2015/02/21

歴史を歩く85

15西ヨーロッパ世界の成立①

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1ゲルマン民族の大移動①

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フン族の侵入

 アジア系の遊牧民族であるフン族は、1世紀中頃迄ヴォルガ川流域に定着していましたが、4世紀後半カスピ海の北を西進し、ドン川を越えて黒海北岸に居住していた東ゴート族を征服 (375年)、更に西ゴート族に迫った結果、西ゴート族は375年に南下を開始、翌年ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入しました。
これが有名なゲルマン民族大移動の発端と成りました。

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ゲルマン民族の家族

 インド・ヨーロッパ語族に属するゲルマン人は、紀元前1000年頃からバルト海沿岸に居住していましたが、ケルト人を圧迫しながら、紀元前後頃迄にはライン川からドナウ川の北岸一帯に迄進出し、ローマ帝国と境界を接するように成りました。

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ガリアとブリタニアのケルト人

 ケルト人もインド・ヨーロッパ語族に属し、紀元前10世紀~8世紀頃から紀元前6世紀~4世紀頃迄には原住地のライン川、エルベ川、ドナウ川流域からアルプス山脈以北のヨーロッパの広い地域に広がっていました。
しかし、ガリア(現在のフランス)は紀元前1世紀に、ブリタニア(現在のイギリス)は紀元後1世紀にローマ帝国の支配下に置かれます。
ケルト人は現在ではアイルランド、ウエールズ(イギリスの南西部)、スコットランドやブルターニュ(北フランス)等に居住しています。

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タキトゥス

 民族大移動が始まる以前のゲルマン人社会、いわゆる原始ゲルマン社会を知る上で重要な史料としては、カエサルの「ガリア戦記」とタキトゥスの「ゲルマニア」が在り、特に「ゲルマニア」は、ローマの政治家、歴史家であったタキトゥスが100年頃のゲルマン民族について記録した最も重要な史料です。

 「ゲルマニア」は、第1部「ゲルマニアの土地・習俗」と第2部「ゲルマニアの諸族」の2部46章から成っており、ゲルマン民族は数十の部族に分かれ、狩猟、牧畜、農業によって生活していました。
第11章「会議(民会)」には「小事には長老達が、大事には邦民全体がこれに掌わる。しかしその決定権が人民にあるごとき問題もあらかじめ長老達の手許で精査せられるという風にしてである」(岩波文庫)とあり、重要な問題は民会で決定されていました。

 ゲルマン人はローマと生活圏を接するようになると、一部のゲルマン人は傭兵、下級官吏、コロヌス(小作人)としてローマ帝国内に移り住むように成りました。
特に五賢帝時代頃からローマ帝国で兵員が不足するようになると、ゲルマン人を屯田兵としてだけでなく正規軍の中にも採用し、民族移動の時期になると、兵士だけでなく、ローマの将軍や宰相にまでゲルマン人が登用される結果と成りました。
ローマ帝国末期には、ローマはまさに内から「ゲルマン化」していたのです。

ゲルマン民族移動
ゲルマン民族移動

 ゲルマン民族は狩猟、牧畜を主としていましたが、次第に農業が重要な位置を占める様になります。しかし、当時の農業は施肥や輪作を知らなかった為、彼らは農地の地力が衰えるとその土地を捨て、新しい農地を求めて移動します。
このためゲルマン人社会での人口の増加と共に土地不足が深刻となり、これが民族移動の内部要因となったのでした。

 フン族は東ゴート族を征服し、更に西ゴート族に迫ったので、西ゴート族が375年に南下を開始し、ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入したことがゲルマン民族の大移動の発端になったことは先に記述しました。

 ゲルマン民族の大移動は、部族全体が王に率いられて家族と全財産を牛車に乗せ、これも重要な財産である家畜の群を従えての文字通りの大移動であり、固有の部族制を維持しながらの移動でした。

 しかし、ゲルマン人の数はローマ人に比べると圧倒的に少数で、ローマ系住民の約3パーセントほどであったと云われており、移動に際してはローマに対して移住の許可を求めるのですが、それが認められない場合は流浪し、更には生きるために戦闘や略奪、暴行に訴えざるを得なかったのです。

 以下、主な部族の動きを記してみると、

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アラリック1世の宴

 西ゴート族は、376年にドナウ川の南に移住しましたが、ローマ帝国役人の収奪に対して反乱を起こしました。
トラキア(現在のブルガリア)を略奪した挙句、討伐に遠征したローマ皇帝ヴァレンスを378年アドリアノープルの戦いで敗死させますが、その後コンスタンティノープルに向かわず、アラリック(370年頃~410年、在位395年~410年)に率いられてトラキア、マケドニア、ギリシア、イタリアを蹂躙し、409年には三度イタリアに侵入、翌410年にはローマを占領して歴史に残る掠奪を行い、更にイタリア半島を南下してアフリカを目指したものの、艦隊が難破したために、アフリカに渡ることをあきらめ、イタリア半島を再び北上する途中に没しています(410年)。

 アラリックが目指したのは地中海沿岸ですが、多くのゲルマン人にとって憧れの土地は地中海に近い場所、特にローマの穀倉地帯であったアフリカのチュニジア(かってカルタゴが栄えた地)でした。

 アフリカ攻略に失敗した西ゴート族は更に西進し、ワリア王(在位415年~419年)の代にイスパニアを攻略、最初の西ローマ皇帝であるホノリウス帝との協約によって、イベリア半島の大半と南ガリアを含む西ゴート王国(415年~711年)を建国して定住しました。
西ゴート王国は300年間にわたってイベリア半島を支配しますが、8世紀にイスラム(ウマイヤ朝)によって滅ぼされます。

 この間、ゲルマン民族の大移動の原因をつくったフン族は東ゴート族を征服した後、ドナウ川北岸を西進してパンノニア(現在のハンガリー)付近に定着しました。
このフン族が匈奴であるか否か長く論争されていますが、現在では北匈奴がフン族であるとの同族説が有力になっています。

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 433年頃、叔父の跡を継いでフン族の王となった人物が、ヨーロッパ人から「神の禍」として非常に怖れられたアッティラ(406年頃~453年、在位433年頃~453年)で、彼は東ローマ帝国に侵入し (441年頃)貢納金を奪い、その後カスピ海からライン川にまたがる大帝国を建設します。

 アッティラの相次ぐ貢納金の要求に耐えられなくなった東・西ローマ帝国がこれを拒否すると、アッティラはこれを口実に、451年に大軍を率いて西に進撃し、ガリアに侵入、メッツを攻略してオルレアンに迫まります。
しかし、パリ東北のカタラウヌムの戦いでアエティウス(西ローマ帝国の将軍)の率いる西ローマ(フランク人が主体)と西ゴート連合軍に敗走します。

 勢力をもり返したアッティラは、翌年イタリアに侵入し、ローマに迫りましたが、ローマ教皇レオ1世がアッティラと会見してローマ破壊をやめるように必死に説得し、是れを受け入れてハンガリーに引き返します。
アッティラはその翌年、結婚式の翌日に急死し、彼の死とともにフンの大帝国は急速に崩壊し、更に混乱の中で、476年に西ローマ帝国はオドアケルによって滅亡します。

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オドアケルに西ローマ皇帝に冠を差し出すロムルス・アウグストゥス

ジョークは如何?

人類初の有人宇宙旅行から帰還したガガーリンが、休暇をもらって
故郷の村に凱旋した。村の人々は大歓迎でガガーリンを迎えた。
大勢の懐かしい顔に囲まれたガガーリンの前に、村一番の古老が
進み出てきた。

「おお、あの小さかったガガーリン坊やがこんなに立派になって。
空の上のはるか宇宙にまで行ったんだそうじゃな。それほどの遠くに
まで行った坊やならきっと分かるじゃろうか。いったいどこに行けば
マッチが買えるかのう?」


続く・・・
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