歴史を歩く73
14 イスラム帝国の成立②

イスラム帝国の版図
2アラブ人の征服

アブー・バクルとムハンマド
ムハンマドの死後、イスラム教徒は教団の指導者としてカリフを選出しました。
カリフは代理人、後継者を意味し、アブー・バクルが教団の指導者に選ばれた時、最初にこの称号を用い、以後イスラム教徒全体の政治的首長の称号となりました。
初代カリフに選ばれたアブー・バクル(在位632年~634年)はムハンマドの親友で、早くから彼に従い、片腕として迫害に耐え、メディナに移ってからも教団の長老として重きをなしていました。 彼の娘がムハンマドの妻の一人になっていたので義父にあたります。
初代カリフに選ばれるとアラブ人の団結に力を注ぎ、各地に遠征軍を送り、後の発展の基礎を築いきました。

アブー・バクルの死後、彼の遺言で第2代カリフにはウマル(在位634年~644年)が就き、彼は、当初ムハンマドを迫害する側にあったのですが、回心して熱心なイスラム信者となり、教団の重鎮となっていました。
カリフに就任すると大規模な征服戦争(ジハード、聖戦)を継続し、シリア(635年)・エジプト(642年)をビザンツ帝国から奪い、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを撃破、これを事実上滅亡に追いやり、イラク、イランを征服して大帝国を形成しました。
征服地から租税の徴収を始め、イスラム暦を採用したのもウマルです。
しかし、最後はイラン人奴隷に暗殺されています。

コーラン
第3代カリフには、ウマイヤ家出身のウスマーン(オスマーン)(在位644年~656年)が選出され、彼もムハンマドの教友で彼の娘と結婚していました。
敬虔なイスラム信者であったウスマーンは「コーラン」を現在の形にまとめさせたことで知られています。
彼も征服事業を更に進めたものの、ウマイヤ家出身者を重用したために反対派に暗殺されています。
第4代カリフに選出されたのがアリー(在位656年~661年)で、ムハンマドは最初の妻ハディージャとの間に3男4女をもうけましたが、男子はすべて早世し、ムハンマドの晩年までただ一人残った娘ファーティマの夫となったのが、ムハンマドの従兄弟であったアリーでした。
アリーはハディージャに次いで2番目に入信したと云われ、ムハンマドから厚い信頼を受けていました。
アリーは、第4代カリフに選出されたのですが、当時シリア総督であった実力者のムアーウィア(?~680年)は、第3代カリフのウスマーン(ムアーウィアの伯父)の暗殺にアリーが関係しているとして対立し、内乱を起こします。
両者は戦いの後、いったんは休戦しますが、講和に反対するハワーリジュ派の刺客によってアリーはクーファで暗殺されます(661年)。
ムアーウィアは、アリーの暗殺後、自らカリフを称してウマイヤ朝(661年~750年)を創始します。
初代のアブー・バクルから4代のアリー迄は、ムスリムの選挙で選ばれたので、この時代を正統カリフ時代(632年~661年)と呼称します。
暗殺されたアリーの支持者達は、ムアーウィアが樹立したウマイヤ朝のカリフを認めず、ムハンマドの娘ファーティマと結婚したアリーとアリーの子孫だけがイスラムの最高指導者(イマーム)となる資格があるとするシーア派を形成していきます。
シーア派は、現在のイスラム教徒の約1割を占め、アリーの息子がササン朝ペルシア(イラン人が建てた王朝)の王の娘と結婚したためイラン人の間に広まり、現在のイラン・イスラム共和国の国教となりました。
これに対して、現在のイスラム教徒の約9割の多数派を占めているのがスンナ(スンニ)派で、スンナ派はウマイヤ朝のカリフを含めて代々のカリフを正統と認める立場を取っています。
正統カリフ時代に、シリア、エジプト、イランを征服し、東は中央アジアから西は北アフリカ中央部にまたがる大帝国が形成されると、多くのアラブ人は征服地に移住し、今日のエジプトは9割以上がアラブ人で占められています。

ウマイヤ朝を創設したムアーウィア(?~680年、在位661年~680年)は、クライシュ族の名門ウマイヤ家に生まれた。彼の父はムハンマドを迫害する有力者の1人でしたが、ムアーウィアはムハンマドがメッカを征服するとイスラム教に帰依し、シリア征服に軍功をあげてシリア総督となり、ダマスクスを中心に勢力を伸ばしました。
第3代カリフのウスマーン(ムアウィアの伯父)が暗殺され、アリーが第4代カリフとなると、アリーがウスマーン暗殺に関係していると主張し、アリーと対立、抗争を繰り広げ、やがてアリーが暗殺されると、アリーの子にカリフ継承権を放棄させて、カリフとなり、都をメディアからダマスクスに遷して、ウマイヤ朝を開き、以後、ウマイヤ家がカリフの地位を世襲し、ウマイヤ朝は14代続くことに成ります。
ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世(在位705年~715年)の時に、東は中央アジア、西北インド迄、西は北アフリカの西迄征服し、更にイベリア半島に進出してゲルマン人の国家である西ゴート王国を滅ぼし(711年)、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる大帝国を建設し、ウマイヤ朝の最盛期を築きます。

ポワティエの戦い (732年10月25日) シャルル・スチューベン (Charles Steuben)画 1837年
イスラム軍は、その後フランク王国に侵入しますが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルの率いるフランク軍に敗れ、ピレネー山脈の南に後退しました。
ウマイヤ朝はアラブ第一主義を採用し、アラブ人を支配者として、彼らに多くの特権を与えました。そして征服地の先住民にだけジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を課し、彼らがイスラム教に改宗しても免除されることは在りませんでした。
ジズヤは異教徒の支払う人頭税で、ムハンマドはユダヤ教徒とキリスト教徒(彼らは啓典の民と呼ばれ、他の異教徒とは区別された)に課して、そのかわりに信仰の維持を認めましたが、正統カリフ時代には征服地の異教徒に拡大され、自由身分の成年男子に課し、貨幣で徴収しました。
ハラージュは地租で、第2代カリフのウマルがイラクで最初に徴収し、アラブの征服が農耕地帯に拡大するにつれて、国庫収入の大部分を占めるように成り、最初は土地面積に応じて一定額を徴収していましたが、8世紀末から実際の収穫の半分を徴収するようになりました。
貨幣又は現物、及びその併用で徴収されています。
正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけては、アラブ人が支配者として特権を持ち、被征服民を差別して支配したので、この大帝国はアラブ帝国とも呼ばれます。
14代、90年間続いたウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に滅ぼされました。
ジョークは如何?
スターリンは天国に行った。
あんなに悪いことをしたのに?
納入業者用の入口から入ったんだ。
続く・・・

イスラム帝国の版図
2アラブ人の征服

アブー・バクルとムハンマド
ムハンマドの死後、イスラム教徒は教団の指導者としてカリフを選出しました。
カリフは代理人、後継者を意味し、アブー・バクルが教団の指導者に選ばれた時、最初にこの称号を用い、以後イスラム教徒全体の政治的首長の称号となりました。
初代カリフに選ばれたアブー・バクル(在位632年~634年)はムハンマドの親友で、早くから彼に従い、片腕として迫害に耐え、メディナに移ってからも教団の長老として重きをなしていました。 彼の娘がムハンマドの妻の一人になっていたので義父にあたります。
初代カリフに選ばれるとアラブ人の団結に力を注ぎ、各地に遠征軍を送り、後の発展の基礎を築いきました。

アブー・バクルの死後、彼の遺言で第2代カリフにはウマル(在位634年~644年)が就き、彼は、当初ムハンマドを迫害する側にあったのですが、回心して熱心なイスラム信者となり、教団の重鎮となっていました。
カリフに就任すると大規模な征服戦争(ジハード、聖戦)を継続し、シリア(635年)・エジプト(642年)をビザンツ帝国から奪い、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを撃破、これを事実上滅亡に追いやり、イラク、イランを征服して大帝国を形成しました。
征服地から租税の徴収を始め、イスラム暦を採用したのもウマルです。
しかし、最後はイラン人奴隷に暗殺されています。

コーラン
第3代カリフには、ウマイヤ家出身のウスマーン(オスマーン)(在位644年~656年)が選出され、彼もムハンマドの教友で彼の娘と結婚していました。
敬虔なイスラム信者であったウスマーンは「コーラン」を現在の形にまとめさせたことで知られています。
彼も征服事業を更に進めたものの、ウマイヤ家出身者を重用したために反対派に暗殺されています。
第4代カリフに選出されたのがアリー(在位656年~661年)で、ムハンマドは最初の妻ハディージャとの間に3男4女をもうけましたが、男子はすべて早世し、ムハンマドの晩年までただ一人残った娘ファーティマの夫となったのが、ムハンマドの従兄弟であったアリーでした。
アリーはハディージャに次いで2番目に入信したと云われ、ムハンマドから厚い信頼を受けていました。
アリーは、第4代カリフに選出されたのですが、当時シリア総督であった実力者のムアーウィア(?~680年)は、第3代カリフのウスマーン(ムアーウィアの伯父)の暗殺にアリーが関係しているとして対立し、内乱を起こします。
両者は戦いの後、いったんは休戦しますが、講和に反対するハワーリジュ派の刺客によってアリーはクーファで暗殺されます(661年)。
ムアーウィアは、アリーの暗殺後、自らカリフを称してウマイヤ朝(661年~750年)を創始します。
初代のアブー・バクルから4代のアリー迄は、ムスリムの選挙で選ばれたので、この時代を正統カリフ時代(632年~661年)と呼称します。
暗殺されたアリーの支持者達は、ムアーウィアが樹立したウマイヤ朝のカリフを認めず、ムハンマドの娘ファーティマと結婚したアリーとアリーの子孫だけがイスラムの最高指導者(イマーム)となる資格があるとするシーア派を形成していきます。
シーア派は、現在のイスラム教徒の約1割を占め、アリーの息子がササン朝ペルシア(イラン人が建てた王朝)の王の娘と結婚したためイラン人の間に広まり、現在のイラン・イスラム共和国の国教となりました。
これに対して、現在のイスラム教徒の約9割の多数派を占めているのがスンナ(スンニ)派で、スンナ派はウマイヤ朝のカリフを含めて代々のカリフを正統と認める立場を取っています。
正統カリフ時代に、シリア、エジプト、イランを征服し、東は中央アジアから西は北アフリカ中央部にまたがる大帝国が形成されると、多くのアラブ人は征服地に移住し、今日のエジプトは9割以上がアラブ人で占められています。

ウマイヤ朝を創設したムアーウィア(?~680年、在位661年~680年)は、クライシュ族の名門ウマイヤ家に生まれた。彼の父はムハンマドを迫害する有力者の1人でしたが、ムアーウィアはムハンマドがメッカを征服するとイスラム教に帰依し、シリア征服に軍功をあげてシリア総督となり、ダマスクスを中心に勢力を伸ばしました。
第3代カリフのウスマーン(ムアウィアの伯父)が暗殺され、アリーが第4代カリフとなると、アリーがウスマーン暗殺に関係していると主張し、アリーと対立、抗争を繰り広げ、やがてアリーが暗殺されると、アリーの子にカリフ継承権を放棄させて、カリフとなり、都をメディアからダマスクスに遷して、ウマイヤ朝を開き、以後、ウマイヤ家がカリフの地位を世襲し、ウマイヤ朝は14代続くことに成ります。
ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世(在位705年~715年)の時に、東は中央アジア、西北インド迄、西は北アフリカの西迄征服し、更にイベリア半島に進出してゲルマン人の国家である西ゴート王国を滅ぼし(711年)、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる大帝国を建設し、ウマイヤ朝の最盛期を築きます。

ポワティエの戦い (732年10月25日) シャルル・スチューベン (Charles Steuben)画 1837年
イスラム軍は、その後フランク王国に侵入しますが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルの率いるフランク軍に敗れ、ピレネー山脈の南に後退しました。
ウマイヤ朝はアラブ第一主義を採用し、アラブ人を支配者として、彼らに多くの特権を与えました。そして征服地の先住民にだけジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を課し、彼らがイスラム教に改宗しても免除されることは在りませんでした。
ジズヤは異教徒の支払う人頭税で、ムハンマドはユダヤ教徒とキリスト教徒(彼らは啓典の民と呼ばれ、他の異教徒とは区別された)に課して、そのかわりに信仰の維持を認めましたが、正統カリフ時代には征服地の異教徒に拡大され、自由身分の成年男子に課し、貨幣で徴収しました。
ハラージュは地租で、第2代カリフのウマルがイラクで最初に徴収し、アラブの征服が農耕地帯に拡大するにつれて、国庫収入の大部分を占めるように成り、最初は土地面積に応じて一定額を徴収していましたが、8世紀末から実際の収穫の半分を徴収するようになりました。
貨幣又は現物、及びその併用で徴収されています。
正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけては、アラブ人が支配者として特権を持ち、被征服民を差別して支配したので、この大帝国はアラブ帝国とも呼ばれます。
14代、90年間続いたウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に滅ぼされました。
ジョークは如何?
スターリンは天国に行った。
あんなに悪いことをしたのに?
納入業者用の入口から入ったんだ。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント
ムハンマド戦いはまだつずく
( ノ゚Д゚)おはよう、いい一日を
(????)今日は雲の多い青空です
元気よく頑張って参りましょうっする♪o(^_-)O
(^^)>今日もよろしくお願いします
;* ☆_+
__,..-‐‐:、、,へ....._
く '´:::::::ヽ
/0:::::_, ,_::',
= {o:::::::( ´・ω・) 元気エイ
':,::::つ:::::::つ
= ヽ、__;;;;::/
し"~(__)
2015-01-17 05:16 流木庵{え~ちゃん} URL 編集