2015/04/07

歴史を歩く96

15-3東ヨーロッパ世界②

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末期のビザンツ帝国

1ビザンツ帝国②

 この様に、東ローマ帝国はユスティニアヌス帝の時に最盛期を迎えましたが、彼の死(565年)から3年後にロンバルド族が北イタリアに侵入し、又東方はササン朝ペルシアの脅威に曝され、北方からはアヴァール人やスラヴ諸族の侵入に脅かされました。

 アフリカ総督の子、ヘラクレイオス1世(在位610年~641年)が、ユスティニアヌス帝の死後の混乱を収拾し、クーデターによって帝位につき、ヘラクレイオス朝を開闢します。

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ビザンツとイスラム勢力との戦い

しかし、名君と称えられたヘラクレイオス1世の時代でも首都コンスタンティノープルの周辺と小アジアを確保する事が精一杯で、ササン朝ペルシアによってエジプト、シリアを奪われ(611年~616年)、アヴァール人の侵入にも苦しみますが、やがて反撃に転じ、エジプト、シリアを奪回(623年~627年)、アヴァール人の撃退に成功します(626年)。
晩年にはササン朝ペルシアに代わって台頭してきたイスラム教徒によって、シリア(635年)、次いでエジプト(642年)を失います。

 この様な対外的危機にあたって、国境防衛の為に、軍管区制(テマとも呼ばれる)と屯田兵制を施行しました。
軍管区制は、帝国全領域を幾つかの軍管区に分け、屯田兵を置き、軍団司令官に駐屯地の民政を兼ねさせる制度です。
屯田兵制は、軍管区制の下で、司令官の指揮下に兵士に土地を与え、代わりに兵役を課した制度です。軍管区制は、625年頃ヘラクレイオス1世によって確立され、11世紀頃迄行われました。

 東ローマ帝国は、首都コンスタンティノープルが古くはビザンティウムと呼ばれていた事から、ビザンツ帝国とも呼ばれます。
ギリシア的、ヘレニズム的な東方地域を中心とした東ローマ帝国は、西ヨーロッパがフランクの発展と共に一つのまとまった世界を形成していく中で、西ヨーロッパとは異なる独自の世界を形成していました。

このビザンツ的な独自の世界が形成されていく時代が、7世紀のヘラクレイオス1世以後のことであるとされています。

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コンスタンティノープル包囲

 シリア、エジプトを征服し、ササン朝ペルシアを滅亡に追い込んだイスラム教徒は、ビザンツ帝国艦隊を撃破し(655年)、コンスタンティノープルを包囲しました(673年~678年)。
しかし、軍管区制等の国政改革が実を結びつつあったビザンツ帝国は「ギリシアの火」(一種の火薬、硝石、硫黄、松脂を混合した発火性物質で、水では消化不可能)を使ってイスラム軍を苦しめ、撃破しますが、イスラム教徒は717年に再度コンスタンティノープルを包囲します。

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レオン3世

 ビザンツ帝国は、この年に即位したレオン3世(675年頃~741年、在位717年~741年)の基で1年間の包囲に耐え、終にこれを撃退します。

 レオン3世は、北シリアの下層民の家に生まれ、後に軍隊に入って軍管区の司令官に迄昇進し、軍隊に推されて、テオドシウス3世を廃して即位、イサウロス朝を創始しました。
前述のイスラム教徒によるコンスタンティノープルの包囲に耐えて、これを撃退しました。
そして偶像を否定するイスラム教徒に刺激され、国内の富裕化した教会、修道院を抑える為に、726年に「聖像禁止令」を発布します。
この聖像禁止令がローマ教会を巻き込んで、聖像崇拝の大論争に発展し、後に東西教会に分裂する(1054年)きっかけになったことは前述の通りです。

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異民族を服従させるバシレイオス1世

 イサウロス朝に代わった、バシレイオス1世(在位867年~886年)によって創始されたマケドニア朝(867年~1057年)の時代はビザンツ帝国中期の最盛期です。
特にバシレイオス2世(在位963年~1025年)の時には、クレタ島を占領して東地中海の海上権を握って経済的に繁栄し、更にブルガリアを滅ぼしてこれを併合し、南イタリアも一時奪回し、ユスティニアヌス帝以来最大の領土を誇ったのです。

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ウラディミル1世

 キエフ公国のウラディミル1世の改宗(989年)によって、ロシアの地にギリシア正教を中心とするビザンツ文化が伝播するのもこの時代です。
 
 しかし、11世紀中頃からセルジューク朝の侵入を受け、小アジアの殆どを失います。

 マケドニア朝断絶後の混乱を鎮圧して即位したアレクシオス1世(在位1081年~1118年)は、プロノイア制によって軍隊の再建を図りました。
プロノイア制は、11世紀頃から行われた土地制度で、奉仕、勤務の代償に、皇帝が地方領主に国有地の官吏、監督を任せる制度でしたが、13世紀以降世襲化され、社会の封建化を促進し、帝国解体の要因と成りました。

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第1回十字軍

 アレクシオス1世は、セルジューク朝の脅威を訴える書簡をローマ教皇ウルバヌス2世に送り、西ヨーロッパに救援を要請し、これに応えて、1096年に第1回十字軍が派遣されることに成ります。
しかし、13世紀初頭に行われた第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領されます。
フランドル伯ボードアン1世(在位1204年~05年)によるラテン帝国(1204年~61年)が建設され、ビザンツ帝国は一時崩壊しました。

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第4回十字軍

 この時、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世(在位1204年~22年)は、小アジアの北西部ニケーアを中心にニケーア帝国(1204年~61年)を建国し、セルジューク朝やラテン帝国に対抗します。
ニケーア帝国5代目皇帝ミカエル8世はコンスタンティノープルを奪回して、ビザンツ帝国を再建しました(1261年)。

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メフメト2世

 しかし、その後のビザンツ帝国は、帝位争いや傭兵反乱、オスマン・トルコ帝国の圧迫によって国力は全く振るわず、15世紀に入ると領土はコンスタンティノープルの周辺、ギリシアの一部、クレタ島、黒海南岸の一部に僅かに残るのみとなり、メフメト2世にコンスタンティノープルを占領され、1000年以上続いたビザンツ帝国は、1453年についに滅亡しました。

 ビザンツ文化は、ギリシア文化を継承、保存し、周辺のスラヴ人の開化や後の西ヨーロッパルネサンスに大きな影響を及ぼしました。

 西ヨーロッパ世界の文化が、ローマ文化とローマ・カトリック教会を基調としているのに対し、東ヨーロッパ世界の文化(ビザンツ文化)は、ギリシア文化とギリシア正教を基調としています。

 ビザンツ帝国の領域では、ヘレニズム時代以後コイネーと呼ばれるギリシア語が使用されてきましたが、6世紀頃からはギリシア語はビザンツ帝国の公用語として使用されるように成りました。

アヤソフィア
現在のセント・ソフィア大聖堂の夜景

 美術の分野では、独自のビザンツ式が栄え、ビザンツ式は、ドーム(円屋根)とモザイク壁画を特徴とする教会建築の様式で、ユスティニアヌス帝がコンスタンティノープルに建立したセント・ソフィア大聖堂がその代表です。
セント・ソフィア大聖堂は、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国の占領後、イスラム教のモスク(寺院)に改装され、今日に至っています。
その他、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂やヴェネツィアのサン・マルコ聖堂も有名です。

 ビザンツ文化の中で後世に最も大きな影響を及ぼしたものがユスティニアヌス帝が編纂させた「ローマ法大全」です。

 ビザンツ帝国によって継承され、発展したギリシア古典文化は、ビザンツ帝国の滅亡前後からビザンツの学者達によってイタリアにもたらされ、西ヨーロッパのルネサンスに大きな影響を及ぼしたこともよく知られています。

ジョークは如何?

昔ロシアである男が兵役を逃れようと必死で言い訳をしていた。
「私は結核なのです。」
「ボロシロフ将軍は結核だが立派な軍人だぞ。」
「私の目は片方見えないのです。」
「イワノフ将軍を見ろ。片目だが軍人の鑑だ。」
「私は精神薄弱なんです。」
「バカをいえ。皇帝様をそれでも職務を果たしておられるぞ。」


続く・・・
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