歴史を歩く95
15-3東ヨーロッパ世界①

1ビザンツ帝国①

ユスティニアヌス1世
ゲルマン民族の大移動の開始(375年)から、20年後のテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂しました。
その後の混乱の中で、西ローマ帝国が滅亡(476年)した後も、東ローマ帝国はコンスタンティノープル(現イスタンブール)を都として、1000年以上も存続したのです。
西ローマ帝国滅亡後は、東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝として、西ヨーロッパのゲルマン諸王に権威を認められていましたが、この間ドナウ川はもはや防衛戦でなくなり、ビザンツ帝国はドナウ川の南に移住したゲルマン諸族や、ドナウ川の北に進入したフン族、スラヴ族、ブルガール人、そして東方からはササン朝ペルシアの侵入に絶えず脅かされていました。
また国内では、カルケドン公会議(451年)で異端とされた単性論(イエスは神と人の2つの性質を持つ正統アタナシウス派の主張を認めず、イエスには神としての単一の性質しかない)が、シリア、エジプトの教会で主流を占め、これ等の地域は東ローマ帝国から離反する傾向が強くなりました。
この様な時期、マケドニアの農家に生まれ、マケドニアの将軍で後に皇帝となった叔父のユスティヌス1世(在位518年~527年)の養子となり、その死後、帝位に就いた人物が有名なユスティニアヌス1世(483年~565年、在位527年~565年)です。

ホスロー1世
彼は、国内では「ニケ(ニカ)の反乱」(532年にコンスタンティノープルで起こった反乱、蜂起した民衆の”ニカ(勝利)という叫び声によってこう呼ばれる)を鎮圧し、対外的にはホスロー1世(在位531年~579年)の即位後激しくなったササン朝ペルシアの侵入を、将軍ベリサリウス(494年頃~565年)等の活躍によって撃退し、休戦条約を結びましだ(533年、545年)。

ベリサリウス
この間、西方では「地中海帝国(ローマ帝国)の復活」をめざし、北アフリカのヴァンダル王国で親ローマ的な皇帝が廃されたことを口実に、将軍ベリサリウスにヴァンダル征討を命じ、ベリサリウスは、ヴァンダル王国を滅ぼし(534年)、更にシチリア島、ナポリを占領してローマに入城(536年)、一時東ゴート王国を制圧しますが、東ゴート王国は更に抵抗を続け、ベリサリウスがペルシアと戦っている間に勢力を取り戻し、イタリア全土を回復します。
ベリサリウスに代わって東ローマの将軍となったナルセス(478年頃~568年)は、3万の軍を率いてイタリアに遠征し、終に東ゴート王国を滅ぼします(555年)。
更にその間、西ゴート王国とも戦い、ヒスパニア(スペイン)南部を領有しました。
この「ユスティニアヌスの再征服」によって、今や東ローマ帝国の領土は、バルカン半島・小アジア・シリア・エジプト・北アフリカ・イタリア・シチリア・スペイン南部に迄及び、地中海は再び「ローマの湖」と成りました。
「再征服」と並んでユスティニアヌス帝の名を不朽にしているものが「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」編纂事業(529年~534年)です。
彼は、ローマ人が後世に残した最大の文化遺産と云われるローマ法の研究を奨励し、トリボニアヌス(?~546年)ら10名の法学者に命じ、ローマ法の大編纂事業を行わせました。

ハドリアヌス帝
「ローマ法大全」は、ハドリアヌス帝(在位117年~138年)以後に発布された皇帝立法を集めた「勅法集(ユスティニアヌス法典)」、法学者の学説を集めた「学説集」と、この2つの抜粋である「法学提要」の三部から成り立っており、534年に完成しました。
現在のヨーロッパ各国の法はローマ法の影響を受けています。
その影響はドイツ、フランスの法を通じて明治時代の日本の法にも及んでおり、その意味でも、「ローマ法大全」の歴史的意義は計り知れないほど大きいなものです。

ソフィア大聖堂
又ユスティニアヌス帝は、大土木事業を盛んに行いましたが、その最大の事業がセント・ソフィア大聖堂です。
セント・ソフィア大聖堂は、コンスタンティヌス大帝によって建立されますが後に焼失し、これを再建した建造物がユスティニアヌス帝のセント・ソフィア大聖堂で、高さ56メートルのドーム(円屋根)と美しいモザイク壁画で飾られたビザンツ式建築の代表的建築物として有名です。
ユスティニアヌス帝は、このセント・ソフィア大聖堂の建立によって、東ローマ皇帝が政教両界の最高支配者であることを示しました。
この皇帝が同時に教会の首長であるという東ローマ帝国の政治理念は皇帝教皇主義と呼ばれますが、彼の宗教政策は、東方のシリア、エジプトで盛んであった単性論と西方のローマ教皇の間に立って一定せず、帝国内を一つの信仰で統一することは出来ませんでした。
更にユスティニアヌスの時代に、中国から中央アジアを経由して蚕と養蚕の技術が伝来し、以後絹織物業は東ローマ帝国の代表的な産業に成長していきます。
ジョークは如何?
日露戦争の時、露西亜の教会は日本に天罰が下る様に祈った。
だが露西亜は負けた。
19年後に関東大震災が起きた。
結論。
神は我々から九光年半以内にいる。
続く・・・

1ビザンツ帝国①

ユスティニアヌス1世
ゲルマン民族の大移動の開始(375年)から、20年後のテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂しました。
その後の混乱の中で、西ローマ帝国が滅亡(476年)した後も、東ローマ帝国はコンスタンティノープル(現イスタンブール)を都として、1000年以上も存続したのです。
西ローマ帝国滅亡後は、東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝として、西ヨーロッパのゲルマン諸王に権威を認められていましたが、この間ドナウ川はもはや防衛戦でなくなり、ビザンツ帝国はドナウ川の南に移住したゲルマン諸族や、ドナウ川の北に進入したフン族、スラヴ族、ブルガール人、そして東方からはササン朝ペルシアの侵入に絶えず脅かされていました。
また国内では、カルケドン公会議(451年)で異端とされた単性論(イエスは神と人の2つの性質を持つ正統アタナシウス派の主張を認めず、イエスには神としての単一の性質しかない)が、シリア、エジプトの教会で主流を占め、これ等の地域は東ローマ帝国から離反する傾向が強くなりました。
この様な時期、マケドニアの農家に生まれ、マケドニアの将軍で後に皇帝となった叔父のユスティヌス1世(在位518年~527年)の養子となり、その死後、帝位に就いた人物が有名なユスティニアヌス1世(483年~565年、在位527年~565年)です。

ホスロー1世
彼は、国内では「ニケ(ニカ)の反乱」(532年にコンスタンティノープルで起こった反乱、蜂起した民衆の”ニカ(勝利)という叫び声によってこう呼ばれる)を鎮圧し、対外的にはホスロー1世(在位531年~579年)の即位後激しくなったササン朝ペルシアの侵入を、将軍ベリサリウス(494年頃~565年)等の活躍によって撃退し、休戦条約を結びましだ(533年、545年)。

ベリサリウス
この間、西方では「地中海帝国(ローマ帝国)の復活」をめざし、北アフリカのヴァンダル王国で親ローマ的な皇帝が廃されたことを口実に、将軍ベリサリウスにヴァンダル征討を命じ、ベリサリウスは、ヴァンダル王国を滅ぼし(534年)、更にシチリア島、ナポリを占領してローマに入城(536年)、一時東ゴート王国を制圧しますが、東ゴート王国は更に抵抗を続け、ベリサリウスがペルシアと戦っている間に勢力を取り戻し、イタリア全土を回復します。
ベリサリウスに代わって東ローマの将軍となったナルセス(478年頃~568年)は、3万の軍を率いてイタリアに遠征し、終に東ゴート王国を滅ぼします(555年)。
更にその間、西ゴート王国とも戦い、ヒスパニア(スペイン)南部を領有しました。
この「ユスティニアヌスの再征服」によって、今や東ローマ帝国の領土は、バルカン半島・小アジア・シリア・エジプト・北アフリカ・イタリア・シチリア・スペイン南部に迄及び、地中海は再び「ローマの湖」と成りました。
「再征服」と並んでユスティニアヌス帝の名を不朽にしているものが「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」編纂事業(529年~534年)です。
彼は、ローマ人が後世に残した最大の文化遺産と云われるローマ法の研究を奨励し、トリボニアヌス(?~546年)ら10名の法学者に命じ、ローマ法の大編纂事業を行わせました。

ハドリアヌス帝
「ローマ法大全」は、ハドリアヌス帝(在位117年~138年)以後に発布された皇帝立法を集めた「勅法集(ユスティニアヌス法典)」、法学者の学説を集めた「学説集」と、この2つの抜粋である「法学提要」の三部から成り立っており、534年に完成しました。
現在のヨーロッパ各国の法はローマ法の影響を受けています。
その影響はドイツ、フランスの法を通じて明治時代の日本の法にも及んでおり、その意味でも、「ローマ法大全」の歴史的意義は計り知れないほど大きいなものです。

ソフィア大聖堂
又ユスティニアヌス帝は、大土木事業を盛んに行いましたが、その最大の事業がセント・ソフィア大聖堂です。
セント・ソフィア大聖堂は、コンスタンティヌス大帝によって建立されますが後に焼失し、これを再建した建造物がユスティニアヌス帝のセント・ソフィア大聖堂で、高さ56メートルのドーム(円屋根)と美しいモザイク壁画で飾られたビザンツ式建築の代表的建築物として有名です。
ユスティニアヌス帝は、このセント・ソフィア大聖堂の建立によって、東ローマ皇帝が政教両界の最高支配者であることを示しました。
この皇帝が同時に教会の首長であるという東ローマ帝国の政治理念は皇帝教皇主義と呼ばれますが、彼の宗教政策は、東方のシリア、エジプトで盛んであった単性論と西方のローマ教皇の間に立って一定せず、帝国内を一つの信仰で統一することは出来ませんでした。
更にユスティニアヌスの時代に、中国から中央アジアを経由して蚕と養蚕の技術が伝来し、以後絹織物業は東ローマ帝国の代表的な産業に成長していきます。
ジョークは如何?
日露戦争の時、露西亜の教会は日本に天罰が下る様に祈った。
だが露西亜は負けた。
19年後に関東大震災が起きた。
結論。
神は我々から九光年半以内にいる。
続く・・・
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