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2015/03/16

歴史を歩く92

15-2西ヨーロッパ封建社会の発展③

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封建社会のピラミッド構造

3封建社会の成立

 中世西ヨーロッパは、イスラム、マジャール人、ノルマン人等の圧迫によって絶えず苦しめられていました。
この様な状況の中で、西ヨーロッパに封建制度、封建社会が成立します。
人々は外民族の侵入から自分の土地を守る為に、今迄の様に遠くの王や皇帝を頼るのではなく、近くの有力者に保護を求め、主従関係を結ぶ様に成りました。
この為、有力者は多くの家臣を従えて勢力を持つ様になり、各地で自立していく中、その一方で王や皇帝は、地方の一有力者に過ぎなくなって行きました。

 封建制度と云う言葉は、狭義では封土(ほうど)の授受を中心に形成された主従関係を指す言葉として使われ、広義では、荘園制を基礎とする社会組織一般を指す言葉として、封建社会と同義に使われます。

 西ヨーロッパでは、8~9世紀頃迄に、封土の授受によって結ばれた主従関係による階層組織を持つ社会、封建制度に基づく社会、すなわち封建社会が成立しました。

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騎士叙任

 西ヨーロッパの封建制度は、ローマの恩貸地制度とゲルマン人の従士制度が結びついて成立したとされており、恩貸地制度は、土地所有者が自分の土地を守って貰う為に、有力者に土地を献じてその保護下に入り、改めてその土地を恩貸地として受け、土地の使用権を与えられる代わりに有力者に奉仕する慣習でローマ帝国末期に形成されました。

 一方、古ゲルマンの慣習である従士制度は、自由民の子弟が有力者の下で、衣食、武器等(これを封と云う)を与えられて扶養と保護を受けながら、一人前の戦士に育て上げてもらう、その代わりに一生涯その有力者に対して服従し、奉仕、忠誠を尽くす制度でした。

 これらの制度が基になり、フランク王国の下で長期間の内に、王・諸侯・騎士の間で、主君が臣下に封土を与え、臣下は主君に忠誠を誓い、軍役(従軍)等の義務を負う、封建的主従関係が幾層にも出来上がって行きました。
特に、カール・マルテルがイスラム教徒の侵入に対抗する為に騎士軍を創設する際、教会領地の一部を騎士に与えた事が、西ヨーロッパに於ける封建制度の成立に大きな影響を与えたと云われています。

 この封土の授受を媒介とする主従関係は次第に世襲化されていき、封土も世襲化されて行きました。しかし、西ヨーロッパの場合、この主従関係は個人と個人の双務的な契約関係であって、一方的な支配と従属の関係では在りませんでした。
この関係が西ヨーロッパ封建制度の大きな特色なのです。

 双務的な契約関係とは、主君と臣下の双方に契約を守る義務があると云う事で、主君といえども臣下に絶対的無条件の服従を強いる事は出来ず、臣下には主君の無理な要求には服従を拒む権利があったのでした。

 臣下の義務の中で最も重要な義務である軍役についても、12世紀のフランスの場合、遠征は年40日、近隣の諸侯との戦闘は歩いて24時間で行ける距離迄で1週間が原則でした。
又臣下は義務さえ果たせば複数の主君を持つ事が出来、2人以上の主君を持つ場合も多く、中には45人の主君を持った例も在ったと云われています。

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領主と農民

 イスラムをはじめとする外民族の侵入による混乱によって交通や商業が衰え、人々は農村で自給自足の生活を営む様に成り、西ヨーロッパは自給自足(自然経済)による農業中心の社会に移っていきます。
別の表現を借りれば、西ヨーロッパ全体が巨大な農村に成ったのでした。

 こうした中で、諸侯、騎士は封土として与えられた土地を所領として支配する領主として、そこに住む農民を支配する様に成りました。
彼等が領主として支配した土地は荘園と呼ばれ、中世ヨーロッパでは教会や修道院も寄進や開墾によって多くの荘園を持つ様に成り、大司教や修道院長らの聖職者も、諸侯や騎士と共に領主として荘園の農民を支配したのでした。

 一般的な荘園の場合、領主の館(大諸侯の場合は城)、教会、農民の住居等が中心に位置し、その周辺に領主の直営地、農民の保有地からなる耕地と農民が共同で使用できる牧草地や森林が広がり、水車小屋やパン焼き小屋等の施設も設けられていました。

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農民の生活

 荘園内の農民の大多数は、農奴と呼ばれる不自由な隷農でした。
農奴は移転の自由が無く、生涯その土地に拘束され、職業選択の自由も存在せず、更には領主裁判権に服さねば成らない等様々な身分的な束縛を受けました。
しかし、奴隷とは違って、家族を持つ事が可能で、住居や農具等の所有は認められていました。

 この様な農奴になった人物は、ローマ末期のコロヌスや解放奴隷、そして民族大移動の混乱の中で土地を失った農民、有力者に隷属する様になった、没落ゲルマン自由民等でした。

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農民兵

 農奴は、身分上の束縛を受けると共に、領主に対して様々な経済的な義務(税の負担)を負っており、その内特に重要なものが賦役と貢納でした。

 荘園の耕地は領主が直接経営する直営地と、農奴に貸し与えた農民保有地からなっていました。
その領主の直営地で週の内2~3日間労働する行為が賦役です。
しかし、その全収穫物は領主の物と成る為、農奴は無報酬で働く事によって税を負担しているのと同じ行為になる為、賦役は労働地代とも呼ばれます。
農奴はこの賦役を嫌悪しますが、この賦役と引き替えに領主から保有地を支給されました。
農奴は保有地を耕作し、その収穫物の一部や鶏卵、チーズ等現物を納めます。
此れが貢納で、生産物地代とも呼ばれます。

 更に十分の一税が存在しました。
これは農奴が荘園内にある教会に納めた貢納で、その名の通り、あらゆる収穫の十分の一を納めました。
この他、結婚税、死亡税を納めます。
死亡税によって保有地の世襲が認められ、水車小屋、パン焼き釜等の使用料(小麦を粉にしたり、パンに焼くには領主が経営する水車小屋、パン焼き釜を使用せねば成りませんでした)の負担等有りとあらゆる税負担を強いられました。
農奴からの搾取によって領主階級の生活が成立していたものが荘園制であり、その上に成り立っていたものが封建社会でした。

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農耕風景

 この様な中で農奴達は必死に働いたのでした。
特に保有地での労働は、領主に納めた後の残りは自分の物に成る為、賦役に比べて労働意欲が高く、直営地に対して保有地側の生産性が高かったのは当然の成り行きでした。
更に生産性の向上に様々な工夫が為され、その中で特に有名ものが三圃制です。
これは耕地を三分し、春耕地、秋耕地、休閑地とし、3年で一巡する農法で、休閑地を設けて、そこでは家畜等を飼い、休ませる事と家畜の糞等で地力の回復を図ったのでした。
この三圃制は、二圃制(1年おきに休閑する)に代わって、10~11世紀頃から始まり、地力の低い地域では19世紀初頭迄続きました。
又、牛馬に犂(すき)を引かせる為に、各耕地は細長い地条に分けられていました。

 本来、封土であった荘園には、国王の官吏が立ち入り、裁判や課税等の行為を行いましたが、封建制(荘園制)の発展と共に、その権限が荘園領主の手に渡り、国王の官吏は荘園に立ち入る事自体出来なくなり、徴税も不可能に成りました。
之は、荘園領主が不輸不入権を手中に収め、その結果益々封建社会の分権化が進み、11~13世紀の封建制度の最盛期には、一般に権力が分散して分権化し、王権は極めて弱かった時代でもあったのです。

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岐路に立つ騎士

 封建社会の支配階級である王・諸侯・騎士の間には、キリスト教の発展と共に、騎士道と呼ばれる新しい道徳が生まれてきました。
日本の武士道に相当しますが、戦士としての騎士の性格から、武勇と忠誠を中心にキリスト教的な神への奉仕、弱者への保護、特に婦人への献身的な奉仕が強調されました。

ジョークは如何?

米国軍がイタリア本土に進行、イタリア軍と対峙していた
しかし敗戦濃厚のイタリア軍に戦意は無く
アメリカ軍もその気配を感じ、攻撃を控えていたという
ドイツ軍の観測機が通りかかったときは
ドイツ軍に来られたらたまらないと
ちゃんと戦っている風を装って
アメリカ軍へ発砲していた
アメリカ軍もやる気無く反撃
その戦いを観測機はこう見ていた
「すごい!イタリア軍が米軍の攻勢を食い止めている」

その後にドイツ軍が救援に現れ、激戦になってしまったという。

続く・・・

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