2015/01/04

歴史を歩く70

13 モンゴル民族の発展⑧

5.東西文化の交流と元代の文化その②

 元朝が優遇した色目人には、イスラム教徒が多く、中国でもイスラム教が次第に広まり、天文学、数学等を中心とするイスラム文化が中国に伝えられました。

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 郭守敬

 郭守敬(1231年~1316年)は、フビライに仕えて多くの水利事業を行いましたが、従来の暦が不正確になり、暦法の改革の事業が行われるとこれに参加し、多くの観測機械を製作して精密な観測を行い、授時暦を制定しました(1280年)。

 授時暦はイスラムの天文学に基づいて作られた暦で、1年を365.2425日とする太陰暦です。
日本にも影響を及ぼし、江戸時代に作られた貞享暦(じょうきょうれき)はこの授時暦を基礎として作られた暦で1685年から1872(明治5年)迄使用されました。

 又イラン、インドには、モンゴルの進出によって中国絵画が伝えられ、その影響を受けてミニアチュール(細密画)が盛んとなります。

 モンゴル人は中国を征服する前から西方の高度なイスラム文化に接していた為、中国文化にはコンプレックスを持たず、中国固有の学問、思想には関心を示さなかった結果、儒学は不振をきわめました。
その一方でモンゴル人に理解されやすかった戯曲、小説を中心とする庶民文化は宋代に引き続いて発達します。

 元の庶民文化を代表する作品が、元曲(雑劇)で、宋代から盛んとなった雑劇は、元代に形式も整い元曲として大いに栄え、「漢文・唐詩・宋詞・元曲」と呼ばれ、中国文化史の上で重要な地位を占めています。

 元曲は、琵琶、琴、三弦等の楽器に合わせて俳優が演じ、歌い、語る古典劇で、台詞は全て口語であった為庶民に愛好され、現在約300の脚本が残っています。
代表的な作品としては「西廂記」、「琵琶記」、「漢宮秋」等が有名です。

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西廂記

 「西廂記」は、愛する男女が上流階級の封建的なしきたりの為に離ればなれになるものの、最後は結ばれる恋愛物語です。

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琵琶记•糟糠自厌

 「琵琶記」は、主人公が妻を残して科挙の受験の為に都に出て行き、優秀な成績で合格し、宰相に見込まれて娘と結婚し、出世して幸せな生活を送っていました。
田舎に残された妻は貞節を守り、夫の母を養いながら待つが飢饉で母が亡くなったので、夫を捜す為に都に出て行きます。
上京してみると夫は栄華を極めていて近寄ることもできなかったのですが、苦難の末に夫と再会して幸せに暮らすと云う作品です。

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漢宮秋より王昭君

 「漢宮秋」は、前漢の元帝の宮女、王昭君が匈奴との和親政策の為に、呼韓邪単于に嫁せられ、その地で亡くなる哀話を劇化した作品です。

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国志演義:劉備玄徳、関羽雲長、張飛益德 桃園の儀

 又中国の四大奇書のうち、「三国志演義」、「水滸伝」の原形が出来たのも元代です。
小説は、宋代から流行するように成り講釈が口語による文章として書かれ、庶民の間に広まって行きました。
「三国志演義」を読んでみても、もともと講釈師によって語られていたものであることが、その形式に残っています。

 モンゴル人は、公用語としてモンゴル語を用い、公文書はウイグル文字やパスパによって作成されたチベット文字を基礎とするパスパ文字が使用されました。

<王昭君の歩いた道>

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王昭君

 中国の歴史上、悲劇の美女と言えば、如何なる人物を連想しますか?
私は、第一に王昭君の名前を思い起こします。

 今を遡る、2000年の昔、漢の都長安から、匈奴王の妻と成り、遥か北の方へ去って行く、其処は、寒風吹きすさぶ草原の中、宮殿も玉楼も無く、幕舎を住居として、毛皮を衣とする、口にする物は、羊の肉であり、飲むのは、馬、羊の乳。
絶世の麗容も風雪に拉がれ、故国を思い泣き暮らしつつ、枯骨むなしく、荒野に朽ち果てる。
しかも王昭君が、匈奴に送られた訳は、宮中に画工に金品を贈らず、醜く描かれた為と伝えられています。

 王昭君の哀話は、中国に於いて長く、かつ広く語り継がれ、既に六朝時代(紀元4世紀)には、物語として形創られ、歌曲として謡われ、唐代には、李白、杜甫もその詩の中に詠じたのです。
海を隔てた、日本にも伝わり、王昭君の曲は、雅楽にも収められ、又王昭君の物語絵巻が、王朝貴族に好まれた事は、源氏物語にも現れています。
そして、詩の題材としても好んで、取り上げられました。
「身は化して早く胡の朽骨たり、家は留まってむなしく漢の荒門となる」。
「昭君もし黄金の賂を贈らましかば、定めてこれ身を終うるまで帝王に奉まつらまし」。
之は、和漢朗詠集に収める「王昭君」の詩の一節です。

 時代は進み、元の時代には、戯曲にも脚色され、なかでも傑作は「漢宮秋」で、此処における、王昭君は、匈奴に送られる途中、国境の大河に身を投じます。
其れは、異国の男に身をまかせまいとする、漢族女性の誇りを示すものに違い無く、現実、元の時代、漢民族は、モンゴル族に支配されていたのですから。

 しかし、こうした物語に描かれた王昭君は、必ずしも彼女の真の姿を伝えたものでは有りません。
歴史書に記された彼女は、むしろ別の意味で非情でした。
異民族を懐柔する為、その王に後宮の美女を贈る事は、漢帝国では、政策の一部に過ぎず、皇族の女性でさえ、しばしば、涙を流したものでした。

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呼韓邪単于と王昭君

 王昭君に関して、史書が伝える処は、以下の様で、西暦紀元前33年、匈奴の王、呼韓邪単于の願いに従い、漢の元帝は、五人の宮女を選び、これを賜ったのですが、その中の一人が、王昭君でした。
彼女は、17歳の時、宮中に仕えたのですが、数年を過ぎても皇帝の寵愛を得られず、其れを悲しみ、恨み、自ら求めて匈奴の王に嫁ぐ事と成り、然らば、彼女は、期する処が有って匈奴王の所は行ったのではないでしょうか?
伝えられている物語とは、かなり異なる状況と思います。

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菱田春草:王昭君

 さて、辞去の場に戻り、匈奴の王も長安に来朝しており、元帝は宴を設け、五人の宮女も席を同じくしました。
此処で初めて謁見する王昭君の豊容や、如何に。
その光は、宮廷を明るく照らし、左右も心動かされ、元帝も大いに驚き、彼女を留めんと欲したが、匈奴との約束を違える事は出来ませんでした。

 かくて王昭君は、匈奴に赴き、王の妃となり、一子を産みますが、2年後呼韓邪単于は、世を去ります。
匈奴の風習では、父や兄の死後、後を継ぐ子や弟は、その妻も妃とします。
呼韓邪単于の長子が王となり、王昭君をも妃としますが、ここで、彼女は漢の朝廷に上書し、帰らん事を願いますが、もとより許されず、匈奴の地に留まり、更に2女を産みますが、9年を経て、二度目の夫も世を去りました。

 その後の王昭君が、如何なる人生を送ったのか判りません。
呼韓邪単于の子供達は、次々と王位を受け継ぎましたが、彼女の子供だけは、王位に就く事は叶わず、或るいは、殺害されたとも伝えられますが、二人の娘は、王族に嫁ぎ、おそらく幸せな生涯を送ったと思われます。

 では、王昭君の悲劇とは、如何なる事でしょう。
現在でも、同様な物語が在れば、悲劇、悲話で在るに違い無いのですが、漢の時代に在って、彼女の生涯は、決して最高の悲劇では有りませんでした。
其れが、後世、多くの人々の涙を誘ったのは、歴史の記録が伝えない、更なる悲哀が在るのか、其れとも後世における、王昭君の哀話は、作家達の創作に過ぎないのでしょうか?

 もとより、王昭君の最後は、判りません。
その墓も、黄河の上流に青塚と呼ばれる場所が在り、古くから王昭君を弔った所と伝えられますが、真偽の程は、判りません。
他にも王昭君の墓と伝えられる墓も複数、存在していますので、彼女の名前が有名になった後、付けられた事もあると思います。

ジョークは如何?

『人類の戦いの歴史において、かくも多くの人が、かくも多くのことを、かくも少ない人に委ねたことはいまだかつてなかった。』
 この有名な言葉のシャレが当時のパイロットたちの間ではこんなふうにささやかれた。『多くのことを、少ない人にってのはな、

戦死する前に飲み屋のツケを払っておけってことだよ。』


続く・・・
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