歴史を歩く93
15-2西ヨーロッパ封建社会の発展④

リンデスファーン修道院の廃墟:Wikipediaより
4教会の権威①
フランク王国と結びついて発展をとげてきたローマ・カトリック教会は、ノルマン人やマジャール人の侵入によって大打撃を受けました。
特に彼等の侵入を受けた地域では、多くの修道院が持つ富をねらう掠奪の格好の餌食となり、破壊されます。
しかし、その後の修道士達の布教活動によって10~11世紀にマジャール人やノルマン人もキリスト教化し、ローマ・カトリック教会は西ヨーロッパの全域にわたって精神的な権威を確立していったのです。

封建制度と教会の階層制度
この間、多くの領主が、来世での救済を願って土地を寄進した結果、教会や修道院は広大な所領(荘園)を所有するようになり、大司教や修道院長等は支配階級として、政治的にも大諸侯に匹敵する力を持つようになり、又封建社会の発展に伴い、ローマ・カトリック教会内にも、教皇を頂点とし大司教・司教・司祭と続く聖職者の階層制度が生まれ、修道院でも修道院長を頂点とする序列が出来ました。
教会や修道院が広大な荘園を持ち、そこから得られる税収入や、信者からの寄進、賽銭、供物等によって経済的に豊かになるにつれて、教会の世俗化、聖職者の腐敗、堕落が大きな問題となってきます。
当時のヨーロッパでは、いかなる建造物も、それが建てられている土地の所有者に帰属する、教会や修道院を管理する権限も、その土地の所有者に属すべきであるという考え方が存在していました。従って司教や修道院長の任命権(聖職者叙任権)や教会や修道院の財産管理権も世俗の支配者(国王や諸侯)が握っていたのです。
聖職者叙任権を世俗の支配者が握っていたことが教会や聖職者の腐敗、堕落の根本的な原因でした。
国王が領主として大司教等を任命する場合、聖書に対する学識よりも武勇や政治的な能力が重んじられました。
こうした世俗の支配者に任命された聖職者の生活は俗人と変わりなく、多くの聖職者達は妻帯しており、更に当時の聖職者は社会的な地位が高く、その上収入が良いため、大司教、司教の地位を金で買い取ることが行われ、聖職が財産の一部として扱われ、世襲も盛んに行われていました。
こうして金で聖職の地位を手に入れた聖職者の中には聖書もろくに読めない人も存在したと伝えられています。

クリュニー修道院
こうした聖職売買や聖職者の妻帯等の弊害を取り除こうとする教会粛正運動の中心となった組織がクリュニー修道院です。
クリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公が、その所領であるフランス東部のクリュニーに建設した修道院で、あらゆる世俗権力の支配から自由であること、修道院長の選挙は自由に行われること等の権利をフランス王、教皇の特許状で獲得し、ベネディクト戒律を厳格に励行し、典礼(祈り)と読書、研究等の知的活動に励みました。
「ベネディクトへ帰れ」を基本とし、厳格な修行に励むクリュニー修道院の名は、当時多くの教会や修道院が腐敗、堕落していた西ヨーロッパの宗教界に新風を吹き込み、その名声がヨーロッパ中に広まり、多くの人々がクリュニー修道院で学び、その中から多くの優れた人材が生み出されました。各地の国王や諸侯は資財を寄進して、クリュニーの支修道院をつくり、その会則を取り入れた結果、最盛期の12世紀初頭には約1500の分院を擁するヨーロッパ第1の修道会に発展したのです。

シトー修道院
このクリュニー修道院と並んで教会刷新運動の中心となったもう一つが、1098年にブルゴーニュに建設されたシトー修道院です。
シトー修道院もベネディクト戒律の厳格な実行と清貧、労働を重視し、クリュニー修道院では祈りや読書等の知的活動が重んじられ、労働に当てられる時間がほとんどなかったのに対し、シトー修道院では自等の労働で自等の生活を維持するための労働が重視されました。
彼等は荒野の開墾に従事し、開拓者の役割を果たし、経済的な面でも注目されたのです。
12世紀に全盛期を迎え、シトー派修道会は約1800の修道院を擁する一大修道会に成長しました。

開墾にはげむ修道士
クリュニー修道院出身で、後に教皇となったグレゴリウス7世(1020年頃~1085年、在位1073年~1085年)で、彼はイタリア、トスカナ地方の市民の家に生まれ、聖職者になり、後にクリュニー修道院に入って修行し、その影響を強く受けました。
教皇レオ9世に従って教皇庁に入り、6代20年間にわたって教皇を補佐し、教皇に選出されるとレオ9世以来の改革を徹底する、いわゆる「グレゴリウス改革」を断行しました。
まず聖職売買と聖職者の妻帯を禁止し、違反者を容赦なく追放しました。
最初の頃、聖職売買で追放された人物は金銭の授受によって聖職者となった者でしたが、聖職売買は聖職叙任権を世俗の支配者が握っている限りなくならないと考え、金銭の授受とは関係なく俗人によって任命は全て聖職売買であるとして、聖職の叙任を世俗人から受けることを禁止し、聖職叙任権は教皇に帰属すべきであることを主張しました(1075年)。
これは世俗勢力による支配と干渉から教会を解放することが目的でした。

ハインリヒ4世
このグレゴリウス7世の俗人による聖職者の叙任禁止が、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世(1050年~1106年、在位1056年~1106年)との衝突を引き起こします。
ジョークは如何?
太平洋戦争で日本が負け、ボツダム宣言を受諾した。
玉音放送を聞き、多くの日本人が涙したが会津では皆が快哉を叫んだ。
「薩長の政府が負けたぞ~~~!!」
続く・・・

リンデスファーン修道院の廃墟:Wikipediaより
4教会の権威①
フランク王国と結びついて発展をとげてきたローマ・カトリック教会は、ノルマン人やマジャール人の侵入によって大打撃を受けました。
特に彼等の侵入を受けた地域では、多くの修道院が持つ富をねらう掠奪の格好の餌食となり、破壊されます。
しかし、その後の修道士達の布教活動によって10~11世紀にマジャール人やノルマン人もキリスト教化し、ローマ・カトリック教会は西ヨーロッパの全域にわたって精神的な権威を確立していったのです。

封建制度と教会の階層制度
この間、多くの領主が、来世での救済を願って土地を寄進した結果、教会や修道院は広大な所領(荘園)を所有するようになり、大司教や修道院長等は支配階級として、政治的にも大諸侯に匹敵する力を持つようになり、又封建社会の発展に伴い、ローマ・カトリック教会内にも、教皇を頂点とし大司教・司教・司祭と続く聖職者の階層制度が生まれ、修道院でも修道院長を頂点とする序列が出来ました。
教会や修道院が広大な荘園を持ち、そこから得られる税収入や、信者からの寄進、賽銭、供物等によって経済的に豊かになるにつれて、教会の世俗化、聖職者の腐敗、堕落が大きな問題となってきます。
当時のヨーロッパでは、いかなる建造物も、それが建てられている土地の所有者に帰属する、教会や修道院を管理する権限も、その土地の所有者に属すべきであるという考え方が存在していました。従って司教や修道院長の任命権(聖職者叙任権)や教会や修道院の財産管理権も世俗の支配者(国王や諸侯)が握っていたのです。
聖職者叙任権を世俗の支配者が握っていたことが教会や聖職者の腐敗、堕落の根本的な原因でした。
国王が領主として大司教等を任命する場合、聖書に対する学識よりも武勇や政治的な能力が重んじられました。
こうした世俗の支配者に任命された聖職者の生活は俗人と変わりなく、多くの聖職者達は妻帯しており、更に当時の聖職者は社会的な地位が高く、その上収入が良いため、大司教、司教の地位を金で買い取ることが行われ、聖職が財産の一部として扱われ、世襲も盛んに行われていました。
こうして金で聖職の地位を手に入れた聖職者の中には聖書もろくに読めない人も存在したと伝えられています。

クリュニー修道院
こうした聖職売買や聖職者の妻帯等の弊害を取り除こうとする教会粛正運動の中心となった組織がクリュニー修道院です。
クリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公が、その所領であるフランス東部のクリュニーに建設した修道院で、あらゆる世俗権力の支配から自由であること、修道院長の選挙は自由に行われること等の権利をフランス王、教皇の特許状で獲得し、ベネディクト戒律を厳格に励行し、典礼(祈り)と読書、研究等の知的活動に励みました。
「ベネディクトへ帰れ」を基本とし、厳格な修行に励むクリュニー修道院の名は、当時多くの教会や修道院が腐敗、堕落していた西ヨーロッパの宗教界に新風を吹き込み、その名声がヨーロッパ中に広まり、多くの人々がクリュニー修道院で学び、その中から多くの優れた人材が生み出されました。各地の国王や諸侯は資財を寄進して、クリュニーの支修道院をつくり、その会則を取り入れた結果、最盛期の12世紀初頭には約1500の分院を擁するヨーロッパ第1の修道会に発展したのです。

シトー修道院
このクリュニー修道院と並んで教会刷新運動の中心となったもう一つが、1098年にブルゴーニュに建設されたシトー修道院です。
シトー修道院もベネディクト戒律の厳格な実行と清貧、労働を重視し、クリュニー修道院では祈りや読書等の知的活動が重んじられ、労働に当てられる時間がほとんどなかったのに対し、シトー修道院では自等の労働で自等の生活を維持するための労働が重視されました。
彼等は荒野の開墾に従事し、開拓者の役割を果たし、経済的な面でも注目されたのです。
12世紀に全盛期を迎え、シトー派修道会は約1800の修道院を擁する一大修道会に成長しました。

開墾にはげむ修道士
クリュニー修道院出身で、後に教皇となったグレゴリウス7世(1020年頃~1085年、在位1073年~1085年)で、彼はイタリア、トスカナ地方の市民の家に生まれ、聖職者になり、後にクリュニー修道院に入って修行し、その影響を強く受けました。
教皇レオ9世に従って教皇庁に入り、6代20年間にわたって教皇を補佐し、教皇に選出されるとレオ9世以来の改革を徹底する、いわゆる「グレゴリウス改革」を断行しました。
まず聖職売買と聖職者の妻帯を禁止し、違反者を容赦なく追放しました。
最初の頃、聖職売買で追放された人物は金銭の授受によって聖職者となった者でしたが、聖職売買は聖職叙任権を世俗の支配者が握っている限りなくならないと考え、金銭の授受とは関係なく俗人によって任命は全て聖職売買であるとして、聖職の叙任を世俗人から受けることを禁止し、聖職叙任権は教皇に帰属すべきであることを主張しました(1075年)。
これは世俗勢力による支配と干渉から教会を解放することが目的でした。

ハインリヒ4世
このグレゴリウス7世の俗人による聖職者の叙任禁止が、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世(1050年~1106年、在位1056年~1106年)との衝突を引き起こします。
ジョークは如何?
太平洋戦争で日本が負け、ボツダム宣言を受諾した。
玉音放送を聞き、多くの日本人が涙したが会津では皆が快哉を叫んだ。
「薩長の政府が負けたぞ~~~!!」
続く・・・
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