2015/03/08

歴史を歩く90

15-2西ヨーロッパ封建社会の発展①

hurankud_convert_20150310130531.gif
フランク王国の分裂

1フランク王国の分裂

Louis_Ier_le_Pieux_ou_le_Débonnaire_convert_20150310130821
ルートヴィヒ1世

 カール大帝には約20人の子供を授かりましたが、男子で彼の死後迄生きたのは第3子のルートヴィヒ1世(ルイ1世、敬虔王、在位814年~840年)だけだったので、彼がカール大帝の後継者と成りました。
彼は敬虔王の別名の通り、信仰心が厚く各地に教会や修道院を寄進したのですが、政治力、決断力に欠けていたと云われています。

 ルートヴィヒ1世は、817年に王国をロタール、ピピン、ルートヴィヒの3人の子供に分配しましたが、829年に再婚して生まれた末子のシャルルに再分配を考えた結果ロタール等の反乱を招き、ルートヴィヒを攻撃中に死去しています。

250px-Lothar_I.jpg
ロタール1世

 父の死後、長子ロタール1世が全土の支配を図ったのに対し、次子ルートヴィヒ2世と末子シャルル2世(ピピンは早死)が結んでロタール1世を破り、843年にヴェルダン条約を強制して、王国を3分割しました。
長子ロタール1世(在位840年~855年)は中部フランク(中フランク、東・西フランクの中間地帯とイタリア)を獲得し、次子ルートヴィヒ2世(在位843年~876年)は東フランク(ドイツ、ライン川以東の地)を、そして末子シャルル2世(在位843年~877年)は西フランク(フランス)を獲得しました。

 ロタール1世は、西ローマ皇帝の地位と中部フランクを得たのですが、3人の中で一番早く亡くなり、後を継いだロタール2世も没すると(869年)、ルートヴィヒ2世とシャルル2世は再び結んで、870年のメルセン条約で、兄の領土であったイタリアを除く中部フランクをほぼ均等に分割して、それぞれ東・西フランクに併合しました。

 メルセン条約による国境が、その後長い変遷を経て、今日のドイツ、フランス、イタリアの国境になって行く事から、その意味で、このメルセン条約によって後のドイツ、フランス、イタリアの基礎がつくられたと言えます。

 このフランク王国が分裂していった時期は、ヨーロッパが外部からの侵入に脅かされ、苦しめられた時期でもあります。
北からはノルマン人、東からはマジャール人、南からはイスラム教徒がヨーロッパ世界を脅かし、この外部からの侵入は以後のヨーロッパの歴史に大きな影響を及ぼしていきました。

 イタリアでは、ルイ2世(ロタール1世の子)の死によってカロリング家が断絶した(875年)結果、その後イタリアでは諸侯や都市が分立し、北イタリアは東フランク(962年以後は神聖ローマ帝国)やビザンツの介入を受け、南イタリアはイスラムやノルマン人の侵入を受けていきます。
この為、イタリアは分裂状態に陥り、中世の「イタリア」は地理的名称として、留まるだけに成っていました。

Die_deutschen_Kaiser_Ludwig_das_Kind.jpg
ルートヴィヒ4世

 東フランクでは、ルートヴィヒ4世(東フランク第4代の王)が若くし死去し、911年にカロリング朝が断絶すると、カロリング家と血縁関係にあったフランケン公コンラート1世が有力諸侯達によって国王に選出されました。
しかし、コンラート1世はマジャール人(ハンガリー人)の侵入と国内各部族の分立に苦しめられ、王として力は弱く、こうした状況の中で、人々は血統よりも実力のある人物が王となり、王国が再建されることを願う様に成りました。
そこでコンラート1世は、後継者に有力諸侯の1人であったザクセン公ハインリヒ1世(在位919年~936年)を指名します。

 ハインリヒ1世は辺境の防備に力を注ぎ、ノルマン人やマジャール人、スラブ人の侵入を撃退して、国内の結束を固め「ドイツ王国」の名称を用いたため、ハインリヒの即位をもって国家としての「ドイツ」が成立したと見なしています。
彼は国内各部族の分立を抑えることは叶いませんでしたが国民の信頼を得ていたので、彼の死後、子のオットー1世が諸侯の選挙によって東フランク王に選ばれました。

333px-Otto_der_Große
オットー1世

 オットー1世(912年~973年、東フランク王(在位936年~973年)、神聖ローマ帝国初代皇帝(在位936年~973年))は即位すると、国家統一に力を注ぎ、外敵のマジャール人を討ち、国内では敵対する諸侯を抑えて中央集権体制の確立に努めました。

 マジャール人は、アジア系遊牧民で、現在のハンガリー人の祖先です。
ウラル語族に属し、原住地はウラル山脈の西南部の辺りと考えられており、5世紀頃から西南方に移動を開始し、カフカース地方(黒海とカスピ海に挟まれた地方)に数世紀間定住していましたが、9世紀初頭隣接民族の移動に刺激され、再び西方に移動しハンガリー平原に入り、以後ここを拠点としてドイツ、イタリア、ギリシアに連年にわたって侵入しました。
彼等は騎馬戦術に優れ、その凶暴さと残忍さで周辺の人々に恐れられたのです。

レッヒフェルトの戦い
レヒフェルトの戦い

 オットー1世は、933年と特に955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃破し、その西方進出を阻止すると共に、オストマルク辺境領(後のオーストリア)を置いてその後の侵入に備えました。

 国内では大諸侯を抑えるために一族の者を諸侯として各地に配置しましたが、一族の者が各地の部族勢力と結んだため目的を果たすことができず、その為「帝国教会政策」を採用して中央集権体制の確立を図ろうとします。
帝国教会政策は、教会や修道院領を王領とし、司教や修道院長の任命権を握り、聖職者を国王の官僚とし、彼等を王権の支柱とする政策です。

Otto_I_begegnet_Papst_Johannes_XII_convert_20150310132830.jpg
オットー1世と会見するヨハネス12世(14世紀の描画)

 オットー1世は、帝国教会政策を進めるために、3回にわたってイタリア遠征を行い(951年~952年、961年~964年、966年~972年)、この2回目の遠征の時、教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の帝冠を授けられます(962年)。
ヨハネス12世(教皇在位955年~964年)は、トスカナ公家出身で、教皇領の拡大を図り、イヴレア侯と争い、オットー1世に助けを求め、彼が軍を率いてイタリアに入るとローマ皇帝の冠を授けたのでした。

 この桂冠が「神聖ローマ帝国」(962年~1806年)の起源と成りました。
当初は単に「ローマ帝国」と呼ばれていましたが、13世紀中頃以後「神聖ローマ帝国」と呼ばれるように成ります。

 ここにドイツからイタリア中部にまたがる大帝国が出現したのですが、その後のドイツ王は代々「ローマ皇帝」の称号を受けたことから、歴代の神聖ローマ皇帝(ドイツ王)は本国の統治よりもイタリア支配に熱中した為、ドイツ国内は分裂状態に陥って行きます。
この歴代神聖ローマ皇帝のイタリア支配政策は「イタリア政策」と呼ばれています。

Siege_of_Paris_(885–886)_convert_20150310133551
パリ伯ウード

 西フランクは、8世紀末以来の度重なるノルマン人の侵入に苦しめられていました。
特に885年から86年に、約700隻の船に分乗した約3万人にも及ぶノルマン人の大軍がセーヌ川を遡りパリを包囲しました。
この時、無能なカロリング家の西フランク王に代わってパリを死守し、名声をあげた人物がパリ伯ウードでした。

Hugues_capet.jpg
ユーグ・カペー

 ウードの甥、パリ伯ユーグの長子として生まれた人物がユーグ・カペー(938年頃~996年、在位987年~996年)で、ルイ5世の死によってカロリング家が断絶すると、カロリング家の女性を妻としていたユーグ・カペーは、国王選挙で対立候補であったロレーヌ公シャルル(ルイ5世の叔父)を破って王位に就き(987年)、カペー朝(987年~1328年)を開きました。

 しかし、カペー家の王領はパリとオルレアンを含む狭い地域に限られ、また各地に分散していたため、その王権は大変弱いものでした。

ジョークは如何?

アメリカでは肥満だと管理職にはなれない。

が、マックを訴えることはできる。


続く・・・

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント