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2015/04/13

歴史を歩く99

15-4十字軍と都市の発達②

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第1回十字軍のエルサレム攻撃

1十字軍とその影響②

 第1回十字軍(1096年~99年)は、フランスの諸侯、騎士を主力として、4軍団に分かれて出発し、翌年コンスタンティノープルで合流し、ビザンツ皇帝に臣従の礼をとった後、ビザンツ軍と共に小アジアに進出します。

 騎兵5千、歩兵1万5千の大軍は、緒戦で勝利をおさめ、トルコ軍と小競り合いを繰り返しながら小アジアを横切り、北シリアのアンティオキアに至り、半年に及ぶ攻城戦の末にこの地を陥れました(1098年)。

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十字軍の進路

 アンティオキア攻略に功があった南イタリアのノルマン騎士ボエモンは、アンティオキア公国(1098年~1268年)の君主に治まり、もはやイェルサレムには向かうことは在りませんでした。
これより前、エデッサを攻略したボードアンもエデッサ伯国(1098年~1146年)を建国しその地に留まりました。
十字軍の要因の一つに諸侯、騎士達の領土獲得欲が存在することが この例によく現れています。

 アンティオキアからイェルサレムに向けて進撃し、6週間にわたる攻囲戦の後についに イェルサレムを陥落させます(1099年)。
この時、十字軍兵士達は殺戮と掠奪をほしいままにし、老若男女を問わず住民約7万人を虐殺しました。
虐殺と掠奪が終わると彼らは血にまみれた手を洗い、衣服を改めて喜びの涙にむせびながら聖墓に詣でたとキリスト教徒の年代記家が記しています。

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エルサレム包囲戦、グリエルモ・エンブリアコ率いるジェノヴァ石弓部隊

 当時のイスラム教徒がキリスト教徒に寛大であったのに対し、キリスト教徒の狂信、不寛容ぶりが際ってます。
この違いは当時のヨーロッパが異文化に接する機会に乏しく、封鎖された世界の中にあったので、 キリスト教の隣人愛はキリスト教徒に対するものだけであったことが原因です。

 結果的に第1回十字軍は聖地の回復に成功した数少ない十字軍でした。
回復した聖地を確保するためにイェルサレム王国(1099年~1291年)が建設されました。

 イェルサレム王国は、フランスに範をとり、ロレーヌ(ロートリンゲン)公ゴドフロアを統治者に選び、 残留した戦士達に封土を与えて建てられた封建国家でした。
イェルサレム王国は、前述したエデッサ伯国、 アンティオキア公国、トリポリ伯国(1102年~1289年)に対して宗主権を持っていまいしたが、この三国は事実上独立していました。

 イェルサレム回復後、多数の十字軍兵士達は目的を達成したとして帰国し、又西ヨーロッパから来る増援隊は少数だったことから、現地軍は絶えず兵員不足に悩まされました。
このために設立された部隊が宗教騎士団なのです。

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テンプル騎士団

 聖地の守護を目的として設立された(1119年)テンプル騎士団の団員は騎士と修道士の役割を兼ね、武器を持ってキリストに奉仕する誓いを立てていまいした。
第1回十字軍時代に成立し、ロードス島を本拠地に活躍したヨハネ騎士団、そして第3回十字軍の際に組織され活躍したドイツ騎士団は合わせて三大騎士団と呼ばれています。

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テンプル騎士団(左)ヨハネ騎士団(右)

 宗教騎士団は、帰国後は護教活動や辺境の開拓に活躍しました。
特にドイツ騎士団は、ドイツの東方植民の先頭に立ち、後のプロイセンの基礎となりました。

 第1回十字軍が成功をおさめたのは、セルジューク朝が分裂し内紛のために連合して十字軍と戦うことが出来なかったことが大きな理由でした。
しかし、セルジューク朝はその後勢力を回復し、モスル太守のザンギーが北シリアを回復し、エデッサ伯国を滅ぼし(1146年)、その翌年に第2回十字軍が派遣されました。

 第2回十字軍(1147年~49年)には、ドイツ皇帝、フランス王が参加し、救援におもむき、アッコンに到達し、ダマスクスを攻撃したものの失敗に終わり、解散して帰国しました。

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サラディン

 この後のイスラム側の失地回復はめざましく、ザンギーの子ヌレディンがダマスクスを奪回し、このザンギー朝に仕え、後のエジプト、ファーティマ朝の宰相となり、ついでファーティマ朝を倒してアイユーブ朝を興した人物が有名なサラディン(サラーフ・アッディーン、1138年~93年 (在位1169年~93年))です。
彼はエジプト、シリア、イラクを支配下におさめて十字軍国家を包囲し、ついにイェルサレムを奪回しました(1187年)。

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リチャード1世(獅子心王)

 イェルサレム陥落はヨーロッパに大きな衝撃を与えました。
こうした状況の中で、ドイツ皇帝フリードリヒ1世(在位1152年~90年)、フランス王フィリップ2世(在位1180年~1223年)、イギリス王リチャード1世(獅子心王、在位1189年~99年)等当時の列強君主が教皇の求めに応じて十字軍士の誓いを立て、軍団の名にふさわしい、最も十字軍らしい十字軍と称される第3回十字軍(1189年~92年)が結成されました。

 しかし、当時英仏は本国間で領土をめぐって激しく争っていた結果、協定が整わず出発が遅れ、フリードリヒのみが小アジアのルートを進行しますが、小アジア東南部を流れるサレフ川渡河の際に溺死してしまい、この結果一部はアンティオキアに達したものの、その大部分は帰国してしまいました。

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アッコン陥落

 フィリップ2世とリチャード1世は、同時に出発し(1190年)、シチリア島で合流し冬を過ごしたましたが、その時も反目は続き、その後は別行動を取り、再びアッコンで合流してアッコン攻城戦に加わりました。
アッコンは イェルサレムの北方に位置するシリアの港市で、イェルサレム王国の事実上の首都であり、十字軍の最後の拠点となった町でした。
第1回十字軍が占領したもののが、サラディンが奪回し、英仏王が再び占領しますが、アッコンが陥落すると、フィリップ2世は病気を口実に本国に離脱します(1191年)。

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アッコンの降伏を受け入れるフィリップ2世(尊厳王)

 リチャード1世だけがイェルサレムを目指しました。
サラディンはリチャードと各地で戦い、リチャード軍に悩まされながらもイェルサレムを死守しますが、この時のリチャードとサラディンと勇敢な戦いぶりは後世に長く語り継がれることになりました。

 リチャードは「獅子心王(Lion-hearted )」の異名をとり、中世騎士道の典型的人物とされました。 一方のサラディンもその武勇、勇猛さを知られたばかりでなく、その博愛、寛容の精神によってヨーロッパ人に多大な感銘を与えたのです。

 結局リチャードとサラディンは和を結び、リチャードは聖地イェルサレムへの巡礼のための自由な通行権を得て帰国の途に着きます(1192年)。

 リチャードは、帰途ウィーン近くでオーストリア大公の捕虜となりドイツ皇帝に引き渡されて幽閉され、 莫大な身代金を払って釈放され(1194年)やっと帰国を果たしました。
帰国後、弟のジョンを逐って王位を取り戻し、国内の反乱を鎮圧した後、フランスに出兵しフィリップ2世との戦闘中、流れ矢にあたって戦死しています(1199年)。
一方のサラディンはそれより6年前にすでに病死していました。

 かくして第3回十字軍もイェルサレムを回復することは出来ませんでした。

ジョークは如何?

 若いメキシコ人が職業安定所にやってきて、彼はまっすぐカウンターに向かった、”おい、仕事が欲しいんだ”

担当官 「ちょうどいいときに来たな。いま金持ちのオヤジから娘を守る屈強な運転手兼ボディーガードの募集がある。
      娘は結構イケてるらしいぞ。でかい黒ベンツを運転するんだ。制服のスーツは全て支給される。
      長時間勤務になるからな、食事もつくぞ。
      娘の休暇に海外にもつれてってやらなきゃならん。年俸は20万ドルだ」

メキシコ人 「おい、からかってるのか?」

担当官  「おまえが始めたんじゃないか」


続く・・・

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