2015/01/24

歴史を歩く75

14 イスラム帝国の成立④

後ウマイヤ朝
後ウマイヤ朝

4イスラム帝国の分裂

 アッバース朝の成立は、同時にイスラム世界の分裂の第一歩と成りました。

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アブド・アッラフマーン1世

 アッバース朝の創始者であるアブー・アルアッバースは、ウマイヤ家一族の大虐殺を行い、東方世界ではウマイヤ家の血統は絶えましたが、この時ウマイヤ朝第10代カリフの孫であったアブド・アッラフマーン(731年~788年、在位756年~788年)は、かろうじてこの大虐殺を逃れ、シリアからモロッコまでの劇的な逃避行の後、ウマイヤ朝の旧臣の支持のもとでスペイン上陸を敢行し(755年)、アッバース軍を倒して、コルドバに入城し、翌756年にウマイヤ朝を再興しました。
この王朝は後ウマイヤ朝(756年~1031年)と呼ばれます。

アブド・アッラフマーン3世
アブド・アッラフマーン3世

 後ウマイヤ朝の第8代のアブド・アッラフマーン3世(在位912年~961年)は、名君の誉が高く、926年に初めてカリフを称し、アッバース朝、ファーティマ朝に対抗する西カリフとして後ウマイヤ朝の最盛期を現出しました。

 首都コルドバは、人口30万人に達し、西方イスラム世界の政治、経済、文化及び世界商業の一大中心地として繁栄しました。

 後ウマイヤ朝の成立により、イスラム世界は東方のアッバース朝とイベリア半島の後ウマイヤ朝に分裂しましたが、アッバース朝が黄金期を築いたハールーン・アッラシードの死後(809年)、次第に衰退すると、帝国内で各民族の自立の動きが活発となり、アッバース朝は分裂状態に陥っていきます。

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シャルルマーニュよりの使者を迎えるハールーン・アッラシード:Julius Kockert 画

 9世紀後半には、エジプトのトゥールン朝や中央アジアでサーマン朝が自立し、10世紀初頭にはチュニジアで過激シーア派のイスマーイール派がファーティマ朝(909年~1171年)を建国しました。
ファーティマはアリーと結婚したムハンマドの娘の名です。

 ファーティマ朝は、969年にはエジプトを征服し、カイロ市を建設、ここを都と定めました。

 ファーティマ朝の創始者は、建国の当初からカリフを称し、アッバース朝や後ウマイヤ朝に対抗します。
後ウマイヤ朝の君主もファーティマ朝のカリフに対抗してカリフを称したので、10世紀のイスラム世界には3人のカリフが並立することと成り、アッバース朝は東カリフ国、ファーティマ朝は中カリフ国、後ウマイヤ朝は西カリフ国とも呼ばれました。

 ファーティマ朝より少し遅れて、イランではシーア派の軍事政権であるブワイフ朝(932年~1055年)が成立しました。
シーア派のアブー・ジュジャー・ブワイがサーマン朝(875年~999年)から自立して、イランの要地を領有し、その子の時代にバグダードに入城(946年)、アッバース朝のカリフから大将軍(アミール・ル・ウマラー)の称号を受け、イスラム法を施行する権限を与えられ、イスラム世界の実権を掌握しますが、結果としてアッバース朝のカリフは名目的な存在となり、イスラム世界の分裂は益々激しくなっていきました。
ブワイフ朝は100年余り存続しますが、11世紀の半ばにセルジューク朝(セルジューク・トルコ)によって滅ぼされます。 

ジョークは如何?

日本軍がシンガポールを攻めたとき、イギリス人は豪語した。

「なあに、大丈夫さ。イギリス人兵1人は、優に日本兵10人に相当する。」

ところが、あっけなくシンガポールは落ちた。司令官パーシバル将軍が新聞記者に次のように述べた。

「残念、日本兵は11人もやって来た。」

続く・・・
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