2015/01/10

歴史を歩く72

14 イスラム帝国の成立①

1 ムハンマドとイスラム教

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天使ジブリールから啓示を受けるムハンマド

 イスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット、570年頃~632年)は、日本の聖徳太子、中国秦王朝の煬帝とほぼ同時代にアラビア半島のメッカに生まれ、40歳頃神の啓示を受けてイスラム教を創始しました。

 イスラム教は、キリスト教(約19億人)、仏教(約3億人)と並ぶ世界の三大宗教で、今日、西アジア、アフリカを中心に約11億人の人々に信仰されています。
 
 ムハンマドの生まれたアラビア半島のメッカは、当時国際的な中継貿易都市として繁栄していました。
アラビア半島は大部分が砂漠で、セム系のアラブ人は古くからオアシスを中心に遊牧や農業そして隊商(キャラバン)による商業活動を営んでいました。

 アラビア半島はこの時代迄世界史の中ではあまり注目されることは殆んど無く、かつてのアケメネス朝ペルシアやローマ帝国の様な大帝国の版図もこの半島に及ぶことはなく、世界史の主流からはずれていました。

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6世紀頃のアラビア半島と隊商路の変化

 そのアラビア半島が脚光をあびるようになるのは、6世紀頃からで、この頃ササン朝ペルシアのホスロー1世(在位531年~579年)とビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝(在位527年~565年)がメソポタミアをめぐって激しく争った為に、この地域を通る従来のシルク・ロードは危険性が高まり、キャラバンが危険なルートを避けた結果、シルク・ロードは次第に衰えていきました。

 又、ビザンツ帝国の国力低下とともに紅海貿易も衰えたことから、アラビア半島の西海岸を経由してシリアに至る中継貿易路が繁栄するように成ります。
この国際的な中継貿易を独占して莫大な利益を得ていたのがメッカの大商人達です。

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ムハンマドの家系図

 ムハンマドは、このメッカのクライシュ族の名門ハーシム家に生まれました。
クライシュ族は、古くからメッカの東方で遊牧を営んでいましたが、5世紀にメッカを征服してこの地に定住し、中継貿易に従事するようになり、シリア、エジプトとの貿易を独占しました。
クライシュ族に属する多くの氏族の中で、特にハーシム家とウマイヤ家が有力でした。

 ムハンマドは、幼くして両親と死別し、祖父、伯父に養育され、やがてキャラバンに従事して、アラビア半島・、シリア等を旅する中で見聞を広め、ユダヤ教やキリスト教にも接しました。
25歳頃、メッカの大商人の未亡人ハディージャと結婚し、裕福な生活に入ったのですが、当時のメッカにおける貧富の差の増大等に心を痛め、メッカ郊外の山の洞窟で瞑想に耽ることが多くなりました。40歳頃(610年頃)、天使ガブリエルから「起きて警告せよ」とのアッラーの啓示を受け、やがて預言者(神の言葉を人々に伝える使徒)であると自覚し、唯一神アッラーへの絶対帰依(イスラム)を説き、布教を始めたのでした。

 彼はメッカの一部の大商人達による富の独占を批判し、「アッラーの前に人間は平等である」と説いたので、メッカの下層民の間に信者を得ていきます。
そのため当然ながら、メッカの特権階級である大商人達から迫害を受けるように成りました。

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聖遷

 622年、ムハンマドは少数の信者達とともにメッカを脱出し、ムハンマドの支持者が多かったメディナ(元はヤスリブと呼ばれた)に逃れ、この出来事はヒジュラ(ヘジラ、聖遷)と呼ばれ、イスラム暦の紀元元年とされています。

 イスラム暦はヒジュラの年の年初(西暦622年7月16日)を紀元元年とする太陰暦です。
太陰暦で1年が354日である為に太陽暦の西暦とはずれが生じます。

 メディナへの移住後、ムハンマドに率いられたムスリム(イスラム教徒を意味するアラビア語、アッラーに身を捧げた者の意味)の共同体であるウンマ(イスラム教団)が成立し、それを背景にムハンマドはメディナの支配者となり、敵対者と戦い、周辺の各部族にイスラム教を布教していきました。

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カーバ神殿(現在)

 そして630年1月には1万人の軍勢を率いて、かつて彼を追放したメッカを包囲し、無血占領を果たします。
そこで今迄多神教の神殿であったカーバ神殿の偶像を破壊し、以後イスラム教の聖堂としました。
カーバ神殿はメッカの大モスク(イスラム教の寺院)の中央にあり、石造で高さ15メートルの立方体の建物で、コーランの言葉を刺繍した黒い布で覆われ、東隅の壁の下に神聖視された黒石がはめ込まれています。
イスラム暦の12月には世界中から多くの巡礼者が集まることは有名です。

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ムハンマド、メッカ入城

 その後、アラビア半島の諸部族はムハンマドの支配下に入り、彼が亡くなる632年迄にアラビア半島はほぼ統一されました。
ムハンマドは632年に「別れの巡礼」(メッカへの巡礼)を行った直後に病に陥り、メディナで没し、その地に葬られました。

 イスラム教は、唯一神アッラーへの絶対的服従(イスラム)を教義の中心とする宗教で、聖典の「コーラン」は、ムハンマドに下されたアッラーの啓示を記録したもので、114章から成り、第3代カリフ、ウスマーンの時代、650年頃に現在の形にまとめられ、アラビア語で書かれています。

 イスラム教徒は、六信(イスラム教徒が信ずべきこと)を信じ、五行(イスラム教徒が行うべきこと、義務)を実行し、その他イスラム法によって規定されている様々な禁忌(ハラム)を守らねばなりません。

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メッカ礼拝の作法

 六信とは、
(1)アッラーは唯一絶対の神であり、万物の創造者である。
(2)天使がアッラーと人間の世界との間に存在し、両方の世界を媒介している。
(3)聖典の「コーラン」が最も純粋に神の言葉を示している。
(4)ムハンマドは預言者である。
※アッラーはムハンマド以前にもモーセ、ダヴィデ、イエス等の預言者をこの世に送ったのですが、ムハンマドは最後にして最大の預言者とされています。
(5)最後の審判により、人々は生前の善行、悪行の多少によって天国と地獄にわけられる。
(6)天命、神の意志は人間の意志、行為を通じて現れ、人間の全ての行為はアッラーが創造したものである。
以上6つのことを信ずることです。

 五行とは、
(1) 信仰告白(2)礼拝(3)断食(4)喜捨(5)巡礼の5つの義務を実行することです。

(1)信仰告白は「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはその使徒である」という言葉を唱えること。
(2)礼拝は、1日に5回、どこにいてもメッカのカーバ神殿に向かって礼拝を行うこと。
1回目は日の出前、以後正午、日没前、日没後そして寝る前の5回で、一度の礼拝は短い人でも10分位、長い人は1時間以上に及ぶと云います。
(3)断食は、イスラム暦の9月(ラマダーン)に1ヶ月間、日の出から日没まで一切の飲食を断つことで、イスラム暦は太陰暦で1年が354日であるため、年によっては真夏、真冬に当たることもあり、特に真夏の断食は大変な苦行であると思います。
ラマダーン明けには盛大な祭りが行われますが、病人・妊婦・幼児・老人等体の弱い人には免除されます。
(4)喜捨(ザカート)とは、貧しい人々への施しを云い、農作物・家畜・商品・貨幣などの一定額を自発的に差し出すことで、その用途は貧しい人々の扶助に限られています。
後には税の形を取るようになり、救貧税の性格を持つようになりました。
(5)巡礼は、一生のうち一度はメッカのカーバ神殿に巡礼すること。

 この他、成年男子にはジハード(聖戦、異教徒に対するイスラム教の拡大又は防衛の戦い)に参加する義務が課せられています。

 以上の六信・五行の他に、イスラム法によって日常生活に様々な禁忌が規定されています。

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メッカ礼拝

 飲酒の禁止、汚れた動物とされる豚肉を食べることは禁止、又定められた方法以外で処理された肉を食べることも禁止されています。
利子を取ることも禁止され、イスラムの銀行に預金しても利子は付きません。
男は4人迄妻を持つことが可能ですが、但し4人を平等に愛することが条件です。
女は夫以外の男性に顔や肌を見せてはならず、そのためにチャドルを着用します。
左手は不浄とされているので食事や物の受け渡しに使わないなどがよく知られています。

 イスラム教は、このように単に信仰の面だけでなく、社会生活全般にわたってムスリムの日常生活と密接に結びついていることが大きな特色なのです。

※現在でもメッカ、メディナには、非イスラム教徒は入境できません。

ジョークは如何?

1946年、戦後間もない頃、ケルン市の獄房で二人の囚人が話し合っていた。

「お前は何をやらかしたんだ?」

「ユダヤ寺院の壁に“ユダ公出て行け”と書いたのさ。それで、お前は何をやったんだ?」

「俺はただ“ユダヤ人大歓迎”と書いただけさ。ところが、そこはガス炉の壁だったんだ。」

続く・・・
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