歴史を歩く88
15西ヨーロッパ世界の成立④

ローマ・カトリック教会5本山
3ローマ・カトリック教会の成立
フランク王国の発展と共に勢力を伸ばしたのがカトリック教会です。
教会は、元来はキリスト教徒の団体を指す言葉でしたが、後には建物をも意味する様に成りました。教会は3世紀頃迄に、ローマ帝国内の各地に成立し、そして増大して行きました。
その中から、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアの五本山、総大司教座が置かれた5つの教会が重要と成りました。

『聖ペテロへの天国の鍵の授与』
この内、ローマ教会は、第1の使徒であるペテロの殉教の地に建てられた教会であり、ペテロがイエスから信者の救霊を託されたとして早くから首位権(五本山中の首位教会たる権利)を主張していました。
ローマ帝国が東西に分裂する(395年)と、ローマ教会は唯一の西方教会となり、7世紀以後アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアの各教会がイスラム教徒の支配下に入いった結果、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争います。
ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476年)後、西ヨーロッパに於いて精神的権威を持つことになりますが、教皇(ローマ教皇、ローマ・カトリック教会最高首長、初代ペテロを継ぐ者とされる、ラテン語ではPapa、英語ではPope)の地位に就くには東ローマ皇帝の承認が必要であり、東ローマ皇帝が存在する限り、キリスト教保護者は東ローマ皇帝でした。
しかも、西ローマ帝国滅亡後は、アリウス派を信仰するゲルマン諸族に周囲を包囲され、ローマ教会が頼れる存在は東ローマだけでした。
この様な状況の中で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾としてローマ教会に対して優位に立っていたのです。
修道院は、修道士、修道女が共同生活しながら修行する場です。
4世紀頃のエジプトに登場し、シリアに伝播、更にヨーロッパに伝えられました。
この修道院を改善し、西ヨーロッパ独自の修道院制度を創始した人物がベネディクトゥス(480年頃~543年頃)です。

聖ベネディクトゥス
ベネディクトゥスは、イタリア貴族の家に生まれ、ローマで哲学、法学を学びましたが、退廃したローマの生活に失望し、17才頃サビニ山中の洞窟で修行します。
その後、祈りの他に労働や学問を日課とし、強い信仰心と高い教養をもつ聖職者の養成を目指して、ローマ南方のモンテ・カッシノに修道院を建てました(529年)。
ベネディクト派修道院は、貞潔、清貧、服従を旨とし、「祈り、働け」をモットーとする聖ベネディクトゥス会則(戒律)を作り、これを厳格に守らせ、修道士達は午前2時に起床し、午後8時に就寝するまでに、毎日4~5時間の祈りと6~7時間の労働を行い、2時間の読書、写本に励みました(シトー派修道会、6月の例)。
修道院生活は自給自足の為、生活に必要な物資は全て修道士の労働によって作り出されます。
そのため修道院は、民衆教化という宗教的な面や開墾等の経済的な面だけでなく、学問研究等の文化的な面でも大きな功績を残したのでした。
聖ベネディクトゥス会則は、その後急速に西ヨーロッパ各地に広まり、ベネディクト派修道院は多くの優れた聖職者を生み出しました。
彼等はゲルマン諸族の王をアタナシウス派に改宗させ、辺境や異教の地での布教に活躍します。
「大教皇」と呼ばれたグレゴリウス1世もベネディクト修道院で修行した1人でした。

聖グレゴリウス1世
グレゴリウス1世(540年頃~604年、在位590年~604年)は、ローマ貴族の家に生まれ、ローマの総督にも就任しますが、後にベネディクト修道院に入り、修道院長から教皇に選出されました。
彼は、ローマ教会をロンバルド王国の圧迫から守り、コンスタンティノープル教会に対してはローマ教会の首位権を主張して譲らず、教皇権の確立に務め、又ゲルマン人の改宗に努力し、特にアングロ・サクソン族の改宗に力を尽くしています。
これより少し前、ユスティニアヌス帝(在位527年~565年)統治下のビザンツ(東ローマ)帝国は、東ゴート王国を滅ぼし(555年)、一時イタリアを回復しますが、その後イタリアに南下してきたロンバルド族によって再度イタリアを失います(568年)。
以後、ローマ教会もゲルマン諸族の中で最も野蛮で在ると伝えられ、アリウス派を信仰するロンバルド族の圧迫を受けることに成りました。
この様な状況の中で、グレゴリウス1世は東ローマ勢力がイタリアから後退したのを見て、従来の東ローマを後ろ盾する方針を改め、ローマ教会は以後ゲルマン国家との繋がりを強めるべきだと考える様に変化して行きます。
その上、7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリア、エジプトを奪い、コンスタンティノープルに迫り、更に北アフリカからイベリア半島を征服し、地中海は「イスラムの湖」と化したのでした。
ローマ教会はもはや東ローマ帝国の保護、援助を期待することは叶わなく成っていたのです。

コンスタンティノープル包囲
イスラム教徒によるコンスタンティノープル包囲(717年~718年)に耐え、これを撃退したビザンツ(東ローマ)皇帝のレオン3世(レオ3世、在位717年~741年)は、726年に「聖像禁止令」を発布しました。
当時、キリスト教徒の間では、イエス、マリア、殉教者の聖像(偶像)や聖遺物を崇拝する風潮が盛んとなっており、偶像を否定するユダヤ教を母胎とするキリスト教は元来聖像(偶像)崇拝を厳禁する宗教でした。
更に偶像崇拝を禁止するイスラム教の影響を受けて、レオン3世は一切の聖像の制作、所持、礼拝を禁止し、破壊を命じます。
この勅令が「聖像禁止令」です。

レオン3世
しかし、この「聖像禁止令」は、聖像をゲルマン布教の手段に利用していたローマ教会の反発を招き、ローマ教会との対立を引き起こし、強いては東西教会分裂の契機と成りました。
この対立にあたり、東ローマ皇帝は強硬な態度を取り、今迄対立していたロンバルド族と結び、ロンバルド王にローマ教会に対する圧迫をますます強めさせます。
ローマ教会が、「聖像禁止令」をめぐって東ローマと対立し、ロンバルドの圧迫に耐えている時に発生した事件が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでした。
イスラム軍を撃退したフランクの軍事力に着目したローマ教皇は、従来の政策を転換して、東ローマと絶縁、フランクと結ぶことを決意し(739年)、カール・マルテルに接近を図りますが、この策略は失敗に終わったことは前述の通りです。
カール・マルテルの後を継いだ小ピピン(在位751年~768年)は、751年にメロヴィング朝の皇帝を廃し、教皇の支持を得て王位につき、カロリング朝(751年~987年)の開祖と成りました。
この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇は、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンの王位継承を認め、次の教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに望みを託します。
これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出兵し、教皇の為にロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進します。
この「ピピンの寄進」によって教皇とフランクの結束は大変強く成りました。
ジョークは如何?
第二次世界大戦、ピンチのときは
新兵器で逆転を狙う ドイツ軍
精神力と自爆攻撃 日本軍
パニックになってしまう フランス軍
督戦隊と囚人部隊の ソビエト軍
すばやく降伏 イタリア軍
物量つぎ込む アメリカ軍
アメリカ軍がやってくるのを待つ イギリス軍
占領された祖国のことを考え頑張る ポーランド軍
続く・・・

ローマ・カトリック教会5本山
3ローマ・カトリック教会の成立
フランク王国の発展と共に勢力を伸ばしたのがカトリック教会です。
教会は、元来はキリスト教徒の団体を指す言葉でしたが、後には建物をも意味する様に成りました。教会は3世紀頃迄に、ローマ帝国内の各地に成立し、そして増大して行きました。
その中から、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアの五本山、総大司教座が置かれた5つの教会が重要と成りました。

『聖ペテロへの天国の鍵の授与』
この内、ローマ教会は、第1の使徒であるペテロの殉教の地に建てられた教会であり、ペテロがイエスから信者の救霊を託されたとして早くから首位権(五本山中の首位教会たる権利)を主張していました。
ローマ帝国が東西に分裂する(395年)と、ローマ教会は唯一の西方教会となり、7世紀以後アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアの各教会がイスラム教徒の支配下に入いった結果、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争います。
ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476年)後、西ヨーロッパに於いて精神的権威を持つことになりますが、教皇(ローマ教皇、ローマ・カトリック教会最高首長、初代ペテロを継ぐ者とされる、ラテン語ではPapa、英語ではPope)の地位に就くには東ローマ皇帝の承認が必要であり、東ローマ皇帝が存在する限り、キリスト教保護者は東ローマ皇帝でした。
しかも、西ローマ帝国滅亡後は、アリウス派を信仰するゲルマン諸族に周囲を包囲され、ローマ教会が頼れる存在は東ローマだけでした。
この様な状況の中で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾としてローマ教会に対して優位に立っていたのです。
修道院は、修道士、修道女が共同生活しながら修行する場です。
4世紀頃のエジプトに登場し、シリアに伝播、更にヨーロッパに伝えられました。
この修道院を改善し、西ヨーロッパ独自の修道院制度を創始した人物がベネディクトゥス(480年頃~543年頃)です。

聖ベネディクトゥス
ベネディクトゥスは、イタリア貴族の家に生まれ、ローマで哲学、法学を学びましたが、退廃したローマの生活に失望し、17才頃サビニ山中の洞窟で修行します。
その後、祈りの他に労働や学問を日課とし、強い信仰心と高い教養をもつ聖職者の養成を目指して、ローマ南方のモンテ・カッシノに修道院を建てました(529年)。
ベネディクト派修道院は、貞潔、清貧、服従を旨とし、「祈り、働け」をモットーとする聖ベネディクトゥス会則(戒律)を作り、これを厳格に守らせ、修道士達は午前2時に起床し、午後8時に就寝するまでに、毎日4~5時間の祈りと6~7時間の労働を行い、2時間の読書、写本に励みました(シトー派修道会、6月の例)。
修道院生活は自給自足の為、生活に必要な物資は全て修道士の労働によって作り出されます。
そのため修道院は、民衆教化という宗教的な面や開墾等の経済的な面だけでなく、学問研究等の文化的な面でも大きな功績を残したのでした。
聖ベネディクトゥス会則は、その後急速に西ヨーロッパ各地に広まり、ベネディクト派修道院は多くの優れた聖職者を生み出しました。
彼等はゲルマン諸族の王をアタナシウス派に改宗させ、辺境や異教の地での布教に活躍します。
「大教皇」と呼ばれたグレゴリウス1世もベネディクト修道院で修行した1人でした。

聖グレゴリウス1世
グレゴリウス1世(540年頃~604年、在位590年~604年)は、ローマ貴族の家に生まれ、ローマの総督にも就任しますが、後にベネディクト修道院に入り、修道院長から教皇に選出されました。
彼は、ローマ教会をロンバルド王国の圧迫から守り、コンスタンティノープル教会に対してはローマ教会の首位権を主張して譲らず、教皇権の確立に務め、又ゲルマン人の改宗に努力し、特にアングロ・サクソン族の改宗に力を尽くしています。
これより少し前、ユスティニアヌス帝(在位527年~565年)統治下のビザンツ(東ローマ)帝国は、東ゴート王国を滅ぼし(555年)、一時イタリアを回復しますが、その後イタリアに南下してきたロンバルド族によって再度イタリアを失います(568年)。
以後、ローマ教会もゲルマン諸族の中で最も野蛮で在ると伝えられ、アリウス派を信仰するロンバルド族の圧迫を受けることに成りました。
この様な状況の中で、グレゴリウス1世は東ローマ勢力がイタリアから後退したのを見て、従来の東ローマを後ろ盾する方針を改め、ローマ教会は以後ゲルマン国家との繋がりを強めるべきだと考える様に変化して行きます。
その上、7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリア、エジプトを奪い、コンスタンティノープルに迫り、更に北アフリカからイベリア半島を征服し、地中海は「イスラムの湖」と化したのでした。
ローマ教会はもはや東ローマ帝国の保護、援助を期待することは叶わなく成っていたのです。

コンスタンティノープル包囲
イスラム教徒によるコンスタンティノープル包囲(717年~718年)に耐え、これを撃退したビザンツ(東ローマ)皇帝のレオン3世(レオ3世、在位717年~741年)は、726年に「聖像禁止令」を発布しました。
当時、キリスト教徒の間では、イエス、マリア、殉教者の聖像(偶像)や聖遺物を崇拝する風潮が盛んとなっており、偶像を否定するユダヤ教を母胎とするキリスト教は元来聖像(偶像)崇拝を厳禁する宗教でした。
更に偶像崇拝を禁止するイスラム教の影響を受けて、レオン3世は一切の聖像の制作、所持、礼拝を禁止し、破壊を命じます。
この勅令が「聖像禁止令」です。

レオン3世
しかし、この「聖像禁止令」は、聖像をゲルマン布教の手段に利用していたローマ教会の反発を招き、ローマ教会との対立を引き起こし、強いては東西教会分裂の契機と成りました。
この対立にあたり、東ローマ皇帝は強硬な態度を取り、今迄対立していたロンバルド族と結び、ロンバルド王にローマ教会に対する圧迫をますます強めさせます。
ローマ教会が、「聖像禁止令」をめぐって東ローマと対立し、ロンバルドの圧迫に耐えている時に発生した事件が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでした。
イスラム軍を撃退したフランクの軍事力に着目したローマ教皇は、従来の政策を転換して、東ローマと絶縁、フランクと結ぶことを決意し(739年)、カール・マルテルに接近を図りますが、この策略は失敗に終わったことは前述の通りです。
カール・マルテルの後を継いだ小ピピン(在位751年~768年)は、751年にメロヴィング朝の皇帝を廃し、教皇の支持を得て王位につき、カロリング朝(751年~987年)の開祖と成りました。
この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇は、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンの王位継承を認め、次の教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに望みを託します。
これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出兵し、教皇の為にロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進します。
この「ピピンの寄進」によって教皇とフランクの結束は大変強く成りました。
ジョークは如何?
第二次世界大戦、ピンチのときは
新兵器で逆転を狙う ドイツ軍
精神力と自爆攻撃 日本軍
パニックになってしまう フランス軍
督戦隊と囚人部隊の ソビエト軍
すばやく降伏 イタリア軍
物量つぎ込む アメリカ軍
アメリカ軍がやってくるのを待つ イギリス軍
占領された祖国のことを考え頑張る ポーランド軍
続く・・・
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コメント
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PCがおかしくなり「おきてがみ」で訪問できなくなっています。
今しばらく無理かもわかりませんね。
2015-03-04 21:48 葉山 左京 URL 編集