歴史を歩く76
14-2イスラム世界の発展①

イスラム圏の王朝交代
1東方イスラム世界
アッバース朝は、全盛期の第5代カリフ、ハールーン・アッラシードの死後(809年)、エジプトやイランで独立の動きが強まり、次第に分裂状態に陥って行きました。
イランでは、イラン系のマワーリー(非アラブ系の改宗者)でアッバース朝の将軍であったターヒルがホラサーン(イラン東部)で自立し、ターヒル朝(821年~873年)を建国しましたが、サッファール朝(867年~903年)に滅ぼされます。
サッファール朝は、イラン人ライスが創建し、3代続き、一時はイラン各地を支配しバグダードに迫りますが、後にサーマン朝に滅ぼされます。

ヤアクーブ・イブン・アル・ライス・アル・サッファール( یعقوب لیث صفاری)
サーマン朝(875年~999年)は、中央アジア最初のイラン系イスラム王朝で、ナスルがアッバース朝から独立し、その後サッファール朝を滅ぼしてブハラ(現ウズベキスタン共和国、アム川北岸の都市)を都と定め、最盛期には中央アジアからイラン東部迄を領有し、ブハラ、サマルカンド等の商業都市が繁栄しましたが、10世紀末にトルコ系のカラハン朝に滅ぼされます。
カラハン朝(10世紀中庸~12世紀中庸)は、中央アジア最初のトルコ系イスラム王朝で、10世紀にカシュガル方面から興り、ベラサグンに都を定め、次第に勢力を伸ばし、960年頃にイスラム教に改宗しました。
サーマン朝を滅ぼし(999年)、東西トルキスタン(中央アジア)を領有する大帝国となり、東西トルキスタンのイスラム化を促進しますが、1008年にガズナ朝に大敗し、パミール高原を中心に東西に分裂(1047年)、カシュガルを中心とした東カラハン朝は1132年に西遼(カラキタイ)に、サマルカンドを中心とした西カラハン朝はホラズムに滅ぼされました。

東突厥・西突厥・周辺諸国の位置関係
北アジアを原住地とする遊牧民でアルタイ語族に属するトルコ人は、古くは匈奴、柔然に服属していましたが、6世紀半ばから台頭し、柔然を滅ぼして東は蒙古高原から西は中央アジアにまたがる大突厥帝国を建国しました。
しかし、内紛によって583年に東西に分裂し、東突厥はウイグルに滅ぼされます。
ウイグルは、同じトルコ系のキルギスの侵入を受けて滅亡し(840年)、ウイグルの国家は四散するのですが、この時多くのウイグル人がモンゴル高原からタリム盆地に移住し、その結果中央アジアのトルコ化が急速に進み、以後中央アジアはペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンと呼ばれるように成りました。
ウイグル人は現在もこの辺り(中華人民共和国の新疆ウイグル自治区)に多く居住しています。

マムルーク兵
中央アジアに移住したトルコ人は、騎馬戦士として優れており、奴隷、傭兵としてイスラム世界に進出して行きます。
トルコ人とイスラムとの出会いはアッバース朝が、9世紀にマムルークと呼ばれるトルコ人の奴隷兵で親衛隊を組織したことが初めてでした。
マムルークは黒人奴隷兵に対して白人奴隷兵を指し、トルコ人、スラヴ人、ギリシア人、クルド人等の戦争捕虜や購入奴隷が中心でした。
なかでもトルコ人のマムルークはアッバース朝以後次第にイスラム各王朝の軍事力の中心となり、以後のイスラム世界で軍事、政治の面で大きな力を持つことに成ります。

セルジューク朝アスカリ
グッズ・トルコ族と呼ばれた遊牧民の一派が10世紀頃、族長のセルジュークに率いられてキルギス草原からシル川(天山山脈に発し、アラル海に注ぐ中央アジアの大河)下流に移住し、セルジュークの孫のトゥグリル・ベク(993年頃~1063年、在位1038年~63年)のもとでセルジューク朝(セルジューク・トルコ)(1038年~1194年)を建国しました。
トゥグリル・ベクは、シル川下流域で自立し、1038年にガズナ朝を撃破しその勢力をアフガニスタンに追い、ホラサーン地方(イラン東部)を獲得、更にイラン本土に進出し、レイに都を定めました。
1055年、アッバース朝のカリフの招きでバグダードに入城し、シーア派のブワイフ朝を打倒、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を得て、スンナ派政権を樹立しました。
スルタンは、アラビア語で「支配者の地位」を意味する言葉で、カリフに代わってイスラム世界の世俗的(軍事・政治)支配権を握った専制君主の称号として、20世紀初頭迄使われることに成ります。このためアッバース朝のカリフは以後宗教的な権威を保つに過ぎなくなり、政治、軍事の実権を失って行きました。
トゥグリル・ベクは中央アジアから小アジアにまたがる広大な領域を支配下に置き、東方イスラム世界を統一して、ビザンツ帝国と抗争します。
このセルジューク朝の小アジア進出が十字軍の原因となりました。

マリク・シャー
大セルジューク朝(本家セルジューク朝、1038年~1157年)の最盛期は、3代のマリク・シャー(在位1072年~92年)の時代で、彼はイラン人宰相のニザーム・アル・ムルク(1092年没)の補佐のもと、政治、文化の黄金時代を現出しました。
イクター制が整備されたのもこの王の時でした。

ニザーム・アル・ムルク
イクター制はブワイフ朝で創始され、セルジューク朝の時に西アジアで広く施行されるようになった土地制度で、イクターは国家から授与された分与地、或いはその分与地での徴税権を意味します。ブワイフ朝では功臣や兵士等に国庫から現金で俸給を支払う代わりに、各人の俸給に見合う金額を徴収できる土地の徴税権を与え、農民や商人から直接徴税させました。
セルジューク朝では分与地での徴税権を与えることは同様でしたが、イクター保有者にその収入で兵士を養い、戦時にはこれらの兵士を率いて参戦する軍事奉仕を義務化します。
そしてニザーム・アル・ムルクが兵士に忠誠を尽くさせるために世襲的領地の分与を制度化したので、イクターは以後世襲化されるように成りました。
セルジューク朝はマリク・シャーの死後、内紛によって大セルジューク朝の他に、各地の分家である小アジアのルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)をはじめシリア、イラクのセルジューク朝など4つの小王朝が分立し、分裂状態に陥いりました。
イラク・セルジューク朝(1117年~94年)がホラズム朝に滅ぼされた1194年をもってセルジューク朝の滅亡とされています。
ホラズム朝(アラビア語でフワーリズムとも呼ばれる、1077年~1231年)は、ガズナ朝のトルコ系奴隷でホラズムの知事であったアヌーシュ・テギンが、セルジューク朝によってホラズム太守に任じられ、アム川下流域で独立して建てた国です。
その子の時にホラズム・シャー(シャーはイラン語で「王」を意味する語)を称し(1097年)、セルジューク朝からイランを奪い、やがてイラン全土を領有しました。
後に西遼(カラキタイ)を撃破し、イランから中央アジアにまたがる大帝国に成長し第6代のアラー・ウッディーン・ムハンマド(在位1200年~20年)はゴール朝を滅ぼし(1215年)、アフガニスタンを奪取しますが、その直後にチンギス・ハンに討たれ(1220年)、ホラズム朝は事実上崩壊します。その子孫は更にモンゴルに対する抗戦を続けますが、1231年に完全に滅亡しました。

フラグとその筆頭正妃ドクズ・ハトゥン
イスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきましたが、13世紀に入るとモンゴル人の侵入を受け、やがてその支配下に置かれます。
チンギス・ハンの孫のフラグ・ハン(1218年~65年)に率いられたモンゴル軍は1258年にバグダードを陥れ、アッバース朝最後のカリフであるムスターシムを殺害し、約500年間続いてきたアッバース朝は此処に終焉を迎えます。
フラグ・ハン(在位1258年~65年)はイラン、イラクを征服してイル・ハン国(1258年~1353年)の開祖と成ります。
イル=ハン国は初めネストリウス派のキリスト教を保護し、イスラム教徒を圧迫しますが、英主として名高い第7代のガザン・ハン(在位1295年~1304年)は、1万人のモンゴル兵とともにイスラム教に改宗し、イスラム教を国教に定めました。
また彼は学芸・文化を保護し、イル・ハン国の最盛期を現出します。
ジョークは如何?
外国新聞の特派員がチェコ人にきいた。
「あなたはソ連人を友人と考えていますか? それとも兄弟と考えていますか?」
チェコ人は答えた。
「もちろん、兄弟ですよ。友人は自分で選ぶものですからね。しかし兄弟だと選べませんから。」
続く・・・

イスラム圏の王朝交代
1東方イスラム世界
アッバース朝は、全盛期の第5代カリフ、ハールーン・アッラシードの死後(809年)、エジプトやイランで独立の動きが強まり、次第に分裂状態に陥って行きました。
イランでは、イラン系のマワーリー(非アラブ系の改宗者)でアッバース朝の将軍であったターヒルがホラサーン(イラン東部)で自立し、ターヒル朝(821年~873年)を建国しましたが、サッファール朝(867年~903年)に滅ぼされます。
サッファール朝は、イラン人ライスが創建し、3代続き、一時はイラン各地を支配しバグダードに迫りますが、後にサーマン朝に滅ぼされます。

ヤアクーブ・イブン・アル・ライス・アル・サッファール( یعقوب لیث صفاری)
サーマン朝(875年~999年)は、中央アジア最初のイラン系イスラム王朝で、ナスルがアッバース朝から独立し、その後サッファール朝を滅ぼしてブハラ(現ウズベキスタン共和国、アム川北岸の都市)を都と定め、最盛期には中央アジアからイラン東部迄を領有し、ブハラ、サマルカンド等の商業都市が繁栄しましたが、10世紀末にトルコ系のカラハン朝に滅ぼされます。
カラハン朝(10世紀中庸~12世紀中庸)は、中央アジア最初のトルコ系イスラム王朝で、10世紀にカシュガル方面から興り、ベラサグンに都を定め、次第に勢力を伸ばし、960年頃にイスラム教に改宗しました。
サーマン朝を滅ぼし(999年)、東西トルキスタン(中央アジア)を領有する大帝国となり、東西トルキスタンのイスラム化を促進しますが、1008年にガズナ朝に大敗し、パミール高原を中心に東西に分裂(1047年)、カシュガルを中心とした東カラハン朝は1132年に西遼(カラキタイ)に、サマルカンドを中心とした西カラハン朝はホラズムに滅ぼされました。

東突厥・西突厥・周辺諸国の位置関係
北アジアを原住地とする遊牧民でアルタイ語族に属するトルコ人は、古くは匈奴、柔然に服属していましたが、6世紀半ばから台頭し、柔然を滅ぼして東は蒙古高原から西は中央アジアにまたがる大突厥帝国を建国しました。
しかし、内紛によって583年に東西に分裂し、東突厥はウイグルに滅ぼされます。
ウイグルは、同じトルコ系のキルギスの侵入を受けて滅亡し(840年)、ウイグルの国家は四散するのですが、この時多くのウイグル人がモンゴル高原からタリム盆地に移住し、その結果中央アジアのトルコ化が急速に進み、以後中央アジアはペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンと呼ばれるように成りました。
ウイグル人は現在もこの辺り(中華人民共和国の新疆ウイグル自治区)に多く居住しています。

マムルーク兵
中央アジアに移住したトルコ人は、騎馬戦士として優れており、奴隷、傭兵としてイスラム世界に進出して行きます。
トルコ人とイスラムとの出会いはアッバース朝が、9世紀にマムルークと呼ばれるトルコ人の奴隷兵で親衛隊を組織したことが初めてでした。
マムルークは黒人奴隷兵に対して白人奴隷兵を指し、トルコ人、スラヴ人、ギリシア人、クルド人等の戦争捕虜や購入奴隷が中心でした。
なかでもトルコ人のマムルークはアッバース朝以後次第にイスラム各王朝の軍事力の中心となり、以後のイスラム世界で軍事、政治の面で大きな力を持つことに成ります。

セルジューク朝アスカリ
グッズ・トルコ族と呼ばれた遊牧民の一派が10世紀頃、族長のセルジュークに率いられてキルギス草原からシル川(天山山脈に発し、アラル海に注ぐ中央アジアの大河)下流に移住し、セルジュークの孫のトゥグリル・ベク(993年頃~1063年、在位1038年~63年)のもとでセルジューク朝(セルジューク・トルコ)(1038年~1194年)を建国しました。
トゥグリル・ベクは、シル川下流域で自立し、1038年にガズナ朝を撃破しその勢力をアフガニスタンに追い、ホラサーン地方(イラン東部)を獲得、更にイラン本土に進出し、レイに都を定めました。
1055年、アッバース朝のカリフの招きでバグダードに入城し、シーア派のブワイフ朝を打倒、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を得て、スンナ派政権を樹立しました。
スルタンは、アラビア語で「支配者の地位」を意味する言葉で、カリフに代わってイスラム世界の世俗的(軍事・政治)支配権を握った専制君主の称号として、20世紀初頭迄使われることに成ります。このためアッバース朝のカリフは以後宗教的な権威を保つに過ぎなくなり、政治、軍事の実権を失って行きました。
トゥグリル・ベクは中央アジアから小アジアにまたがる広大な領域を支配下に置き、東方イスラム世界を統一して、ビザンツ帝国と抗争します。
このセルジューク朝の小アジア進出が十字軍の原因となりました。

マリク・シャー
大セルジューク朝(本家セルジューク朝、1038年~1157年)の最盛期は、3代のマリク・シャー(在位1072年~92年)の時代で、彼はイラン人宰相のニザーム・アル・ムルク(1092年没)の補佐のもと、政治、文化の黄金時代を現出しました。
イクター制が整備されたのもこの王の時でした。

ニザーム・アル・ムルク
イクター制はブワイフ朝で創始され、セルジューク朝の時に西アジアで広く施行されるようになった土地制度で、イクターは国家から授与された分与地、或いはその分与地での徴税権を意味します。ブワイフ朝では功臣や兵士等に国庫から現金で俸給を支払う代わりに、各人の俸給に見合う金額を徴収できる土地の徴税権を与え、農民や商人から直接徴税させました。
セルジューク朝では分与地での徴税権を与えることは同様でしたが、イクター保有者にその収入で兵士を養い、戦時にはこれらの兵士を率いて参戦する軍事奉仕を義務化します。
そしてニザーム・アル・ムルクが兵士に忠誠を尽くさせるために世襲的領地の分与を制度化したので、イクターは以後世襲化されるように成りました。
セルジューク朝はマリク・シャーの死後、内紛によって大セルジューク朝の他に、各地の分家である小アジアのルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)をはじめシリア、イラクのセルジューク朝など4つの小王朝が分立し、分裂状態に陥いりました。
イラク・セルジューク朝(1117年~94年)がホラズム朝に滅ぼされた1194年をもってセルジューク朝の滅亡とされています。
ホラズム朝(アラビア語でフワーリズムとも呼ばれる、1077年~1231年)は、ガズナ朝のトルコ系奴隷でホラズムの知事であったアヌーシュ・テギンが、セルジューク朝によってホラズム太守に任じられ、アム川下流域で独立して建てた国です。
その子の時にホラズム・シャー(シャーはイラン語で「王」を意味する語)を称し(1097年)、セルジューク朝からイランを奪い、やがてイラン全土を領有しました。
後に西遼(カラキタイ)を撃破し、イランから中央アジアにまたがる大帝国に成長し第6代のアラー・ウッディーン・ムハンマド(在位1200年~20年)はゴール朝を滅ぼし(1215年)、アフガニスタンを奪取しますが、その直後にチンギス・ハンに討たれ(1220年)、ホラズム朝は事実上崩壊します。その子孫は更にモンゴルに対する抗戦を続けますが、1231年に完全に滅亡しました。

フラグとその筆頭正妃ドクズ・ハトゥン
イスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきましたが、13世紀に入るとモンゴル人の侵入を受け、やがてその支配下に置かれます。
チンギス・ハンの孫のフラグ・ハン(1218年~65年)に率いられたモンゴル軍は1258年にバグダードを陥れ、アッバース朝最後のカリフであるムスターシムを殺害し、約500年間続いてきたアッバース朝は此処に終焉を迎えます。
フラグ・ハン(在位1258年~65年)はイラン、イラクを征服してイル・ハン国(1258年~1353年)の開祖と成ります。
イル=ハン国は初めネストリウス派のキリスト教を保護し、イスラム教徒を圧迫しますが、英主として名高い第7代のガザン・ハン(在位1295年~1304年)は、1万人のモンゴル兵とともにイスラム教に改宗し、イスラム教を国教に定めました。
また彼は学芸・文化を保護し、イル・ハン国の最盛期を現出します。
ジョークは如何?
外国新聞の特派員がチェコ人にきいた。
「あなたはソ連人を友人と考えていますか? それとも兄弟と考えていますか?」
チェコ人は答えた。
「もちろん、兄弟ですよ。友人は自分で選ぶものですからね。しかし兄弟だと選べませんから。」
続く・・・
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