歴史を歩く98
15-4十字軍と都市の発達①

十字軍騎士
1十字軍とその影響①
西ヨーロッパ世界は、中世を通じて絶えず外部からの圧迫、侵入に苦しめられてきました。
特に8~9世紀以来、イスラム勢力やアジア系マジャール人、そしてヴァイキングの侵入が相次ぎ、西ヨーロッパは守勢を余儀なくされ、ひたすらその圧迫に耐えてきました。
しかし、封建社会が安定し、 さらに発展するなかで力を蓄えてきた西ヨーロッパ世界はそれまでの守勢から反撃に転ずるように成ります。

レコンキスタの変遷
イスラム教徒の支配下に置かれていたイベリア半島では、キリスト教徒によるイスラム勢力をイベリア半島から 駆逐する運動、すなわち国土回復運動(再征服、レコンキスタ)が早くから起こっており、又ドイツ人によるエルベ川以東のスラヴ人居住地への植民活動(東方植民)も12世紀以後盛んに成ります。
こうした西ヨーロッパ世界が、外への発展を示す最大の活動が有名な十字軍です。
当時、イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジューク朝が急速に発展し、バグダードに入城し(1055年)、イスラム世界における政治、軍事の実権を握るとともに更に西進し、ビザンツ帝国軍を撃破し(1071年マンジケルトの戦い)、海岸地帯の一部を除く全小アジアを占領してビザンツ帝国を東方から圧迫しました。
このためビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援を求めます(1095年)。

ウルバヌス2世
フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(在位1088年~99年)は、フランス東部のクレルモンで公会議を開き有名な演説を行いました。
ビザンツ帝国がしばしば救援を求めており、聖地イェルサレムでの巡礼者が悲惨な状況にあることを語った後、「西方のキリスト教徒よ、高きも低きも、富める者も貧しき者も、東方のキリスト教徒の救援に進め。神は我らを導き給うであろう。神の正義のための戦いに倒れた者には罪の赦しが与えられよう。この地では人々は貧しく惨めだが、彼の地では富み、喜び、神のまことの友となろう。いまやためらってはならない。神の導きのもとに、来るべき夏こそ出陣の時と定めよ」と聖地イェルサレム回復のためにイスラム教徒に対する聖戦を起こすことを提唱しました。
この演説に感激した聴衆は「神、それを欲し給う」と叫び、演説はしばしば中断されたと言われています。

十字軍の結成
こうして翌1096年に多数の諸侯、騎士から成る第1回十字軍が出発し、以後約200年間にわたって前後7回の十字軍が派遣されることと成ります。
十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がイスラム教徒から聖地イェルサレムを奪回するために起こした遠征ですが、イェルサレムがイスラム教徒の手に落ちたのは7世紀のことで、350年も前のことであり、何故この時期に十字軍が行われたのか、当時のヨーロッパの内部要因としては次のようなことがあげられます。
(1)封建社会が安定し、三圃制や11~12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く 耕す農法の普及など農業技術の進歩とともに農業生産力が高まり、人口が増大するなど、西ヨーロッパ世界内部の 力が充実し、対外的発展の機運が生まれてきました。
(2)ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当時のヨーロッパの人々は熱心なカトリック信者と なり、宗教的な熱情が高まっており、是等が背景にないと十字軍という最も中世らしい出来事は起こり得ませんでした。
(3)教皇の権威が著しく高まっていたことも大きな理由です。
このことは有名なカノッサの屈辱(1077年)が、十字軍が始まる 20年程前の出来事で在り、教皇は十字軍を利用して東西教会を統一しようとしていました。
(4)諸侯、騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていたことから、ヨーロッパの外部で領地や戦利品を獲得して領主になろうとする者も居た事実が在ります。
(5)当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかり、香辛料をはじめとする 東方の商品を獲得して利益を得ようと画策していました。
(6)農民達は十字軍に参加することによって、負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放されることを望んでいました。

十字軍とユダヤ商人
十字軍はこのような様々な要因、人々の利害が複雑に絡み合っていた結果、経過とともに宗教的な要因が薄れ、 経済的な要因によって動かされるように成りました。
ウルバヌス2世の演説は大きな反響を引き起こし、この様な状況のなかで隠者ピエール(1050年~1115年)と呼ばれた北フランス生まれの修道士・説教士は、各地で十字軍への参加を呼びかける熱烈な説教を行いました。
彼の元には数万の熱狂者が集まり、ピエールはこの群衆を率いて、バルカン半島を南下し、コンスタンティノープル から小アジアに進出しますが、トルコ軍に殲滅されます。
第1回十字軍に先立つこの十字軍は民衆十字軍(1096年~97年)と呼ばれており、民衆十字軍の失敗は、聖地の回復には烏合の衆でなく、武力を持った軍隊が必要であることを実証したのです。
ジョークは如何?
チャーチルとスターリンの会話。
チャーチル「ローマ法王は全世界のカトリック教徒に絶大な影響力を持っている。そしてローマ法王は、、、、、」
話を続けようとするチャーチルにスターリンが一言。
スターリン「そのローマ法王とやらは、戦車師団をいくつ持っているのかね?」
続く・・・

十字軍騎士
1十字軍とその影響①
西ヨーロッパ世界は、中世を通じて絶えず外部からの圧迫、侵入に苦しめられてきました。
特に8~9世紀以来、イスラム勢力やアジア系マジャール人、そしてヴァイキングの侵入が相次ぎ、西ヨーロッパは守勢を余儀なくされ、ひたすらその圧迫に耐えてきました。
しかし、封建社会が安定し、 さらに発展するなかで力を蓄えてきた西ヨーロッパ世界はそれまでの守勢から反撃に転ずるように成ります。

レコンキスタの変遷
イスラム教徒の支配下に置かれていたイベリア半島では、キリスト教徒によるイスラム勢力をイベリア半島から 駆逐する運動、すなわち国土回復運動(再征服、レコンキスタ)が早くから起こっており、又ドイツ人によるエルベ川以東のスラヴ人居住地への植民活動(東方植民)も12世紀以後盛んに成ります。
こうした西ヨーロッパ世界が、外への発展を示す最大の活動が有名な十字軍です。
当時、イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジューク朝が急速に発展し、バグダードに入城し(1055年)、イスラム世界における政治、軍事の実権を握るとともに更に西進し、ビザンツ帝国軍を撃破し(1071年マンジケルトの戦い)、海岸地帯の一部を除く全小アジアを占領してビザンツ帝国を東方から圧迫しました。
このためビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援を求めます(1095年)。

ウルバヌス2世
フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(在位1088年~99年)は、フランス東部のクレルモンで公会議を開き有名な演説を行いました。
ビザンツ帝国がしばしば救援を求めており、聖地イェルサレムでの巡礼者が悲惨な状況にあることを語った後、「西方のキリスト教徒よ、高きも低きも、富める者も貧しき者も、東方のキリスト教徒の救援に進め。神は我らを導き給うであろう。神の正義のための戦いに倒れた者には罪の赦しが与えられよう。この地では人々は貧しく惨めだが、彼の地では富み、喜び、神のまことの友となろう。いまやためらってはならない。神の導きのもとに、来るべき夏こそ出陣の時と定めよ」と聖地イェルサレム回復のためにイスラム教徒に対する聖戦を起こすことを提唱しました。
この演説に感激した聴衆は「神、それを欲し給う」と叫び、演説はしばしば中断されたと言われています。

十字軍の結成
こうして翌1096年に多数の諸侯、騎士から成る第1回十字軍が出発し、以後約200年間にわたって前後7回の十字軍が派遣されることと成ります。
十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がイスラム教徒から聖地イェルサレムを奪回するために起こした遠征ですが、イェルサレムがイスラム教徒の手に落ちたのは7世紀のことで、350年も前のことであり、何故この時期に十字軍が行われたのか、当時のヨーロッパの内部要因としては次のようなことがあげられます。
(1)封建社会が安定し、三圃制や11~12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く 耕す農法の普及など農業技術の進歩とともに農業生産力が高まり、人口が増大するなど、西ヨーロッパ世界内部の 力が充実し、対外的発展の機運が生まれてきました。
(2)ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当時のヨーロッパの人々は熱心なカトリック信者と なり、宗教的な熱情が高まっており、是等が背景にないと十字軍という最も中世らしい出来事は起こり得ませんでした。
(3)教皇の権威が著しく高まっていたことも大きな理由です。
このことは有名なカノッサの屈辱(1077年)が、十字軍が始まる 20年程前の出来事で在り、教皇は十字軍を利用して東西教会を統一しようとしていました。
(4)諸侯、騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていたことから、ヨーロッパの外部で領地や戦利品を獲得して領主になろうとする者も居た事実が在ります。
(5)当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかり、香辛料をはじめとする 東方の商品を獲得して利益を得ようと画策していました。
(6)農民達は十字軍に参加することによって、負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放されることを望んでいました。

十字軍とユダヤ商人
十字軍はこのような様々な要因、人々の利害が複雑に絡み合っていた結果、経過とともに宗教的な要因が薄れ、 経済的な要因によって動かされるように成りました。
ウルバヌス2世の演説は大きな反響を引き起こし、この様な状況のなかで隠者ピエール(1050年~1115年)と呼ばれた北フランス生まれの修道士・説教士は、各地で十字軍への参加を呼びかける熱烈な説教を行いました。
彼の元には数万の熱狂者が集まり、ピエールはこの群衆を率いて、バルカン半島を南下し、コンスタンティノープル から小アジアに進出しますが、トルコ軍に殲滅されます。
第1回十字軍に先立つこの十字軍は民衆十字軍(1096年~97年)と呼ばれており、民衆十字軍の失敗は、聖地の回復には烏合の衆でなく、武力を持った軍隊が必要であることを実証したのです。
ジョークは如何?
チャーチルとスターリンの会話。
チャーチル「ローマ法王は全世界のカトリック教徒に絶大な影響力を持っている。そしてローマ法王は、、、、、」
話を続けようとするチャーチルにスターリンが一言。
スターリン「そのローマ法王とやらは、戦車師団をいくつ持っているのかね?」
続く・・・
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