15西ヨーロッパ世界の成立③
2フランクの発展 フランク族は、3世紀の頃10数個の支族に分かれ、ライン川右岸(ライン川東岸)の中、下流域に定住しました。
4世紀にはライン川を越えて北ガリアに広がり、他のゲルマン諸族が本来の居住地を離れ、遠距離を移動したのに対して、フランク族の移動距離は短く、しかも本来の居住地を維持しながらその範囲を拡大して行きますが、この拡大傾向が以後のフランク族発展の1つの特徴と成ります。
クローヴィス1世 この頃、フランク族の中ではサリ族とリブリア族の2つの支族の勢力が強まっていました。
フランドル地方(現在のベルギー)を支配していたサリ族の小王国の王家に生まれ、王位に就いた後、フランクの他支族を次々と支配下に治め、フランク族を一つに統一した人物がメロヴィング家のクローヴィス(465年~511年、在位481年~511年)です。
クローヴィスは粗野で残忍、猜疑心が強く、陰謀と奸計に明け暮れたと云われていますが、彼はアッティラを撃退したローマ将軍の子、シアグリウスをソワソンの戦いで破り(486年)、以後アラマン族、ブルグンド族、西ゴート族を次々に撃破し、ライン川下流からピレネー山脈にまたがる大王国を建設しました。
クローヴィスの洗礼 フランク族がこのような大発展をとげた最大の理由は、他のゲルマン諸族がニケーアの公会議で異端とされたアリウス派を信仰していたのに対し、フランクはゲルマン諸族の中でいち早く正統のアタナシウス派に改宗した(496年)ことでした。
クローヴィスの改宗については、彼がアラマン族との戦いで不利な状況に陥った時、カトリックの信者であった妻の言葉を思い出し神に祈って勝利を得ることが出来たことから、家臣3000人とともに洗礼を受けたと云われています。
この改宗によって、ローマ系住民と親密な関係を保つことが出来、カトリック教会の支持を得ることも可能となりました。
クロタール1世 フランク族の間では分割相続の習慣が在り、クローヴィスの死後、フランク王国は4人の子によって分割されました。
その後、フランク王国を再統一したのは、4人の中で最後まで生き残ったクロタール1世(在位511年~561年)でした。
クロタール1世の死後、再びフランク王国は4人の子に分割され、クロタール1世の孫にあたるクロタール2世(在位584年~628年)によってフランク王国は再度統一されました(613年)。
メロヴィング家には、残忍と好色の血が流れていたと云われています。
クロタール1世も、2世も好色の血を受け継ぎ、以後の王も怠惰で贅沢な後宮生活に溺れ、その結果、多くの王は10代の前半で父親となり、若死にしたいます。
彼らは「無為の王」と呼ばれています。
このため、フランク王国ではこの頃から「宮宰」(マヨル・ドムス、家政長官の意味)の力が強くなり、行政、財政の実権を握るように成りました。

カロリング家の祖である大ピピン(?~639年)は、クロタール2世の再統一を支えた有力な豪族の一人で、クロタール2世治下のアウストラシア(フランク王国の東北部を支配したフランクの一分国)の宮宰であり、アウストラシアでは大ピピン以後カロリング家が宮宰を世襲するように成りました。
彼の孫である中ピピン(ピピン2世、?~714年)の時にはカロリング家がフランク王国の実権を掌握しました。
トゥール・ポワティエの戦い 中ピピンの子が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム教徒を撃退したことで知られるカール・マルテル(689年~741年)で、彼は父の後を継いでアウストラシアの宮宰となり(在任714年~741年)、720年には全フランク王国の宮宰に就任しました。
その頃、アフリカからジブラルタルを渡りイベリア半島に侵入したイスラム(ウマイヤ朝)軍は西ゴート王国を滅ぼし(711年)、更に北上してガリアに侵入(720年)、732年10月、ポワティエとトゥール間で7日にわたってイスラム教徒とキリスト教徒との間で一大決戦が行われました。
この戦いが有名なトゥール・ポワティエ間の戦い(732年)で、カール・マルテルは重装騎兵を中心とするフランク軍を率いてイスラム軍を撃退し、ヨーロッパとキリスト教世界をイスラムから守ったのでした。
この時、カール・マルテルが教会領を没収して家臣に与えたことが、封建的主従関係の成立を促進することと成りました。
カール・マルテル カール・マルテルは、イスラム軍を撃退した後、ブルゴーニュ地方(フランス東部)からラングドック地方(フランス南部)を征服しました。
この行動によってフランク王国の領土はフランスの全土に拡大します。
彼は、737年~742年までは、正統の国王が不在と云う理由で国王を置かないままフランク王国を統治し、今やフランク王国の実権は事実上カロリング家に握られることと成りました。
726年にビザンツ(東ローマ)皇帝レオン(レオ)3世が聖像禁止令を発布して以後、ビザンツ皇帝と対立していたローマ教皇は、ビザンツ皇帝にかわる保護者としての有力な政治勢力を求めていました。
トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク軍の強さを知ったローマ教皇は、フランクとの提携を図ります。
ローマ教皇はカール・マルテルに使節を送り、彼がロンバルド族から教皇を守護するなら、教皇は東ローマ帝国と断絶し、フランクをローマ教皇の保護者に認めることを申し出たますが(739年)、カール・マルテルはこれを断わります。
それから2年後に彼は亡くなっています。
「ピピンの寄進」 カール・マルテルの死後、兄と共に父の後を継いで宮宰となった人物が、小ピピン(ピピン3世、714年~768年、在位751年~768年)です。
彼は兄が修道士になって隠退したあと、全フランク王国の実権を掌握し、751年にメロヴィング朝の最後の皇帝ヒルデリヒ3世を廃し、教皇の支持を得て王位に就き、カロリング朝(751年~987年)の開祖と成りました。
教皇ザカリアス この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇ザカリアスは、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンのクーデターを承認します。
ザカリアスの次の教皇の時、教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに頼み込んでいます。
これを受けて、小ピピンは754年~755年にイタリアに出兵し、教皇のためにロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進しました。
この出来事は「ピピンの寄進」と呼ばれ、この土地が教皇領の起源と成り、又この出来事によって教皇とフランクの結びつきが強まったのです。
ジョークは如何?
クリミアのヤルタで三巨頭会談が開かれた。
戦後処理について会議が終わり、車で郊外へドライブに出かけた。
その途中、道の真ん中に大きな牛が寝そべっていて動こうともしない。
そこで、雄弁家のチャーチルが牛のそばに行って、なだめすかしたりして説得を試みようとしたが、牛は頑として動かない。
次にルーズヴェルトが出ていって、「どいてくれたら褒美をやる」といって、ドル紙幣をちらつかせたが、見向きもしない。怒ったルーズヴェルトは「原爆を落としてやる!」といきり立つ始末。
そこで最後にスターリンが車を降りて、牛の耳元に、一言、二言ささやきかけると、牛は驚いて立ち上がり、逃げていった。
ルーズヴェルトとチャーチルが、不思議に思って、いったい何と言ったのかと訪ねると、スターリンはすまして、こう答えた。「そこをどかないと、コルホーズに入れちゃうぞって、言ったのさ。」
続く・・・
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