歴史を歩く79
14-2イスラム世界の発展④

メロエ王国小ピラミッド群
4 アフリカの諸国
現在知られている最古の黒人王国は、ナイル上流のクシュ王国(紀元前920年頃~紀元後350年頃)です。
エジプト中王国末期に一時エジプトの支配から独立したクシュ人は、新王国の初めに再びエジプトの支配下に置かれました。

復元クシュ王像
クシュ人は紀元前10世紀に再びエジプトの支配を脱し、紀元前8世紀には逆にエジプトを征服し、都をテーベに遷して繁栄しますが、紀元前7世紀にアッシリアのエジプト侵入で後退し、都をテーベからナイル中流域のメロエに遷都し、メロエ王国(紀元前670年頃~紀元後350年頃)としてその後も繁栄を続けます。
メロエ王国はアッシリアから製鉄法を学び、製鉄と商業によって繁栄していましたが、4世紀にエチオピアのアクスム王国によって滅ぼれます。
メロエ王国の滅亡は鉄の製法がアフリカ各地に伝播するきっかけと成り、又彼等はエジプトの文字と異なるメロエ文字を用いていましたが、このメロエ文字は今日まだ未解読のまま残されています。
アクスム王国(紀元前120年頃~紀元後572年)は、アラビア半島の南端から移住してきたセム系アクスム人がアビシニア高原に建てた国家で、エチオピア王国とも呼ばれました。
2~3世紀頃最盛期を迎え、メロエを圧迫し続け、350年頃ついにメロエ王国を滅ぼします。

アスクム王国(エチオピア王国)人
アクスム王国には4世紀にキリスト教(コプト派)が入り、キリスト教化が進み、キリスト教が国教とされました。
西ヨーロッパでは中世から近代初頭にかけてプレスター・ジョン伝説が信じられており、アジア(後にはアフリカになる)の何処かにキリスト教の司祭王が存在するとされていました。
15世紀以後はエチオピアの皇帝がプレスター・ジョンであるとする考え方が一般化して行きましたが、エチオピアに早くからキリスト教が広まっていたことがその背景になっていと思われます。
西スーダン(スーダンはアラビア語で「黒い国」を意味し、ほぼ北緯10度から北緯20度辺り迄のアフリカ地域)のニジェール川、セネガル川流域ではアラブ人の間で「黄金の国」として知られていたガーナ王国(8世紀以前~1076年)と呼ばれる黒人王国が栄えていました。
ガーナは豊富に産する黄金を、サハラ砂漠を縦断して往来するムスリム商人がもたらす岩塩と交換する交易によって繁栄しており、交易ルートの安全を確保する為に軍事、政治機構を確立し、20万人以上の常備軍を持っていたと云われ、西スーダン一帯に勢力を及ぼしていました。
しかし、11世紀にベルベル人のムラービト朝によって滅ぼされますが、このムラービト朝によるガーナ王国の征服は西アフリカのイスラム化を促進する発端に成りました。
13世紀にマンディンゴ族は初代王のスンジャータ(1240年頃~1260年頃)のもとで、近隣の国々との戦いに勝利をおさめ、嘗てのガーナ王国の金産地を支配下に治め、金と塩の交易ルートを確保し、西スーダンの大半を支配下に置きました。
これがマリ王国(1240年~1473年)で、マリ王国では早くからイスラム教が受け入れられ、支配階級はイスラム教徒でした。

マンサ・ムーサ(カンカンムーサ)
マリ王国の最盛期の王がマンサ・ムーサ(カンカンムーサ)(在位1312年~37年)で、彼の名はメッカ巡礼で有名に成りました(1324年)。
その帰途カイロに滞在したときに使った金は13トンにも達したと云われ、このためカイロでは金の価値が下がり、インフレが起こったと迄云われています。
マンサ・ムーサの名はヨーロッパに迄伝わり、14世紀にヨーロッパで作成された地図にはマリ王国とマンサ・ムーサの姿が書き込まれていました。

14世紀には有名なイブン・バトゥータがこの国を訪れて、その繁栄ぶりについて記述しています。しかし、マリ王国は、15世紀後半ニジェール川流域で急速に勢力を伸ばしてきたソンガイ王国によって滅ぼされました。
西スーダンの黒人ソンガイ族は、15世紀後半に勇猛、好戦的な王のもとで、隊商交易の終点として繁栄していたトンブクトゥを奪い、マリ王国を滅ぼし、西アフリカの大部分を支配下に治めます。
ソンガイ王国(1473年~1591年)は北アフリカとの交易によって栄え、15~16世紀に全盛期を迎え、その経済、文化の中心として栄えたトンブクトゥには16世紀に黒人による最初の大学が創設されました。
ソンガイ王国は、16世紀末に「黄金の國」伝説を信ずるモロッコ軍の南下によって滅ぼされたのですが、モロッコ軍は期待に反した西スーダンの貧しさに落胆し、激しい略奪を行って引き上げています。
この結果、西スーダンは壊滅的な打撃を受け、交易の中心も西スーダンからチャド湖周辺のカネム王国(9世紀頃~14世紀末)やボルヌ王国(14世紀末~17世紀、カネム王国が本拠をボルヌに遷して再興した国)等に移っていく事に成ります。

グレート・ジンバブエ遺跡
アフリカ東岸、赤道以南のマリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワ等の海港都市には、10世紀以降イスラム商人が移住し、彼等のインド洋貿易で繁栄していました。
この為、これ等の地域ではスワヒリ語(スワヒリはアラビア語で「海岸地帯の人々」の意味、アラビア語の影響を受けた言語)が普及しており、更にその南方のサンベシ川流域では、15世紀にモノモタパ王国が繁栄していたことがポルトガル人によって伝えられています。
その中で述べられているジンバブエの壮大な石造遺跡が19世紀後半に発見され、その後の研究によってジンバブエには高度な文明が存在していた事、そしてインド洋貿易によって繁栄していた事が明らかに成りました。
モノモタパ王国は、15世紀中頃から15世紀末にかけて領土を拡大し栄えていましたが、16世紀には小国に成って行きます。
ジョークは如何?
レーニンが死んで、スターリンと共に彼の後任について論議していた。
「わたしには1つ、心配事があるのだ。」
レーニンが言った。
「人々は君についていくだろうか? スターリンよ。君はどう思うかね。」
「きっとついていくでしょう。それが彼らの意志ですから」
スターリンは自信たっぷりに言った。
「ふむ。わたしもそう期待している」
「しかしだ。もしも君に誰もついていかなかったとしたら。」
「心配には及びませんよ。」
スターリンは言った。
「その時は、彼らはあな文字色たについていくでしょうから。」
(この後行われる大粛正にひっかっけています。)
続く・・・

メロエ王国小ピラミッド群
4 アフリカの諸国
現在知られている最古の黒人王国は、ナイル上流のクシュ王国(紀元前920年頃~紀元後350年頃)です。
エジプト中王国末期に一時エジプトの支配から独立したクシュ人は、新王国の初めに再びエジプトの支配下に置かれました。

復元クシュ王像
クシュ人は紀元前10世紀に再びエジプトの支配を脱し、紀元前8世紀には逆にエジプトを征服し、都をテーベに遷して繁栄しますが、紀元前7世紀にアッシリアのエジプト侵入で後退し、都をテーベからナイル中流域のメロエに遷都し、メロエ王国(紀元前670年頃~紀元後350年頃)としてその後も繁栄を続けます。
メロエ王国はアッシリアから製鉄法を学び、製鉄と商業によって繁栄していましたが、4世紀にエチオピアのアクスム王国によって滅ぼれます。
メロエ王国の滅亡は鉄の製法がアフリカ各地に伝播するきっかけと成り、又彼等はエジプトの文字と異なるメロエ文字を用いていましたが、このメロエ文字は今日まだ未解読のまま残されています。
アクスム王国(紀元前120年頃~紀元後572年)は、アラビア半島の南端から移住してきたセム系アクスム人がアビシニア高原に建てた国家で、エチオピア王国とも呼ばれました。
2~3世紀頃最盛期を迎え、メロエを圧迫し続け、350年頃ついにメロエ王国を滅ぼします。

アスクム王国(エチオピア王国)人
アクスム王国には4世紀にキリスト教(コプト派)が入り、キリスト教化が進み、キリスト教が国教とされました。
西ヨーロッパでは中世から近代初頭にかけてプレスター・ジョン伝説が信じられており、アジア(後にはアフリカになる)の何処かにキリスト教の司祭王が存在するとされていました。
15世紀以後はエチオピアの皇帝がプレスター・ジョンであるとする考え方が一般化して行きましたが、エチオピアに早くからキリスト教が広まっていたことがその背景になっていと思われます。
西スーダン(スーダンはアラビア語で「黒い国」を意味し、ほぼ北緯10度から北緯20度辺り迄のアフリカ地域)のニジェール川、セネガル川流域ではアラブ人の間で「黄金の国」として知られていたガーナ王国(8世紀以前~1076年)と呼ばれる黒人王国が栄えていました。
ガーナは豊富に産する黄金を、サハラ砂漠を縦断して往来するムスリム商人がもたらす岩塩と交換する交易によって繁栄しており、交易ルートの安全を確保する為に軍事、政治機構を確立し、20万人以上の常備軍を持っていたと云われ、西スーダン一帯に勢力を及ぼしていました。
しかし、11世紀にベルベル人のムラービト朝によって滅ぼされますが、このムラービト朝によるガーナ王国の征服は西アフリカのイスラム化を促進する発端に成りました。
13世紀にマンディンゴ族は初代王のスンジャータ(1240年頃~1260年頃)のもとで、近隣の国々との戦いに勝利をおさめ、嘗てのガーナ王国の金産地を支配下に治め、金と塩の交易ルートを確保し、西スーダンの大半を支配下に置きました。
これがマリ王国(1240年~1473年)で、マリ王国では早くからイスラム教が受け入れられ、支配階級はイスラム教徒でした。

マンサ・ムーサ(カンカンムーサ)
マリ王国の最盛期の王がマンサ・ムーサ(カンカンムーサ)(在位1312年~37年)で、彼の名はメッカ巡礼で有名に成りました(1324年)。
その帰途カイロに滞在したときに使った金は13トンにも達したと云われ、このためカイロでは金の価値が下がり、インフレが起こったと迄云われています。
マンサ・ムーサの名はヨーロッパに迄伝わり、14世紀にヨーロッパで作成された地図にはマリ王国とマンサ・ムーサの姿が書き込まれていました。

14世紀には有名なイブン・バトゥータがこの国を訪れて、その繁栄ぶりについて記述しています。しかし、マリ王国は、15世紀後半ニジェール川流域で急速に勢力を伸ばしてきたソンガイ王国によって滅ぼされました。
西スーダンの黒人ソンガイ族は、15世紀後半に勇猛、好戦的な王のもとで、隊商交易の終点として繁栄していたトンブクトゥを奪い、マリ王国を滅ぼし、西アフリカの大部分を支配下に治めます。
ソンガイ王国(1473年~1591年)は北アフリカとの交易によって栄え、15~16世紀に全盛期を迎え、その経済、文化の中心として栄えたトンブクトゥには16世紀に黒人による最初の大学が創設されました。
ソンガイ王国は、16世紀末に「黄金の國」伝説を信ずるモロッコ軍の南下によって滅ぼされたのですが、モロッコ軍は期待に反した西スーダンの貧しさに落胆し、激しい略奪を行って引き上げています。
この結果、西スーダンは壊滅的な打撃を受け、交易の中心も西スーダンからチャド湖周辺のカネム王国(9世紀頃~14世紀末)やボルヌ王国(14世紀末~17世紀、カネム王国が本拠をボルヌに遷して再興した国)等に移っていく事に成ります。

グレート・ジンバブエ遺跡
アフリカ東岸、赤道以南のマリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワ等の海港都市には、10世紀以降イスラム商人が移住し、彼等のインド洋貿易で繁栄していました。
この為、これ等の地域ではスワヒリ語(スワヒリはアラビア語で「海岸地帯の人々」の意味、アラビア語の影響を受けた言語)が普及しており、更にその南方のサンベシ川流域では、15世紀にモノモタパ王国が繁栄していたことがポルトガル人によって伝えられています。
その中で述べられているジンバブエの壮大な石造遺跡が19世紀後半に発見され、その後の研究によってジンバブエには高度な文明が存在していた事、そしてインド洋貿易によって繁栄していた事が明らかに成りました。
モノモタパ王国は、15世紀中頃から15世紀末にかけて領土を拡大し栄えていましたが、16世紀には小国に成って行きます。
ジョークは如何?
レーニンが死んで、スターリンと共に彼の後任について論議していた。
「わたしには1つ、心配事があるのだ。」
レーニンが言った。
「人々は君についていくだろうか? スターリンよ。君はどう思うかね。」
「きっとついていくでしょう。それが彼らの意志ですから」
スターリンは自信たっぷりに言った。
「ふむ。わたしもそう期待している」
「しかしだ。もしも君に誰もついていかなかったとしたら。」
「心配には及びませんよ。」
スターリンは言った。
「その時は、彼らはあな文字色たについていくでしょうから。」
(この後行われる大粛正にひっかっけています。)
続く・・・
スポンサーサイト
コメント