暴風に襲われ多くの軍船を失って撤退(1283年~84年)。
又ヴェトナム北部陳朝(1225年~1400年)に2回(1284年、87年)にわたって陸路侵略しますが、酷暑と泥濘に苦しみ、ヴェトナム人の粘り強い反抗に遭遇して撤退。
ジャワ島シンガサーリ朝(1222年~92年)の国王が元からの使者を追放したことから、ジャワ遠征を行ったものの、此方も失敗に終わっています(1292年)。
しかし、ミャンマー(ビルマ)ではパガン朝(1044年~1287年)を滅ぼし、これを属国としました。
ジョークは如何?
第二次世界大戦下のドイツ。
ある町のカトリック教会にナチ党の役人がやってくると、司祭にこう告げた。
「この度、ドイツ国民すべてが党への忠誠心を忘れないように、あらゆる公共の場所で総統ヒトラーと国家元帥ゲーリングの肖像を掲げることとなった。その法令に従い、この教会の礼拝堂にもお二人の肖像を掲げるように」
その次の日曜になって、教区の信者が教会に礼拝にやってくると、あろうことかキリストの磔刑像の両側にヒトラーとゲーリングの肖像画が掲げられているではないか。あまりの事に信者達は言葉もなかったが、先日命令を告げに来た役人だけは司祭が命令に従ったことに満足して意気揚揚と帰っていった。
そこに現れた司祭は、役人が帰っていくのを見送ると説教壇に上がって、呆然の呈を示したままの信者達に向かって厳かに説教を始めた。
「今日は皆さんに、主イエス・キリストの最後のときのお話をいたしましょう。茨の冠を戴き、十字架を背負い、ゴルゴダの丘まで登ってきた主イエス・キリストは、2人の強盗と共に磔に…」
続く・・・

フビライ・ハン
3 元の中国支配(侵略)
フビライ・ハン(世祖、在位1260年~94年)は、兄モンケ・ハンの死後、上都(開平)でクリルタイを開き大ハンの位に就き(1260年)、都をカラコルムから大都(現在の北京)に遷都(1264年)、国号を中国風に元と称しました(1271年)。
フビライは、彼の即位に反対するアリクブガの反乱を平定すると、全力を傾けて南宋攻略に着手し、南宋の重要な拠点である襄陽を5年にもわたる長期包囲戦で陥落させると(1273年)、更に南下して長江中流の要衝である顎州(現在の武漢)を占領し、長江を下り、蕪湖で南宋軍を劇は、首都臨安を包囲しました。
南宋では文天祥らが抗戦を唱えましたが、皇太后は幼い恭帝(在位1274年~76年)を伴って元に降伏しますが、主戦論を唱えた陸秀夫等は恭帝の庶兄である端宗(在位1276年~78年)を擁立し、彼の死後は弟の帝昞(ていへい、在位1278年~79年)を擁立して海上に逃れ、福州、泉州を経て、最後はマカオの西南の崖山島に逃れましたが、元軍の総攻撃を受けて南宋軍が壊滅する中で、陸秀夫は幼い皇帝を背負って入水し、南宋は終に滅亡します(崖山の戦い、1279年)。

南宋滅亡・崖山の戦い
文天祥は、講和の交渉の為に元の陣中に赴いたものの、そのまま抑留され、後に脱走して各地を転戦して元軍と戦いますが、最後には捕らえられて大都に送られた後、死刑と成りました(1282年)。
南宋を滅ぼし中国全土を支配下に置いた元の領土は、フビライ治世時に最大となり、その領土は中国、モンゴル、満州に及び、チベット(1252年に服属)、朝鮮(高麗)、ミャンマー(ビルマ)を属国としました。

高麗軍将兵
高麗(918年~1392年)は、オゴタイ・ハンの時代に元軍の侵入を受けて降伏した(1231年)のですが、その翌年都を開京から江華島に移し、モンゴルに背いた結果、モンゴルは再び大軍を送り込みます。
以後連年にわたる侵略、掠奪と破壊を続け、高麗は再び降伏し、モンゴルの属国となりました(1259年)。
モンゴルはダルガチ(占領地の統治官、長官)を派遣して高麗を直接支配し、以後モンゴルの文化、制度を強制していきます。
このモンゴルの占領下で三別抄(別抄、強兵軍団)が反乱を起こしました(1270年~73年)。
別抄3軍団は、最後に耽羅(済州島)に篭って抵抗続けましたが終に鎮圧され、高麗は完全に属国となり、フビライは此処高麗を拠点とし、更に日本を服属させようと画策します。
これより前、フビライの使節が太宰府に来て国書を持参していました(1268年)。
更に翌年にも使節を対馬に派遣したものの目的を果たせず、2年後に3度目の使節を遣わしたのですが(1271年)、この使節も使命を果たせずに帰国しています。

文永の役
フビライは高麗に軍船900隻の建造と兵員、水手の徴発を命じ(1274年初頭)、その完成を待って、モンゴル、高麗の連合軍28000人の大軍が900艘に分乗して合浦を出発し、対馬、壱岐を襲い博多沖に攻め寄せました(1274年10月)。
しかし、暴風雨に遭遇して軍船の多くを失い、溺死した者約13500人と云われています(文永の役)。
フビライは、その翌年4度目の使節を派遣しましたが、時の執権北条時宗は全員を竜の口で斬り捨てました。
フビライは再度の侵略準備を進めましたが、南宋攻略軍が臨安に迫っていた時期でもあった為、軍船の建造も一時中止していました。
間も無く、南宋は臨安陥落の前に降伏(1276年)、崖山の戦いで滅亡したのは上述に通りです(1279年)。

弘安の役・神風
フビライは、南宋を滅ぼすと南宋、高麗に軍船の建造を命じ、1281年今度は軍を二つに分け、一つは高麗から4万人の軍勢が900艘に分乗し、もう一つの軍は征服した南宋軍を主力とした10万人の大軍が3500艘に分乗して江南を発し、7月、4400艘が博多湾に集結、博多付近へ上陸を試みましたが日本側の激しい反撃に遭遇し、鷹島に退いたこの時も再度台風(大風)に遭い、軍船の多くは覆没し、約10万人が溺死したと伝えられています(弘安の役)。
フビライは三度目の遠征を企てますが、江南の反乱、ヴェトナムの反抗更にハイズの乱とそれに呼応するモンゴル東部、満州での反乱が続発し、フビライは終に日本遠征を断念せざるを得なくなりました。

元の東アジア遠征
フビライは日本、ヴェトナム、ジャワに遠征軍を送ったのですが、その遠征は強い抵抗にあって総て失敗に終わっています。
ヴェトナム南部チャンパの反抗に対して、海路大軍を送り込み王城を占領しますが、ここでも暴風に襲われ多くの軍船を失って撤退(1283年~84年)。
又ヴェトナム北部陳朝(1225年~1400年)に2回(1284年、87年)にわたって陸路侵略しますが、酷暑と泥濘に苦しみ、ヴェトナム人の粘り強い反抗に遭遇して撤退。
ジャワ島シンガサーリ朝(1222年~92年)の国王が元からの使者を追放したことから、ジャワ遠征を行ったものの、此方も失敗に終わっています(1292年)。
しかし、ミャンマー(ビルマ)ではパガン朝(1044年~1287年)を滅ぼし、これを属国としました。
ジョークは如何?
第二次世界大戦下のドイツ。
ある町のカトリック教会にナチ党の役人がやってくると、司祭にこう告げた。
「この度、ドイツ国民すべてが党への忠誠心を忘れないように、あらゆる公共の場所で総統ヒトラーと国家元帥ゲーリングの肖像を掲げることとなった。その法令に従い、この教会の礼拝堂にもお二人の肖像を掲げるように」
その次の日曜になって、教区の信者が教会に礼拝にやってくると、あろうことかキリストの磔刑像の両側にヒトラーとゲーリングの肖像画が掲げられているではないか。あまりの事に信者達は言葉もなかったが、先日命令を告げに来た役人だけは司祭が命令に従ったことに満足して意気揚揚と帰っていった。
そこに現れた司祭は、役人が帰っていくのを見送ると説教壇に上がって、呆然の呈を示したままの信者達に向かって厳かに説教を始めた。
「今日は皆さんに、主イエス・キリストの最後のときのお話をいたしましょう。茨の冠を戴き、十字架を背負い、ゴルゴダの丘まで登ってきた主イエス・キリストは、2人の強盗と共に磔に…」
続く・・・
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コメント
この時は日本は危なかった
寒い朝です。今日は良いお天気が
期待できそうです。お元気でお過ごし
ください。
ヽ从/ 。
ガバッ ∧,,,∧
(´・ω・`;):._
r'⌒と 、j ミヽ <ティロンティロン♪
ノ ,.ィ' `ヽ. /_______
/ i!./ |i\_____ヽ
(_,. //. |ii|====B| │
く`^''ー-、_,,..ノ/ |\||_◎ _|_.i
`~`''ー--‐ .| .| ̄ ̄ ̄ ̄|
\|テレビ台|~
今日も良き日でありますように
2014-12-09 04:59 流木庵{え~ちゃん} URL 編集