歴史を歩く91
15-2西ヨーロッパ封建社会の発展②
2ヴァイキングの活動

ヴァイキングの活動
ノルマン人はゲルマン民族の一派(北ゲルマン)で、スカンディナヴィア半島、ユトランド半島を原住地とし、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3つの部族に分かれていました。
彼等は狩猟や漁労を営んでいましたが、又造船と航海に優れた技術を持っていたのです。
ノルマン人が遠征に用いた舟は長さ約20m、40~60人程度の人を乗せ、高い舳先(へさき)を持ち、甲板はなく、櫂と帆で走り、時速は約10ノット、吃水は約1mで河川の遡行に適していました。

ヴァイキング船
ノルマン人は8世紀頃から活動を開始し(人口増加と耕地不足が原因と考えられています)、ヨーロッパ各地に侵入、移動しました。
初めは商業活動を行っていたのですが、しばしば掠奪や海賊行為を働き、「ヴァイキング」(入り江の民の意味、後には海賊を意味するようになった)と呼ばれて怖れられました。
彼等は、海岸を荒らし、河川を遡って町や村、修道院等を襲撃、掠奪し、掠奪を免れようとする領主等からは賠償金を徴収し、彼等の襲撃を受けた人々は町や村を捨て、ひたすら奥地に逃げ込むしかなかったのです。
ノルマン人は、初期には西ヨーロッパ各地の海岸付近を襲い掠奪を行ったが、やがて内陸部に入り込み、土地を奪って定着し、建国する様に成ります。
ノルマン人の西フランク(フランス)への侵入は、8世紀末のカール大帝の頃には既に始まっていました。
西フランクには大西洋に注ぎ込む河川が多い為、彼等の侵入には好都合で、9世紀に入るとノルマン人の侵入は一層活発と成り、885年にはパリが包囲されたことは前に記述した通りです。
_convert_20150313221226.jpg)
ノルマン人ロロ
ノルウェーのノルマン人首長であったロロ(860年頃~933年)は北フランスを蹂躙し、セーヌ川の河口地帯を占領しました(890年頃~910年)。
このロロの侵入に苦しんだシャルル3世(西フランク6代目の王、在位893年~923年)は、ロロがキリスト教に改宗することを条件に、セーヌ川下流のノルマンディーに領土を与えて定住を許し、ノルマンディー公に封じ(911年)、このノルマンディー公国は13世紀にフランスに併合される迄存続します。

ヴァイキング貴族
ノルマンディーに定着したノルマン人下級貴族の或る家に12人の武勇に優れた兄弟が居ました。彼等は遠く地中海に迄進出し、最初は東ローマやロンバルドの傭兵と成りますが、後に自立し、掠奪と征服に乗り出し、南イタリアに地盤を築いていったのです。
ルッジェーロ(ロジェール)1世(1031年~1101年)は、教皇からイスラム教徒が支配するシチリア島の討伐を命じられた兄のロベール・ギスカールを助けて、シチリア島に侵入、征服し(1061年~)教皇からシチリア伯の称号を授与され(1072年)、兄の死後(1085年)は南イタリアをも支配しました。

ルッジェーロ1世
父ルッジェーロ1世の後を継いでシチリア伯になったルッジェーロ2世(在位1130年~1154年)は、南イタリアを含むノルマン諸勢力を統合してシチリア王となり、両シチリア王国を建国します(1130年)。
フランスと並んでノルマン人の侵入に苦しんだ地域がイングランド(イギリス)です。
ゲルマン民族大移動時、イングランドにはアングロ・サクソン族が移住し(5世紀中頃以後)、先住のブリトン人を征服し、部族毎に多くの小王国を建設しました。
これら小王国は6世紀末にケント、エセックス、サセックス、ウェセックス、イースト・アングリア、マーシア、ノーザンブリアの七王国(ヘプターキー)に統合されました。

七王国(ヘプターキー)
七王国は、相互の長期にわたる抗争の末、ウェセックス王のエグバート(エグベルト)(ウェセックス王、在位802年~839年、イングランド王、在位829年~839年)が七王国すべてを支配下においてイングランドを統一しました(829年)。
イングランドが統一に向かっていた8世紀末からデーン人の侵入が始まり、9世紀に入ると、その侵入はいっそう激しさを増して行きました。
デーン人はデンマークからイギリスに侵入したノルマン人の一派を指す名称ですが、イギリスではノルマン人、ヴァイキングがデーン人と呼ばれました。
デーン人は、イングランドを次々に征服し、9世紀後半には南西部のウェセックスがわずかに独立を保っているに過ぎない状態と成りました。

アルフレッド大王
こうした状況の中、イングランド王に即位したのが、エグバートの孫アルフレッド大王(848年頃~899年、在位871年~899年)です。
アルフレッド大王は、デーン人との激しい戦いの中から彼らの戦術を学び、それを利用してデーン人を打ち破り、彼らの勢力をデーンロー地方(イングランドの東部)の北部に限定することに成功したのでした。
又、彼は海軍の拡張等、軍制改革、行政制度の整備等に尽くし、イングランド王国を再建し、このようにアルフレッド王はイングランドをデーン人から守ったアングロ・サクソン族の最も偉大な王としてイギリス国民から尊敬され、大王の名で呼ばれています。
アルフレッド大王の死後、約1世紀はデーン人の侵入も比較的少なく平和な状態が続きましたが、11世紀の初め、イングランド王が反乱を口実に国内のデーン人を虐殺したことから、再びデーン人の大規模な侵入が始まります。
デンマーク王の第2子、クヌート(カヌート)(イングランド王、在位1016年~1035年、デンマーク王、在位1018年~1035年)が父と伴にイングランドに侵入、征服し(1013年、1015年)、1016年にはイングランド王となり、デーン朝(1016年~1042年)を開きました。
彼は兄の死によりデンマーク王をも兼ね、更にノルウェーとスウェーデンの一部を征服し(1028年)、北海を取りまく大海上帝国を建設しましたが、彼の死後、大帝国はまもなく崩壊し、デーン朝は3代で滅びます。

「ノルマン征服」(ノルマン・コンクェスト)
その後、イングランドでは再びアングロ・サクソン王朝が復活しましたが(1042年)、1066年の「ノルマン征服」(ノルマン・コンクェスト)によって再びノルマン人に征服され、ノルマン朝(1066年~1154年)が建てられることに成ります。

ノルマンディー公ウィリアム
ノルマンディー公ウィリアム(1027年頃~1087年、ノルマン朝創始者、イギリス王としてはウィリアム1世(在位1066年~1087年)は、ノルマンディー公ロロ5代目の子孫で、父の後を継いでノルマンディー公と成りました(1035年)。
イングランドでエドワード懺悔王(在位1042年~1066錬、デーン朝が断絶するとノルマンディーから帰国して即位、ウェセックス家最後のイングランド王、母はノルマンディー公家出身)が亡くなり、義弟のハロルドが即位するとノルマンディー公ウィリアムは、エドワード王の従兄弟の子として王位継承を要求してイングランドに侵入しました。
彼は約750隻の船に約15000人の兵を分乗させ、ヘースティングス付近に上陸し、ヘースティングスの戦い(1066年)で大勝してハロルドを敗死させ、イングランド王に即位してウィリアム1世と称し、ノルマン朝を創始しました。
この出来事が「ノルマン征服」と呼ばれる出来事です。

ヘースティングスの戦い
ウィリアム1世は約5年でイギリスを統一し、フランスの封建制度を移入し、ノルマン貴族を各地に封じて統治させました。
全国的な検地を行い、ドゥームズデー・ブックと呼ばれる検地帳(土地台帳)を作成させ、全国の土地所有者を集めて王への忠誠を誓わせました(「ソールズベリーの誓約」1086年)。
又、カンタベリー大司教を任命する等、集権的封建制度でイギリスを統治しました。
「ノルマン征服」によって、ノルマンディー公国はイギリス領となり、イギリスはヨーロッパに領土を持つことと成り、又フランス王の家臣であったノルマンディー公がイギリス王になり、主君のフランス王よりも強大な力を持つことになったことが、以後の英仏関係複雑にし、長期にわたる英仏抗争の原因と成りました。

リューリク
北ヨーロッパでは、スウェーデンのノルマン人であるルーシ(ルス)族の族長であったリューリク(ルーリック)(?~879年)に率いられたノルマン人一派(ルーシ族)が、スラヴ系の諸部族の要請を受けて兄弟でロシアに入り、ロシア最古の都市の1つであるノヴゴロドに入り、ノヴゴロド公国を建てました(862年)。
この公国が、ロシア最初の国家とされ、ロシア(Russia)の呼称はルス(Russ)に因むと云われています。

公国の成立
その後、リューリク一族のオレーグに率いられたルーシ族は更に南下し、ロシア最大の都市キエフを中心にキエフ公国を建国しました(882年)。
ノルマン人の現住地にはデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの3王国が成立しました。
デンマークでは、8世紀頃、デーン人がユトランド半島を中心に王国を形成しました。
11世紀前半のクヌート王の時代にはイギリス及びスウェーデン、ノルウェーの一部を統一し、北海帝国を建設しました。
ノルウェーでは、ノルマン人によって9世紀末に初めて統一国家が形成されましたが、11世紀前半にはデンマークのクヌートの支配下に置かれた。スウェーデンにも、10世紀頃ノルマン人によって統一国家が形成されました。
ノルマン人の一部は、9世紀にアイスランドを発見して移住し、アイスランドは13世紀末にノルウェーに併合されます。
ノルマン人の一部は大西洋を越えて、10世紀末にグリーンランドに達し、又1000年頃には北米のヴィンランド(カナダの東部)にも達したと云われています。
之が事実ならコロンブスの発見よりも500年も前のことに成りますが、名前も伝わっておらず、記録も無く、最初にアメリカ大陸に到達したヨーロッパ人はコロンブスと歴史上は認められています。

ヴァイキングのイメージ:小さなバイキング、ビッケ
ジョークは如何?
「ヒトラー、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラーの四人が、1機の飛行機に乗って出発した。事故が起きて、飛行機は墜落した。さて誰が助かったんでしょう?」
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→「ドイツ国民」
続く・・・
2ヴァイキングの活動

ヴァイキングの活動
ノルマン人はゲルマン民族の一派(北ゲルマン)で、スカンディナヴィア半島、ユトランド半島を原住地とし、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3つの部族に分かれていました。
彼等は狩猟や漁労を営んでいましたが、又造船と航海に優れた技術を持っていたのです。
ノルマン人が遠征に用いた舟は長さ約20m、40~60人程度の人を乗せ、高い舳先(へさき)を持ち、甲板はなく、櫂と帆で走り、時速は約10ノット、吃水は約1mで河川の遡行に適していました。

ヴァイキング船
ノルマン人は8世紀頃から活動を開始し(人口増加と耕地不足が原因と考えられています)、ヨーロッパ各地に侵入、移動しました。
初めは商業活動を行っていたのですが、しばしば掠奪や海賊行為を働き、「ヴァイキング」(入り江の民の意味、後には海賊を意味するようになった)と呼ばれて怖れられました。
彼等は、海岸を荒らし、河川を遡って町や村、修道院等を襲撃、掠奪し、掠奪を免れようとする領主等からは賠償金を徴収し、彼等の襲撃を受けた人々は町や村を捨て、ひたすら奥地に逃げ込むしかなかったのです。
ノルマン人は、初期には西ヨーロッパ各地の海岸付近を襲い掠奪を行ったが、やがて内陸部に入り込み、土地を奪って定着し、建国する様に成ります。
ノルマン人の西フランク(フランス)への侵入は、8世紀末のカール大帝の頃には既に始まっていました。
西フランクには大西洋に注ぎ込む河川が多い為、彼等の侵入には好都合で、9世紀に入るとノルマン人の侵入は一層活発と成り、885年にはパリが包囲されたことは前に記述した通りです。
_convert_20150313221226.jpg)
ノルマン人ロロ
ノルウェーのノルマン人首長であったロロ(860年頃~933年)は北フランスを蹂躙し、セーヌ川の河口地帯を占領しました(890年頃~910年)。
このロロの侵入に苦しんだシャルル3世(西フランク6代目の王、在位893年~923年)は、ロロがキリスト教に改宗することを条件に、セーヌ川下流のノルマンディーに領土を与えて定住を許し、ノルマンディー公に封じ(911年)、このノルマンディー公国は13世紀にフランスに併合される迄存続します。

ヴァイキング貴族
ノルマンディーに定着したノルマン人下級貴族の或る家に12人の武勇に優れた兄弟が居ました。彼等は遠く地中海に迄進出し、最初は東ローマやロンバルドの傭兵と成りますが、後に自立し、掠奪と征服に乗り出し、南イタリアに地盤を築いていったのです。
ルッジェーロ(ロジェール)1世(1031年~1101年)は、教皇からイスラム教徒が支配するシチリア島の討伐を命じられた兄のロベール・ギスカールを助けて、シチリア島に侵入、征服し(1061年~)教皇からシチリア伯の称号を授与され(1072年)、兄の死後(1085年)は南イタリアをも支配しました。

ルッジェーロ1世
父ルッジェーロ1世の後を継いでシチリア伯になったルッジェーロ2世(在位1130年~1154年)は、南イタリアを含むノルマン諸勢力を統合してシチリア王となり、両シチリア王国を建国します(1130年)。
フランスと並んでノルマン人の侵入に苦しんだ地域がイングランド(イギリス)です。
ゲルマン民族大移動時、イングランドにはアングロ・サクソン族が移住し(5世紀中頃以後)、先住のブリトン人を征服し、部族毎に多くの小王国を建設しました。
これら小王国は6世紀末にケント、エセックス、サセックス、ウェセックス、イースト・アングリア、マーシア、ノーザンブリアの七王国(ヘプターキー)に統合されました。

七王国(ヘプターキー)
七王国は、相互の長期にわたる抗争の末、ウェセックス王のエグバート(エグベルト)(ウェセックス王、在位802年~839年、イングランド王、在位829年~839年)が七王国すべてを支配下においてイングランドを統一しました(829年)。
イングランドが統一に向かっていた8世紀末からデーン人の侵入が始まり、9世紀に入ると、その侵入はいっそう激しさを増して行きました。
デーン人はデンマークからイギリスに侵入したノルマン人の一派を指す名称ですが、イギリスではノルマン人、ヴァイキングがデーン人と呼ばれました。
デーン人は、イングランドを次々に征服し、9世紀後半には南西部のウェセックスがわずかに独立を保っているに過ぎない状態と成りました。

アルフレッド大王
こうした状況の中、イングランド王に即位したのが、エグバートの孫アルフレッド大王(848年頃~899年、在位871年~899年)です。
アルフレッド大王は、デーン人との激しい戦いの中から彼らの戦術を学び、それを利用してデーン人を打ち破り、彼らの勢力をデーンロー地方(イングランドの東部)の北部に限定することに成功したのでした。
又、彼は海軍の拡張等、軍制改革、行政制度の整備等に尽くし、イングランド王国を再建し、このようにアルフレッド王はイングランドをデーン人から守ったアングロ・サクソン族の最も偉大な王としてイギリス国民から尊敬され、大王の名で呼ばれています。
アルフレッド大王の死後、約1世紀はデーン人の侵入も比較的少なく平和な状態が続きましたが、11世紀の初め、イングランド王が反乱を口実に国内のデーン人を虐殺したことから、再びデーン人の大規模な侵入が始まります。
デンマーク王の第2子、クヌート(カヌート)(イングランド王、在位1016年~1035年、デンマーク王、在位1018年~1035年)が父と伴にイングランドに侵入、征服し(1013年、1015年)、1016年にはイングランド王となり、デーン朝(1016年~1042年)を開きました。
彼は兄の死によりデンマーク王をも兼ね、更にノルウェーとスウェーデンの一部を征服し(1028年)、北海を取りまく大海上帝国を建設しましたが、彼の死後、大帝国はまもなく崩壊し、デーン朝は3代で滅びます。

「ノルマン征服」(ノルマン・コンクェスト)
その後、イングランドでは再びアングロ・サクソン王朝が復活しましたが(1042年)、1066年の「ノルマン征服」(ノルマン・コンクェスト)によって再びノルマン人に征服され、ノルマン朝(1066年~1154年)が建てられることに成ります。

ノルマンディー公ウィリアム
ノルマンディー公ウィリアム(1027年頃~1087年、ノルマン朝創始者、イギリス王としてはウィリアム1世(在位1066年~1087年)は、ノルマンディー公ロロ5代目の子孫で、父の後を継いでノルマンディー公と成りました(1035年)。
イングランドでエドワード懺悔王(在位1042年~1066錬、デーン朝が断絶するとノルマンディーから帰国して即位、ウェセックス家最後のイングランド王、母はノルマンディー公家出身)が亡くなり、義弟のハロルドが即位するとノルマンディー公ウィリアムは、エドワード王の従兄弟の子として王位継承を要求してイングランドに侵入しました。
彼は約750隻の船に約15000人の兵を分乗させ、ヘースティングス付近に上陸し、ヘースティングスの戦い(1066年)で大勝してハロルドを敗死させ、イングランド王に即位してウィリアム1世と称し、ノルマン朝を創始しました。
この出来事が「ノルマン征服」と呼ばれる出来事です。

ヘースティングスの戦い
ウィリアム1世は約5年でイギリスを統一し、フランスの封建制度を移入し、ノルマン貴族を各地に封じて統治させました。
全国的な検地を行い、ドゥームズデー・ブックと呼ばれる検地帳(土地台帳)を作成させ、全国の土地所有者を集めて王への忠誠を誓わせました(「ソールズベリーの誓約」1086年)。
又、カンタベリー大司教を任命する等、集権的封建制度でイギリスを統治しました。
「ノルマン征服」によって、ノルマンディー公国はイギリス領となり、イギリスはヨーロッパに領土を持つことと成り、又フランス王の家臣であったノルマンディー公がイギリス王になり、主君のフランス王よりも強大な力を持つことになったことが、以後の英仏関係複雑にし、長期にわたる英仏抗争の原因と成りました。

リューリク
北ヨーロッパでは、スウェーデンのノルマン人であるルーシ(ルス)族の族長であったリューリク(ルーリック)(?~879年)に率いられたノルマン人一派(ルーシ族)が、スラヴ系の諸部族の要請を受けて兄弟でロシアに入り、ロシア最古の都市の1つであるノヴゴロドに入り、ノヴゴロド公国を建てました(862年)。
この公国が、ロシア最初の国家とされ、ロシア(Russia)の呼称はルス(Russ)に因むと云われています。

公国の成立
その後、リューリク一族のオレーグに率いられたルーシ族は更に南下し、ロシア最大の都市キエフを中心にキエフ公国を建国しました(882年)。
ノルマン人の現住地にはデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの3王国が成立しました。
デンマークでは、8世紀頃、デーン人がユトランド半島を中心に王国を形成しました。
11世紀前半のクヌート王の時代にはイギリス及びスウェーデン、ノルウェーの一部を統一し、北海帝国を建設しました。
ノルウェーでは、ノルマン人によって9世紀末に初めて統一国家が形成されましたが、11世紀前半にはデンマークのクヌートの支配下に置かれた。スウェーデンにも、10世紀頃ノルマン人によって統一国家が形成されました。
ノルマン人の一部は、9世紀にアイスランドを発見して移住し、アイスランドは13世紀末にノルウェーに併合されます。
ノルマン人の一部は大西洋を越えて、10世紀末にグリーンランドに達し、又1000年頃には北米のヴィンランド(カナダの東部)にも達したと云われています。
之が事実ならコロンブスの発見よりも500年も前のことに成りますが、名前も伝わっておらず、記録も無く、最初にアメリカ大陸に到達したヨーロッパ人はコロンブスと歴史上は認められています。

ヴァイキングのイメージ:小さなバイキング、ビッケ
ジョークは如何?
「ヒトラー、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラーの四人が、1機の飛行機に乗って出発した。事故が起きて、飛行機は墜落した。さて誰が助かったんでしょう?」
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→「ドイツ国民」
続く・・・
スポンサーサイト
コメント