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2015/05/08

歴史を歩く105

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立①

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テンプル騎士団最後の総長:ジャック・ド・モレー (Jacques de Molay、1244年? - 1314年3月18日)

1教会勢力の衰微

 十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復したことは、教皇の権威を益々高め、教皇権は13世紀初頭のインノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎えました。

 しかし、最終的には聖地を回復することは叶わず、その一方で十字軍の指揮者として活躍した国王の権力が伸張するにつれて、教皇の権威は低下して行きます。

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ボニファティウス8世

 13世紀末に在位した教皇ボニファティウス8世(在位1294年~1303年)は、ローマ有数の名門出身で、政治家、法律家として優れた才能を有していましたが、尊大で激情に走りやすく、政治的柔軟性に欠けていました。

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フィリップ4世

 フランスのフィリップ4世(在位1285年~1314年)は、13世紀末に起こった英仏間のフランドルとギエンヌをめぐる戦いの戦費を調達するために、教会法に反して聖職者、修道院に課税したことぁら、聖職者達は教皇に訴えを起こします。

 ボニファティウス8世は聖職者課税禁止の教書を発して、教皇の同意なく教会財産に課税する者を破門することを宣言し、フィリップ4世を激しく非難したのです(1296年)が、これに対してフィリップ4世は、フランス国内の一切の貴金属を国外に持ち出すことを禁止します。
この行為は、フランスの聖職者が教皇に差し出す租税、献金の禁止を意味したため、最終的に教皇は、聖職者課税禁止を緩和してフィリップ4世と妥協する結果と成りました。

 ところが、更にフィリップ4世が、ナルボンヌ司教の知行権を削り、臣下のナルボンヌ伯に与えたことから両者に2回目の衝突が発生します。

 司教が教皇に訴えたため、ボニファティウス8世は司教を使節として派遣しましたが、その司教の傲慢な態度に怒ったフィリップ4世は司教を逮捕して審問し、司教職剥奪を教皇に要求します(1301年)。

 これに憤ったボニファティウス8世は、フィリップ4世に対して、司教の釈放を命ずると伴に、国王は教皇権に従うべきであることを主張する教書を発し、破門で脅しながらフィリップ4世を屈服させようと試みました。

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フィリップ4世による三部会招集
 
 しかし、フィリップ4世はこれに屈せず、ノートルダムに聖職者、貴族と初めて参加した市民代表を加えた「三部会」を召集し(1302年)、教皇の教書を歪曲して発表し、臣下に教皇弾劾の演説を行わせたため、フランス国民は国王を支持し、教皇を非難する決議を行いました。
この時召集された「三部会」がフランス議会の始まりとされています。

 これに対して、ボニファティウス8世が発した教書が有名な「唯一の聖なる教会」です(1302年)
「教会及びその権力には二振りの剣、すなわち聖界のものと俗界のものがある。・・・いうまでもなく聖界の剣及び俗界のそれはともに教会の権力のうちにある。後者は教会のために、前者は教会によって行使される。・・・しかも一つの剣が他の剣の下に従属し、また俗界の権威は聖界の権威に服従せしめられることは当然である。」(史料世界史、山川出版社)

 フィリップ4世は、これに対して再び聖職者、貴族をルーヴルに集め、ボニファティウス8世を異端、売官者として告発し、その廃位を要求しました(1303年)。

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アナーニ事件

 ボニファティウス8世は、更に教書を発し、フィリップ4世は破門されることになったのですが、その直前にアナーニ事件が発生します。

 フィリップ4世は、教皇の廃位を要求する一方で、ひそかに腹心の部下の一隊をイタリアに派遣し、たまたまボニファティウス8世が滞在していたアナーニを急襲させます。
不意をつかれた教皇は捕らえられて幽閉され、その挙句にアナーニの町は略奪されました。
これがアナーニ事件(1303年)です。

 ボニファティウス8世は、その後市民の手で解放されますが、受けた屈辱がもとで持病の胆石が悪化し、1ヶ月後に急逝します。

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クレメンス5世(在位1305年~14年)

 その後、フランスの貴族出身でボルドー大司教であったクレメンス5世(在位1305年~14年)が教皇に選出されます。
クレメンス5世は、リヨンで戴冠し、ローヌ河沿いの町で一時を過ごした後、フィリップ4世に強制されて教皇庁を南仏のアヴィニョンに移しました(1309年)。

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アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口

 以後、7代70年間にわたって教皇庁は南仏のアヴィニョンに置かれ、7人の教皇(7人ともフランス人)はフランス王の監視下に置かれることになります。

 この有名な出来事は、「アヴィニョン捕囚」(1309年~77年)、あるいは古代のユダヤ人のバビロン捕囚の故事になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれています。

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ウルバヌス6世

 7代目のアヴィニョン教皇、グレゴリー11世(在位1370年~78年)が、ローマ帰還(1377年)の翌年に逝去したため、ローマではウルバヌス6世が選出されましたが、フランス人枢機卿はこれに反対し、アヴィニョンにクレメンス7世を擁立します。

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クレメンス7世

 このため、以後イタリア・ドイツ・イギリスが支持するローマ教皇とフランスが支持するアヴィニョン教皇がともに正統を主張して対立することに成り、これを教会大分裂(シスマ)(1378年~1417年)と呼び、15世紀初頭には、この事態を解決するためにローマ・アヴィニョン両教皇を廃して新しい教皇が擁立されますが、両教皇はこれを認めず、この3人の教皇が鼎立する事態となりました(1409年ピサ公会議)。

 教会大分裂によって教皇の権威は著しく失墜し、又ヨーロッパ中の教会は、支持する教皇に献金するために金集めに狂奔した結果、教会や聖職者の世俗化、腐敗が一層進み、こうした状況のなかで教会革新の声が高まって行きました。

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ジョン・ウィクリフ

 イギリスの神学者、聖職者であったウィクリフ(1320年頃~84年)は、オックスフォード大学に学び、後に同大学神学教授に就任します。
彼はイギリス教会に対する教皇の干渉を排除し、イギリスの教皇からの宗教的、政治的独立を主張しました。

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ワット・タイラー

 彼は、カトリック教義が聖書から離反していると説き、聖書こそが信仰と救済の最高の根拠であるとする聖書中心主義を唱え、教会の世俗化や腐敗を激しく攻撃し、それ迄ラテン語で書かれていた聖書の英語訳を行い、自説の普及に努めるとともに、国王保護の下で教会改革を推進しますが、ワット・タイラーの乱(1381年)が起こると関係を疑われて大学を辞職します。
又彼の説はベーメン(ボヘミア)のフスに大きな影響を及ぼしたのです。

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刑場に引かれるフス

 ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)のフス(1370年頃~1415年)は、貧農の子に生まれ、プラハ大学に学び、同大学教授(1398年)、後に同大学総長に就任します(1409年)。

 大学教授を勤めると同時に、プラハ市のベツレヘム教会の説教者となり、ウィクリフの説に共鳴して聖書中心主義の立場からカトリック教会を批判し、教皇の世俗的権力を否定し、教会改革を主張しました。
このためローマ教会と対立を深め、破門されたものの(1411年)、これに屈せず、各地で活動を続けます。

 フスの説を支持する者はボヘミアだけでなく、全ヨーロッパに広まった結果、ローマ教会はコンスタンツの公会議(1414年~18年)を開き、フスを召喚し、彼に学説の撤回を迫りますが、フスがこれを拒否したため、彼の説は異端とされ、フスは火刑に処せられました(1415年)。

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ドイツ皇帝ジギスムント

 ドイツ皇帝ジギスムントの主宰で開かれたコンスタンツの公会議(1414年~18年)には約5万人が参加したと言われていますが、この会議はシスマの解決と異端の審議を主目的として開かれました。

 シスマについては、ローマ教皇を正統と認め、分裂中の3教皇を廃し、統一教皇としてマルティヌス5世(在位1417年~31年)を選出してシスマを解決し、又異端の審議については、フスの説を異端として火刑に処すとともに、ウィクリフの説も合わせて異端として彼の遺体を掘り起こし、彼の著書とともに焼却しテムズ川に投じています。

 フスの処刑後、ドイツ皇帝ジギスムントは、プラハ市とプラハ大学を迫害したため、市民はフスの説の承認を求めて反乱を起こしました。
このフス戦争(1419年~36年)は、チェック人のドイツ支配に対する抵抗でもあったのです。

 こうして教皇権はかつての栄光を失って衰退に向かい、教会の世俗化や腐敗に対する教会革新運動は後を絶たず、ついに近代初頭にドイツのルターよる宗教改革が起こることと成ります。

ジョークは如何?

共産党の地区オルグ。中央から派遣された委員が共産主義社会の成果について得々と語る。
 「わが国の肉や小麦生産は飛躍的に向上している。」

 会場から質問。
 「その肉や小麦は何処に行ったんですか?」
 演説に水を差された委員がみるみる不機嫌そうに・・・

 次の月のオルグ。
 あいかわらず景気のいい演説。すると会場から「質問」の声が。
「なんだ?ここの地区は質問が多いな?肉や小麦の質問なら先月回答したはずだ。」

質問者。
「いいえ、同志委員。肉や小麦のことはいいんですけど、先月質問した奴は何処に行ったんですか?」


続く・・・

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