歴史を歩く89
15西ヨーロッパ世界の成立⑤

モンスニー峠を越えるカール大帝
4カール大帝
小ピピンの子が、中世西ヨーロッパの歴史を代表する人物、カール大帝(カール1世、シャルルマーニュ、742年~814年、在位768年~814年)です。
彼は、父ピピンの後を弟と共に継承しましが、弟の死で単独の王と成りました(771年)。
3年後に教皇の要請でイタリアに出兵し、今迄教皇を圧迫してきたロンバルド王国を滅ぼします(774年)。

シャルルマーニュ・カール大帝
ゲルマン民族の一派で、北ドイツのエルベ川流域に居住していたサクソン(ザクセン)族の一部はアングル人と共にブリタニアに渡たりますが、残りは北ドイツに居住していました。
カール大帝は、サクソン族との5回以上30年に及ぶ戦いの末、ザクセン(サクソニア)地方を征服し、サクソン族のキリスト教化に成功しました。
この間、中央ヨーロッパに侵入してきたアジア系のアヴァール人と戦い(791年~799年)、これを撃退、ドナウ川の中流域に迄領土を拡大しました。
アヴァール人は、モンゴル系とも云われ、かつては突厥に服属していましたが、その一部が西に移動し、6世紀以後、中央ヨーロッパに侵入、パンノニア(ハンガリー)を中心に勢力を拡大しますが、東ローマ軍に大敗し(601年)分裂した後、更にカール大帝にも敗れ(791年)、その首長はフランクに服属しますが、時代が過ぎるに連れてアヴァール人はスラヴ人やマジャール人に同化して行きました。

サクソン族の移動
南部では、イスラム教徒と戦い(778年~801年)、スペイン辺境領を設置し、スペイン東北部に迄領土を拡大しました。
このイスラムとの戦いの帰途、ピレネー山中ロンスヴォーで騎士ローランがバスク人の戦いに敗北し、この出来事が11世紀末に完成する「ローランの歌」の題材となりました。
「ローランの歌」は、カール大帝の甥のローランの活躍を歌った、中世ヨーロッパの代表的な騎士道物語の一つであるが、カール大帝は200才を越える老騎士として登場します。

騎士ローランの死
こうして、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川、南はイタリア中部にまたがる西ヨーロッパの主要部を統一する大フランク王国を建設したカール大帝は、この大国の統治に当たって、中央集権化を推進し、全国を多くの州に分け、、各州に伯を置いて統治させました。
伯にはそれぞれの地方の有力者を任命し、巡察使を派遣して伯を監督させ、カール大帝は更に、学問や文芸の復興をはかり、イギリスの神学者のアルクィン等を招いて、教育や文化を保護、奨励し、所謂カロリング・ルネサンスを現出しました。

「カールの戴冠」
800年のクリスマスの日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇レオ3世は、カール大帝にローマ皇帝の帝冠を与え、この「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する出来事でした。
カール大帝の父ピピン以来、教皇とフランクの結びつきは強くなっていましたが、教皇レオ3世は、カール大帝が西ローマ帝国の旧領をほぼ統一したのを見て、カール大帝をローマ皇帝の帝冠を与える事によって、その結びつきをますます強固なものとし、東ローマ皇帝と対等の権威をつくり出そうと考えます。
しかし、カール大帝は、教皇が皇帝を任命すり前例がなく、皇帝を任命出来るのは東ローマ皇帝だけであると考え、東ローマ皇帝と交渉し、ようやく812年にヴェネチアその他を東ローマ皇帝に譲ることを条件に自分の地位を東ローマ皇帝に認めさせたのです。
「カールの戴冠」は、政治的、宗教的、文化的意義を持つ重要な出来事でした。

8世紀の世界
政治的意義は、ゲルマン民族の大移動以来混乱していた西ヨーロッパ世界がビザンツ(東ローマ)帝国に対抗できる一つの政治的勢力としてまとまり、東ローマ帝国から独立し、西ヨーロッパ世界が成立したことです。
その意味から、ゲルマン(フランク)人であるカール大帝に与えられたのは、西ローマ皇帝の帝冠であり、これによって「西ローマ帝国」が復活したと見倣されます。

アンリ・ビエンヌ
今迄見てきた様に、西ヨーロッパ中世世界の成立にイスラム教徒は大きな影響を及ぼしました。
そのことを、ベルギーの歴史家ピレンヌ(1862年~1935年)はその著「マホメットとシャルルマーニュ」の中で「マホメット(ムハンマド)なくしてカール大帝(シャルルマーニュ)なし」と云う有名な言葉を述べています。
宗教的意義は、フランク王国を後ろ盾としてローマ・カトリック教会がビザンツ帝国(東ローマ)皇帝から独立した地位を得たことでした。
726年の「聖像禁止令」発布以後、対立を深めていたローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会(西方教会)とビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会(東方教会)は、1054年に相互に破門(教会共同体から除外すること)し合い、完全に分離します。
以後、ローマ・カトリック教会は西ヨーロッパ世界で、ギリシア正教会は東ヨーロッパ世界で勢力を持つことに成りますが、この東西両教会が和解するのは、実に1965年12月のことでした。
この年、ローマ・カトリック教会とギリシア正教会は相互に破門を取り消し、和解を達成したのです。
文化的意義としては、ギリシア・ローマの古典文化の要素とキリスト教的要素に、新たにゲルマン的要素が加わり、ヨーロッパ文化圏が成立したことがあげられます。
当に 、「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する重要な出来事でした。
ジョークは如何?
行列で思い出すのが、モスクワでの経験やな。十二年くらい前の話
だけれども、ある日わたしはボロージアという通訳の学生と、モスクワ
の街を歩いてたのよ。例によってあちこちに行列ができてるわけ。
それでわたしが皮肉のつもりで、彼にいったんだ。
「いま、モスクワで一番よく使うロシア語を教えてよ」
「どういう意味ですか?」と訊くから、
「つまり『これは何の行列ですか?』っていうロシア語だよ」っていったの。
そしたらボロージアがにっこり笑って、
「それよりもっといい言葉がありますよ。『クトー・パスレードニ』っていうんです」
だって。「どういう意味?」って訊いたら、
「『最後は誰ですか?』」
続く・・・

モンスニー峠を越えるカール大帝
4カール大帝
小ピピンの子が、中世西ヨーロッパの歴史を代表する人物、カール大帝(カール1世、シャルルマーニュ、742年~814年、在位768年~814年)です。
彼は、父ピピンの後を弟と共に継承しましが、弟の死で単独の王と成りました(771年)。
3年後に教皇の要請でイタリアに出兵し、今迄教皇を圧迫してきたロンバルド王国を滅ぼします(774年)。

シャルルマーニュ・カール大帝
ゲルマン民族の一派で、北ドイツのエルベ川流域に居住していたサクソン(ザクセン)族の一部はアングル人と共にブリタニアに渡たりますが、残りは北ドイツに居住していました。
カール大帝は、サクソン族との5回以上30年に及ぶ戦いの末、ザクセン(サクソニア)地方を征服し、サクソン族のキリスト教化に成功しました。
この間、中央ヨーロッパに侵入してきたアジア系のアヴァール人と戦い(791年~799年)、これを撃退、ドナウ川の中流域に迄領土を拡大しました。
アヴァール人は、モンゴル系とも云われ、かつては突厥に服属していましたが、その一部が西に移動し、6世紀以後、中央ヨーロッパに侵入、パンノニア(ハンガリー)を中心に勢力を拡大しますが、東ローマ軍に大敗し(601年)分裂した後、更にカール大帝にも敗れ(791年)、その首長はフランクに服属しますが、時代が過ぎるに連れてアヴァール人はスラヴ人やマジャール人に同化して行きました。

サクソン族の移動
南部では、イスラム教徒と戦い(778年~801年)、スペイン辺境領を設置し、スペイン東北部に迄領土を拡大しました。
このイスラムとの戦いの帰途、ピレネー山中ロンスヴォーで騎士ローランがバスク人の戦いに敗北し、この出来事が11世紀末に完成する「ローランの歌」の題材となりました。
「ローランの歌」は、カール大帝の甥のローランの活躍を歌った、中世ヨーロッパの代表的な騎士道物語の一つであるが、カール大帝は200才を越える老騎士として登場します。

騎士ローランの死
こうして、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川、南はイタリア中部にまたがる西ヨーロッパの主要部を統一する大フランク王国を建設したカール大帝は、この大国の統治に当たって、中央集権化を推進し、全国を多くの州に分け、、各州に伯を置いて統治させました。
伯にはそれぞれの地方の有力者を任命し、巡察使を派遣して伯を監督させ、カール大帝は更に、学問や文芸の復興をはかり、イギリスの神学者のアルクィン等を招いて、教育や文化を保護、奨励し、所謂カロリング・ルネサンスを現出しました。

「カールの戴冠」
800年のクリスマスの日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇レオ3世は、カール大帝にローマ皇帝の帝冠を与え、この「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する出来事でした。
カール大帝の父ピピン以来、教皇とフランクの結びつきは強くなっていましたが、教皇レオ3世は、カール大帝が西ローマ帝国の旧領をほぼ統一したのを見て、カール大帝をローマ皇帝の帝冠を与える事によって、その結びつきをますます強固なものとし、東ローマ皇帝と対等の権威をつくり出そうと考えます。
しかし、カール大帝は、教皇が皇帝を任命すり前例がなく、皇帝を任命出来るのは東ローマ皇帝だけであると考え、東ローマ皇帝と交渉し、ようやく812年にヴェネチアその他を東ローマ皇帝に譲ることを条件に自分の地位を東ローマ皇帝に認めさせたのです。
「カールの戴冠」は、政治的、宗教的、文化的意義を持つ重要な出来事でした。

8世紀の世界
政治的意義は、ゲルマン民族の大移動以来混乱していた西ヨーロッパ世界がビザンツ(東ローマ)帝国に対抗できる一つの政治的勢力としてまとまり、東ローマ帝国から独立し、西ヨーロッパ世界が成立したことです。
その意味から、ゲルマン(フランク)人であるカール大帝に与えられたのは、西ローマ皇帝の帝冠であり、これによって「西ローマ帝国」が復活したと見倣されます。

アンリ・ビエンヌ
今迄見てきた様に、西ヨーロッパ中世世界の成立にイスラム教徒は大きな影響を及ぼしました。
そのことを、ベルギーの歴史家ピレンヌ(1862年~1935年)はその著「マホメットとシャルルマーニュ」の中で「マホメット(ムハンマド)なくしてカール大帝(シャルルマーニュ)なし」と云う有名な言葉を述べています。
宗教的意義は、フランク王国を後ろ盾としてローマ・カトリック教会がビザンツ帝国(東ローマ)皇帝から独立した地位を得たことでした。
726年の「聖像禁止令」発布以後、対立を深めていたローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会(西方教会)とビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会(東方教会)は、1054年に相互に破門(教会共同体から除外すること)し合い、完全に分離します。
以後、ローマ・カトリック教会は西ヨーロッパ世界で、ギリシア正教会は東ヨーロッパ世界で勢力を持つことに成りますが、この東西両教会が和解するのは、実に1965年12月のことでした。
この年、ローマ・カトリック教会とギリシア正教会は相互に破門を取り消し、和解を達成したのです。
文化的意義としては、ギリシア・ローマの古典文化の要素とキリスト教的要素に、新たにゲルマン的要素が加わり、ヨーロッパ文化圏が成立したことがあげられます。
当に 、「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する重要な出来事でした。
ジョークは如何?
行列で思い出すのが、モスクワでの経験やな。十二年くらい前の話
だけれども、ある日わたしはボロージアという通訳の学生と、モスクワ
の街を歩いてたのよ。例によってあちこちに行列ができてるわけ。
それでわたしが皮肉のつもりで、彼にいったんだ。
「いま、モスクワで一番よく使うロシア語を教えてよ」
「どういう意味ですか?」と訊くから、
「つまり『これは何の行列ですか?』っていうロシア語だよ」っていったの。
そしたらボロージアがにっこり笑って、
「それよりもっといい言葉がありますよ。『クトー・パスレードニ』っていうんです」
だって。「どういう意味?」って訊いたら、
「『最後は誰ですか?』」
続く・・・
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