歴史を歩く69
13 モンゴル民族の発展⑦

伝説のプレスター・ジョン
5 東西文化の交流と元代の文化
モンゴル帝国の成立によって、ユーラシア大陸の大部分がモンゴル民族の支配下に置かれたこと、モンゴル帝国は駅伝制を整備して通商路の安全の確保に努めたこと、又元朝がモンゴル人第一主義をとり色目人を重用したこと等から、シルク・ロードを往来する隊商の数は著しく増加し、中央アジア、西アジア、ヨーロッパから多くの商人、宣教師、旅行家等が中国を訪れ、人と物の移動に伴って東西文化の交流も盛んとなりました。
当時のヨーロッパは十字軍の時代で、又アジアにキリスト教の司祭王が存在すると云う「プレスター・ジョン」伝説が信じられていた頃で、イスラム教徒を征服したモンゴル帝国に関心を持ち、司祭王を探し出してイスラム教徒を挟撃する目的で教皇やフランス王の使節がモンゴル高原に送られたのです。

キリスト教中国伝道700年記念切手:バチカン発行
イタリア人のフランチェスコ会修道士のプラノ・カルピニ(1182年頃~1252年)は、バトゥのヨーロッパ侵入に驚いた教皇インノケンティウス4世の使節としてカラコルムに派遣されました。
彼はモンゴル人への布教とモンゴル国内の偵察を目的にフランスのリヨンを出発し(1245年)、キエフ、サライ(キプチャク・ハン国の首都)を経てカラコルム付近に至り、教皇の親書を手渡し、返書を得て翌年帰国しました。
彼の報告書(旅行記)はヨーロッパに初めてモンゴルの実状を伝えたものとして重要な史料となっています。
ウィリアム・ルブルック(1220年頃~93年頃)はフランスのフランチェスコ会修道士で、フランス王ルイ9世の使節としてキリスト教の布教とイスラム教徒に対する十字軍への協力を要請することを目的にカラコルムへ派遣されました。
彼はコンスタンティノープルを出発し(1253年)、南ロシアを経てカラコルムに到着、モンケ・ハンに会見を許されます(1254年)。
彼も後に旅行記を著しましたが、カルピニの旅行記と共に当時のモンゴル、中央アジアを知る貴重な史料となっています。

イタリア:25リラ切手
有名なマルコ・ポーロ(1254年~1324年)は、ヴェネツィアの豪商の子として生まれ、17歳の時に、フビライの宮廷を訪れて帰国した父と叔父の二度目の旅行に同行して中国へ向けて出発しました(1271年)。
彼等は中央アジアを経て上都(開平)に至り、フビライに謁見を果たし(1275年)、やがて大都の宮廷でフビライに仕えることに成ります。
マルコ・ポーロはフビライの厚い信任を受け、地方官として各地に赴任し、又フビライの使節として各地を訪れました。
彼の中国滞在は17年間に及び、望郷の念にかられた彼は帰国の許可を願い出たがなかなか許されず、
元朝の皇女がイル・ハン国に嫁ぐ際にやっと帰国を許されて随行を認められ、ザイトン(泉州)を出航し(1290年)、マラッカ海峡、インド洋を経てイランのホルムズに上陸、イル・ハン国の宮廷にしばらく滞在したのちコンスタンティノープルを経てヴェネツィアに帰国しました(1295年)。
帰国した彼はジェノヴァとの戦いで捕虜となり(1298年)翌年釈放されましたが、獄中での旅行の見聞談を同囚の友人ルスチアーノが筆録したものが有名な「世界の記述(東方見聞録)」です。
「世界の記述(東方見聞録)」の中には日本の記述もあり、「黄金の国ジパング」として紹介されています。
その一節に「ジパング(日本)は東海の一島で、大陸或いはマンジ海岸から約1500哩(マイル)の処にあり、この島は可也の大きさで、住民は皮膚の色が美しく、姿がよく、礼儀正しい。宗教は偶像崇拝である。彼らはいかなる外国勢カにも服さず、彼ら自身の王達の支配のみを受けている。黄金が非常に多く、無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないので訪れる商人は僅かしかない。・・・王宮の屋根は凡て黄金の板で葺いてある。・・・広間の床も同じく黄金で、沢山の部屋にはかなりの厚さの純 金のテーブルがあり、窓にも黄金の飾りがついている。・・・この島の富はこれほど有名であつたので,現王フビライ汗の胸中に、この島を征服し領土としようとする欲望がかき立てられた。・・・この島の住民は敵を捕虜にした時、その者が身代金を調達できないと、家に親類や友人を招き、捕虜を殺して料理し、酒宴を開き、人肉ほど美味いものはない と言って食べる(!?)・・・。」と記述されています。

イブン.バトゥータの足跡
イブン.バトゥータ(1304年~68年/69年 或いは77年)はモロッコのタンジールに生まれ、22才の時にメッカへの巡礼の旅に出ました。
メッカに巡礼を終えた彼は、更にキプチャク・ハン国を訪れ、その後中央アジアを南下してインドに入り、約10年間滞在した後、中国の元朝への使節団に加わり、海路中国に至り(1345年)、泉州、広州、杭州、大都(北京)を訪れた後、海路で帰国しました(1349年)。
大都生まれのウイグル人でネストリウス派の司祭であったバール・サウマ(ラッバン・ソーマ)(?~1294年)は、イェルサレムへの巡礼の後イル・ハン国王(イル・ハン国は初めネストリウス派キリスト教を保護した)の使節としてローマ、パリを訪れ、教皇やフランス王に謁見し、その時教皇に西ヨーロッパキリスト教徒とモンゴル人との提携を説き、教皇がモンテ・コルヴィノを大都に派遣するきっかけをつくっています。
モンテ・コルヴィノ(1247年~1328年)はイタリア人のフランチェスコ会修道士で、教皇の命を受けてイル・ハン国を経て海路中国へ向かい、更に泉州を経て大都に到着しました(1294年)。
後に教皇から大都教区大司教に任命され(1307年)、30余年間に亘って大都で布教に従事し、大都で病没しています。
中国には、唐代にネストリウス派キリスト教が伝わり景教と呼ばれましたが、ネストリウス派キリスト教はヨーロッパでは異端とされたキリスト教であり、西ヨーロッパで信仰されていたローマ・カトリック教が中国に伝わったのはこの時が初めてです。
ジョークは如何?
ヒットラーとゲッベルスが占領後のパリ上空をヘリコプターで視察していた。二人はフランス人の抵抗を最小にする方法について討論していた。金をばらまくのはどうだ?
ヒットラーが言った。「このヘリから百マルク札を撒けば、拾った一人は大喜びするぞ。」
ゲッベルスが言った。「それより、十マルク札を十枚撒けば、十人が喜ぶでしょう。」
操縦士がつぶやいた。「この二人をばらまけば、一億人が大喜びするだろう。」
続く・・・

伝説のプレスター・ジョン
5 東西文化の交流と元代の文化
モンゴル帝国の成立によって、ユーラシア大陸の大部分がモンゴル民族の支配下に置かれたこと、モンゴル帝国は駅伝制を整備して通商路の安全の確保に努めたこと、又元朝がモンゴル人第一主義をとり色目人を重用したこと等から、シルク・ロードを往来する隊商の数は著しく増加し、中央アジア、西アジア、ヨーロッパから多くの商人、宣教師、旅行家等が中国を訪れ、人と物の移動に伴って東西文化の交流も盛んとなりました。
当時のヨーロッパは十字軍の時代で、又アジアにキリスト教の司祭王が存在すると云う「プレスター・ジョン」伝説が信じられていた頃で、イスラム教徒を征服したモンゴル帝国に関心を持ち、司祭王を探し出してイスラム教徒を挟撃する目的で教皇やフランス王の使節がモンゴル高原に送られたのです。

キリスト教中国伝道700年記念切手:バチカン発行
イタリア人のフランチェスコ会修道士のプラノ・カルピニ(1182年頃~1252年)は、バトゥのヨーロッパ侵入に驚いた教皇インノケンティウス4世の使節としてカラコルムに派遣されました。
彼はモンゴル人への布教とモンゴル国内の偵察を目的にフランスのリヨンを出発し(1245年)、キエフ、サライ(キプチャク・ハン国の首都)を経てカラコルム付近に至り、教皇の親書を手渡し、返書を得て翌年帰国しました。
彼の報告書(旅行記)はヨーロッパに初めてモンゴルの実状を伝えたものとして重要な史料となっています。
ウィリアム・ルブルック(1220年頃~93年頃)はフランスのフランチェスコ会修道士で、フランス王ルイ9世の使節としてキリスト教の布教とイスラム教徒に対する十字軍への協力を要請することを目的にカラコルムへ派遣されました。
彼はコンスタンティノープルを出発し(1253年)、南ロシアを経てカラコルムに到着、モンケ・ハンに会見を許されます(1254年)。
彼も後に旅行記を著しましたが、カルピニの旅行記と共に当時のモンゴル、中央アジアを知る貴重な史料となっています。

イタリア:25リラ切手
有名なマルコ・ポーロ(1254年~1324年)は、ヴェネツィアの豪商の子として生まれ、17歳の時に、フビライの宮廷を訪れて帰国した父と叔父の二度目の旅行に同行して中国へ向けて出発しました(1271年)。
彼等は中央アジアを経て上都(開平)に至り、フビライに謁見を果たし(1275年)、やがて大都の宮廷でフビライに仕えることに成ります。
マルコ・ポーロはフビライの厚い信任を受け、地方官として各地に赴任し、又フビライの使節として各地を訪れました。
彼の中国滞在は17年間に及び、望郷の念にかられた彼は帰国の許可を願い出たがなかなか許されず、
元朝の皇女がイル・ハン国に嫁ぐ際にやっと帰国を許されて随行を認められ、ザイトン(泉州)を出航し(1290年)、マラッカ海峡、インド洋を経てイランのホルムズに上陸、イル・ハン国の宮廷にしばらく滞在したのちコンスタンティノープルを経てヴェネツィアに帰国しました(1295年)。
帰国した彼はジェノヴァとの戦いで捕虜となり(1298年)翌年釈放されましたが、獄中での旅行の見聞談を同囚の友人ルスチアーノが筆録したものが有名な「世界の記述(東方見聞録)」です。
「世界の記述(東方見聞録)」の中には日本の記述もあり、「黄金の国ジパング」として紹介されています。
その一節に「ジパング(日本)は東海の一島で、大陸或いはマンジ海岸から約1500哩(マイル)の処にあり、この島は可也の大きさで、住民は皮膚の色が美しく、姿がよく、礼儀正しい。宗教は偶像崇拝である。彼らはいかなる外国勢カにも服さず、彼ら自身の王達の支配のみを受けている。黄金が非常に多く、無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないので訪れる商人は僅かしかない。・・・王宮の屋根は凡て黄金の板で葺いてある。・・・広間の床も同じく黄金で、沢山の部屋にはかなりの厚さの純 金のテーブルがあり、窓にも黄金の飾りがついている。・・・この島の富はこれほど有名であつたので,現王フビライ汗の胸中に、この島を征服し領土としようとする欲望がかき立てられた。・・・この島の住民は敵を捕虜にした時、その者が身代金を調達できないと、家に親類や友人を招き、捕虜を殺して料理し、酒宴を開き、人肉ほど美味いものはない と言って食べる(!?)・・・。」と記述されています。

イブン.バトゥータの足跡
イブン.バトゥータ(1304年~68年/69年 或いは77年)はモロッコのタンジールに生まれ、22才の時にメッカへの巡礼の旅に出ました。
メッカに巡礼を終えた彼は、更にキプチャク・ハン国を訪れ、その後中央アジアを南下してインドに入り、約10年間滞在した後、中国の元朝への使節団に加わり、海路中国に至り(1345年)、泉州、広州、杭州、大都(北京)を訪れた後、海路で帰国しました(1349年)。
大都生まれのウイグル人でネストリウス派の司祭であったバール・サウマ(ラッバン・ソーマ)(?~1294年)は、イェルサレムへの巡礼の後イル・ハン国王(イル・ハン国は初めネストリウス派キリスト教を保護した)の使節としてローマ、パリを訪れ、教皇やフランス王に謁見し、その時教皇に西ヨーロッパキリスト教徒とモンゴル人との提携を説き、教皇がモンテ・コルヴィノを大都に派遣するきっかけをつくっています。
モンテ・コルヴィノ(1247年~1328年)はイタリア人のフランチェスコ会修道士で、教皇の命を受けてイル・ハン国を経て海路中国へ向かい、更に泉州を経て大都に到着しました(1294年)。
後に教皇から大都教区大司教に任命され(1307年)、30余年間に亘って大都で布教に従事し、大都で病没しています。
中国には、唐代にネストリウス派キリスト教が伝わり景教と呼ばれましたが、ネストリウス派キリスト教はヨーロッパでは異端とされたキリスト教であり、西ヨーロッパで信仰されていたローマ・カトリック教が中国に伝わったのはこの時が初めてです。
ジョークは如何?
ヒットラーとゲッベルスが占領後のパリ上空をヘリコプターで視察していた。二人はフランス人の抵抗を最小にする方法について討論していた。金をばらまくのはどうだ?
ヒットラーが言った。「このヘリから百マルク札を撒けば、拾った一人は大喜びするぞ。」
ゲッベルスが言った。「それより、十マルク札を十枚撒けば、十人が喜ぶでしょう。」
操縦士がつぶやいた。「この二人をばらまけば、一億人が大喜びするだろう。」
続く・・・
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コメント
操縦士も良いこと言う
寒くなりましたね?
体調には気をつけて、
本日も良い一日をお過ごし下さいね!
頑張ってね
,,,-,,, , - ,,
ミ ミ ミ ,ミ
`∩∧/∩"
ヽ( ゚ー゚) ガンバレ
| 〈 ガンバレ
~/_,,, ヽ
し レ
2014-12-29 05:14 流木庵{え~ちゃん} URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2014-12-29 16:37 編集