2015/04/13

歴史を歩く97

15-3東ヨーロッパ世界③

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ヨーロッパの民族移動

2スラヴ民族の自立

 インド・ヨーロッパ語族に属するスラヴ民族は、6世紀頃、原住地のカルパティア山脈一帯から、ゲルマン民族が移動した後の東ヨーロッパ各地に、東スラヴ族、西スラヴ族、南スラヴ族に分かれて移住、定住しました。

 このうち西方に拡大したポーランド人、チェック人、スロヴァク(スロヴァキア)人等の西スラヴ族は、ゲルマン民族の移動で空白となったドイツに隣接する地域に移住した為、西ヨーロッパの影響を受け、ローマ・カトリックを信仰しました。

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改宗

 ポーランドでは、10世紀にポラーニ人(農耕の人々の意)を中心に統一され、ピアスト朝(960年~1370年頃)が成立し、ピアスト朝は、神聖ローマ帝国に接近し、ポーランド人はローマ・カトリックに改宗します(966年)。

 13世紀に入ると、モンゴル人の侵入とドイツ人の東方植民による進出に苦しめられ、特にポーランドのリーグニッツの東南で、ドイツ・ポーランド連合軍がバトゥの率いるモンゴル軍に大敗したワールシュタットの戦い(1241年)は有名です。

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カジミェシュ3世(カシミール大王)

 しかし、14世紀に入るとカジミェシュ(カシミール)大王(在位1333年~70年)の下で王権が伸張し、ポーランドは大いに繁栄しましたが、彼の死によってピアスト朝は断絶してしまいます。

 この頃、バルト海東南岸に居住していたバルト系リトアニア人は、ドイツ騎士団の進出に対抗して統一国家を形成し、14世紀には大公国となりました。

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リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー)

 リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー)(1351年~1434年、在位1386年~1434年)は、ポーランド女王と結婚し(1386年)、ポーランド王とリトアニア大公を兼ね、ヤゲウォ(ヤゲロー)朝(1386年~1572年)を創設します。
彼はドイツ騎士団を破り、リトアニア・ポーランド王国の全盛期を築き、リトアニア・ポーランド王国は東欧の強国として繁栄しました。

 同じ西スラヴ族のチェック人とスロヴァク(スロヴァキア)人は、6世紀頃現在のチェコ共和国とスロヴァキア共和国地方に定着しました。
チェック人とスロヴァク(スロヴァキア)人は、東欧革命後の1993年に、現在のチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離独立する迄チェコ・スロヴァキア連邦を形成していたことは記憶に新しいと思います。

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ベーメン(ボヘミア)王国国章

 10世紀初頭にチェック人を中心にベーメン(ボヘミア)王国が建てられましたが、11世紀には神聖ローマ帝国に編入されます。
チェック人は、7世紀頃にローマ・カトリックに改宗しています。

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ヤノ・フス

 14世紀末にプラハ大学神学教授となり、後に同大学の学長となったボヘミアのフス(1370年頃~1415年)は、イギリスのウィクリフ説に共鳴し、ローマ教会を攻撃した為に、当時開かれていたコンスタンツの公会議で異端とされ、火刑に処せられます(1415年)。

 フスの処刑後、神聖ローマ皇帝ジギスムントがプラハ市とプラハ大学に対して迫害を加えると、チェック人はフス説の承認を求めて反乱を起こし、この反乱はフス戦争(1419年~36年)と呼ばれますが、宗教上の争いであると同時に、チェック人のドイツ人の支配に対する反乱でもあったのです。

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フスの火刑

 一方、スロヴァク人は、10世紀以来マジャール(ハンガリー)人の支配下に置かれていました。

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コソボの戦い(1389年)

 南スラヴ族のセルビア人は、6世紀にバルカン半島を南下して、半島の南西部に定着しましたが、東ローマ帝国の支配下に入り、9世紀頃迄にギリシア正教に改宗し、ビザンツ文化を吸収します。

 12世紀中頃、東ローマ帝国から独立、14世紀前半にはバルカン北部を統合して大セルビア王国を形成して最盛期を迎えますが、コソボの戦い(1389年)に大敗し、以後オスマン・トルコ帝国の支配下に置かれました。

 同じ南スラヴ族のクロアティア人は、9世紀頃ローマ・カトリックに改宗し、10世紀には東ローマ帝国から独立して侯国を形成しましたが、12世紀以後はハンガリーに従属しました。

 同じく南スラヴ族のスロヴェニア人もローマ・カトリックに改宗し、14世紀以降はオーストリアのハプスブルグ家の支配下に置かれます。

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正教に改宗したボリス1世

 アジア系のブルガール人は、7世紀末にバルカン半島東南部に侵入し、東ローマ皇帝の許可を得て自立し、9世紀にギリシア正教に改宗した。9世紀末にマケドニア、アルバニア、セルビアを征服し、第1次ブルガリア王国(893年~1018年)を建国し、10世紀前半に最盛期を迎えましたが、内紛で衰え、東ローマ帝国に併合されます。

 12世紀末に再び独立を果たし、第2次ブルガリア王国(1187年~1393年)が建国されますが、14世紀末にオスマン・トルコ帝国に敗れ、以後その支配下に置かれ、この間ブルガール人は先住の南スラヴ族に同化されて行きました。

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リューリク(ルーリック)

 ロシア人、ウクライナ人等の東スラヴ族が定着したロシアの地には、リューリク(ルーリック)(?~879年)に率いられたノルマン人(ヴァイキング)の一派が、9世紀にノヴゴロド国、次いでキエフ公国を形成します。

 スラヴ人が住む地域に入ったノルマン人をスラヴ人はルーシ(ルス、Rus)と呼びました。
Russiaの名はRus’由来すると言われています。
しかし、ルーシはまもなく同化され、スラヴ化して行きました。

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ノヴゴロド:ロシア1000年記念碑銅像(八端十字架を掲げる ウラジーミル1世)

 キエフ公国(9~13世紀)は、ウラディミル1世(在位980年~1015年)の治世に最盛期を迎えました。
ウラディミル1世は、周辺の東スラヴ諸族を討って領土を拡大し、土着勢力に代わってルーシ族を各地に封じ、農民から移動の自由等を奪い、農奴制を強化していきます。

 ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹アンナと結婚し(988年)、ギリシア正教に改宗し、国教とした上、ビザンツ文化を盛んに受け入れ、文化面で後進地域であったロシアの面目を一新しました。

 その後もキエフ公国は、ヤロスラフ1世(在位1019年~54年)の時代にかけて繁栄しましたが、その死後は、領土の分割相続をめぐって内紛が続き、国内は多くの諸侯が分立して封建化、農民の農奴化が進み、更に周辺遊牧民の侵入も重なって国力は衰退します。

 こうした状況のなかで、13世紀にバトゥ(チンギス・ハンの孫)の率いるモンゴルの侵入を受け、キエフを占領され(1240年)、キエフ公以下の諸侯はこれに従属し、ロシアの地は以後250年にわたってモンゴルの支配に服することと成りました。

 しかし、14世紀頃からモスクワ大公国が強力となり、モスクワ大公イヴァン3世(在位1462年~1505年)の治世にモンゴルの支配から完全に自立して行きます(1480年)。

ジョークは如何?

ナチ党の管区指導者の来校が予告された。党の地区のリーダーは、教師たちにたいして、あらかじめ生徒たちに発言の仕方を教えて
おくようにと指示した。そのとおり忠実に教師は生徒たちに説明した。
「あす管区指導者が来られて、君たちのお父さんは誰か、と尋ねられたら、『私たちの総統』と答えなさい。また、君たちのお母さ
んについて聞かれたら『ナチス運動』と答えなさい。分かりましたか?」
子どもたちはうなずいた。

さて翌日、管区指導者がやって来た。彼は最初の生徒にむかって質問した。
「君のお父さんは誰かね?」
「私たちの総統です。」
「君のお母さんは誰かね?」
「ナチス運動です」
「君は将来、何になりたいかね?」

「みなし児です!」

続く・・・

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