歴史を歩く80
14-2イスラム世界の発展⑤

イスラム世界の王朝変遷
3インド・東南アジアのイスラム化
1インドのイスラム化

第7代スルタン、マフムード
イスラム教徒は、8世紀の初めウマイヤ朝の時代に、一時シンド(インダス川下流域:インドの語源とも云われる)地方を征服しましたが、その支配は長く続かず、イスラム教徒による本格的なインド征服が始まったのはガズナ朝(ガズニ、962年~1186年)の時からです。
ガズナ朝は、サーマン朝(875年~999年)に仕えていたトルコ人奴隷のアルプテギン(?~963年)がアフガニスタンのガズナに建国したトルコ系イスラム王朝で、第7代スルタン、マフムード(在位998年~1030年)は、サーマン朝から独立し、1000年頃から10数回にわたって北インドに侵入を繰り返し、北インドのイスラム化の道を開くとともに、アフガニスタン、中央アジア、イラン、北インドにまたがる大帝国を築き、都のガズナは大いに栄え、フィルドゥシー等の文人を優遇する等、ガズナ朝の全盛期を現出しました。
しかし、12世紀中頃からゴール朝の圧力が強まり、セルジューク朝とゴール朝によって滅亡します(1186年)。

シハーブッディーン・ムハンマド(شهاب الدين محمد ):ムハンマド・ゴーリー(ゴール朝のムハンマド)
ゴール朝(1148年頃~1215年)は、ガズナ朝の支配下でアフガニスタンのゴールを拠点として台頭し、ムハンマド・ゴーリー(?~1206年)は、兄王と共にゴール朝の独立に活躍し、ガズナ朝を滅ぼし(1186年)、以後30年間にわたってインドに侵入し、ラージプート族(好戦的なヒンドゥー教徒)の軍を破り、北インドのほぼ全域をイスラムの支配下に置きました。
このため北インドのイスラム化が一層進み、兄を継いで王と成りますが(1202年)、インド遠征の帰途、インダス河畔で暗殺され(1206年)、その後、ゴール朝は部下の将軍の内紛によって分裂弱体化し、ホラズム朝によって滅ぼされます(1215年)。
中央アジア、トルコ人のマムルークであったアイバク(?~1210年、在位1206年~1210年)はゴール朝のムハンマド・ゴーリーに部将として仕え、そのインド遠征に従事して功績をあげ、インド方面総司令官に任命され、北インドの実権をほぼ掌握し、ムハンマド・ゴーリーが暗殺されると、インドの支配権を握り、インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝(1206年~90年)を創始し、都をデリーに定めました。

ガズナ朝、ゴール朝の位置関係
ガズナ朝、ゴール朝共にアフガニスタンに拠点を持ち、インドに侵入して北インドを支配した王朝で、インドのイスラム王朝とは言えず、インド最初のイスラム王朝はアイバクが創始した奴隷王朝と考えられています。
アイバクの死後、彼の奴隷でアイバクの養子となったイレトゥミシュがデリーでスルタンとなり、北インドにおけるイスラム王朝の支配権を確立しました。
彼をはじめ王位に就く者に奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれます。
奴隷王朝は、北からのモンゴル人の侵入を防ぎ、内政に意を注ぎますが、末期には党争と内乱が相次ぎ、同じトルコ系のハルジー朝(1290年~1320年)に交代を余儀なくされます。

トゥグルク朝3代目国王フィーローズ・シャー・トゥグルク(1309-1388)
ハルジー朝最後の王が暗殺されると、将軍のトゥグルク(父はトルコ人、母はインド人)が暗殺者を倒してトゥグルク朝(1320年~1414年)を建国します。
トゥグルク朝については有名なイブン・バットゥータの旅行記「三大陸周遊記」に記述が在りますが、ティムールの侵入を受け(1398年)、以後衰退して行きました。

ティムール
ティムール軍が引き上げた後、命を受けてデリーの統治に当たったティムールの部将が独立して建国した国家がサイイド朝(1414年~51年)ですが、サイイド朝の支配地域はデリー周辺に限られ、4代でロディー朝に王朝そのものが交代します。
サイイド朝末期に、パンジャーブ地方(インド西北部)で勢力を得たアフガン系のロディー族のハバロールがデリーに迎えられ、サイイド朝に代わってスルタンとなり創始した王朝がインド史上最初のアフガン系王朝であるロディー朝(1451年~1526年)ですが、ロディー朝もパーニーパットの戦い(1526年)でティムールの子孫のバーブルに敗走し、最後はムガール帝国(1526年~1858年)に滅ぼされました。

デリー・スルタン朝
インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝からムガール帝国の建国迄の約300年間に北インドにはデリーを都とする5つの王朝(奴隷王朝→ハルジー朝→トゥグルク朝→サイイド朝(以上トルコ系)→ロディー朝(アフガン系))が続いた事から、この時代をデリー・スルタン朝(1206年~1526年)と総称します。
インドに侵入したイスラム王朝は、当初民衆にイスラム教を強制し、ヒンドゥー教の寺院や神像を破壊したのですが、デリー・スルタン朝の時代になるとヒンドゥー教徒に対しても比較的寛大な態度をとり、インド人の伝統的な社会の上に立って君臨する政策を採るように変貌します。
2月5日ジロくん9歳の誕生日

氏神様の参道にて

イスラム世界の王朝変遷
3インド・東南アジアのイスラム化
1インドのイスラム化

第7代スルタン、マフムード
イスラム教徒は、8世紀の初めウマイヤ朝の時代に、一時シンド(インダス川下流域:インドの語源とも云われる)地方を征服しましたが、その支配は長く続かず、イスラム教徒による本格的なインド征服が始まったのはガズナ朝(ガズニ、962年~1186年)の時からです。
ガズナ朝は、サーマン朝(875年~999年)に仕えていたトルコ人奴隷のアルプテギン(?~963年)がアフガニスタンのガズナに建国したトルコ系イスラム王朝で、第7代スルタン、マフムード(在位998年~1030年)は、サーマン朝から独立し、1000年頃から10数回にわたって北インドに侵入を繰り返し、北インドのイスラム化の道を開くとともに、アフガニスタン、中央アジア、イラン、北インドにまたがる大帝国を築き、都のガズナは大いに栄え、フィルドゥシー等の文人を優遇する等、ガズナ朝の全盛期を現出しました。
しかし、12世紀中頃からゴール朝の圧力が強まり、セルジューク朝とゴール朝によって滅亡します(1186年)。

シハーブッディーン・ムハンマド(شهاب الدين محمد ):ムハンマド・ゴーリー(ゴール朝のムハンマド)
ゴール朝(1148年頃~1215年)は、ガズナ朝の支配下でアフガニスタンのゴールを拠点として台頭し、ムハンマド・ゴーリー(?~1206年)は、兄王と共にゴール朝の独立に活躍し、ガズナ朝を滅ぼし(1186年)、以後30年間にわたってインドに侵入し、ラージプート族(好戦的なヒンドゥー教徒)の軍を破り、北インドのほぼ全域をイスラムの支配下に置きました。
このため北インドのイスラム化が一層進み、兄を継いで王と成りますが(1202年)、インド遠征の帰途、インダス河畔で暗殺され(1206年)、その後、ゴール朝は部下の将軍の内紛によって分裂弱体化し、ホラズム朝によって滅ぼされます(1215年)。
中央アジア、トルコ人のマムルークであったアイバク(?~1210年、在位1206年~1210年)はゴール朝のムハンマド・ゴーリーに部将として仕え、そのインド遠征に従事して功績をあげ、インド方面総司令官に任命され、北インドの実権をほぼ掌握し、ムハンマド・ゴーリーが暗殺されると、インドの支配権を握り、インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝(1206年~90年)を創始し、都をデリーに定めました。

ガズナ朝、ゴール朝の位置関係
ガズナ朝、ゴール朝共にアフガニスタンに拠点を持ち、インドに侵入して北インドを支配した王朝で、インドのイスラム王朝とは言えず、インド最初のイスラム王朝はアイバクが創始した奴隷王朝と考えられています。
アイバクの死後、彼の奴隷でアイバクの養子となったイレトゥミシュがデリーでスルタンとなり、北インドにおけるイスラム王朝の支配権を確立しました。
彼をはじめ王位に就く者に奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれます。
奴隷王朝は、北からのモンゴル人の侵入を防ぎ、内政に意を注ぎますが、末期には党争と内乱が相次ぎ、同じトルコ系のハルジー朝(1290年~1320年)に交代を余儀なくされます。

トゥグルク朝3代目国王フィーローズ・シャー・トゥグルク(1309-1388)
ハルジー朝最後の王が暗殺されると、将軍のトゥグルク(父はトルコ人、母はインド人)が暗殺者を倒してトゥグルク朝(1320年~1414年)を建国します。
トゥグルク朝については有名なイブン・バットゥータの旅行記「三大陸周遊記」に記述が在りますが、ティムールの侵入を受け(1398年)、以後衰退して行きました。

ティムール
ティムール軍が引き上げた後、命を受けてデリーの統治に当たったティムールの部将が独立して建国した国家がサイイド朝(1414年~51年)ですが、サイイド朝の支配地域はデリー周辺に限られ、4代でロディー朝に王朝そのものが交代します。
サイイド朝末期に、パンジャーブ地方(インド西北部)で勢力を得たアフガン系のロディー族のハバロールがデリーに迎えられ、サイイド朝に代わってスルタンとなり創始した王朝がインド史上最初のアフガン系王朝であるロディー朝(1451年~1526年)ですが、ロディー朝もパーニーパットの戦い(1526年)でティムールの子孫のバーブルに敗走し、最後はムガール帝国(1526年~1858年)に滅ぼされました。

デリー・スルタン朝
インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝からムガール帝国の建国迄の約300年間に北インドにはデリーを都とする5つの王朝(奴隷王朝→ハルジー朝→トゥグルク朝→サイイド朝(以上トルコ系)→ロディー朝(アフガン系))が続いた事から、この時代をデリー・スルタン朝(1206年~1526年)と総称します。
インドに侵入したイスラム王朝は、当初民衆にイスラム教を強制し、ヒンドゥー教の寺院や神像を破壊したのですが、デリー・スルタン朝の時代になるとヒンドゥー教徒に対しても比較的寛大な態度をとり、インド人の伝統的な社会の上に立って君臨する政策を採るように変貌します。
2月5日ジロくん9歳の誕生日

氏神様の参道にて
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