歴史を歩く106
15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立②

2封建制・荘園制の崩壊
封建制は自給自足を本質とする荘園制の上に成り立っていましたが、十字軍以後商業や都市が発達し、貨幣経済が進展する中で荘園制や封建制も崩れ始めました。
貨幣経済が広まるに連れて、領主層もその賛否には関係なくその中に取り込まれていきます。
領主としての体面を保つためにより多くの貨幣を必要とした領主は、賦役を止め、直営地を農民に貸し与え、地代を生産物や貨幣で受け取る様に成ります。

農奴の賦役
賦役は、農奴が領主の直営地で、週に2~3日、無償で働くことで、労働地代とも呼ばれました。農奴は賦役を嫌いましたが、領主から土地を借りるためには賦役に出て行かねば成りませんでした。
賦役による直営地の収穫物は全て領主の物となり、農奴達が如何に一生懸命働いても自分達の物にならなかった為、農奴達は本気で働こうとしませんでした。
その為、同じ面積当たりから取れる収穫物は、農民の保有地(領主から借りた土地)の方が遥かに多く、言い換えれば賦役は非能率だったのです。

農作業
その為、領主は非能率な賦役を止めて、賦役を金納化し、場合によっては直営地を分割して農奴に貸し与えるように成りました。
領主から土地を借りた農奴は、収穫物の一定割合を作物で納めた結果、この税は貢納又は生産物地代と呼ばれます。
この様に地代形態は、労働地代から生産物地代、貨幣地代へと変化していったのです。
この地代形態の変化は、農奴にとっても有利で、生産物、貨幣で納める場合、その割合が一定で在る場合や定額の場合、農奴達が一生懸命働き収穫量を増やせば増やす程、農奴の手元に残る量も多くなり、農奴の一部には貨幣を蓄えて次第に富裕になっていく者も存在したのです。

黒死病死者の搬送
当時、1348年に黒死病(ペスト)が全ヨーロッパに流行し、農村人口が激減すると領主の直営地経営は更に困難を極め、賦役の金納化(売却)が促進され、農奴の身分的束縛が緩んで行きました。
ペストは歴史上何回も猛威をふるい、多くの人々の命を奪ったおそろしい伝染病ですが、特に14世紀中頃ヨーロッパ襲ったペストの流行は歴史上最も有名です。

ヨーロッパのペスト感染経路
この時のペストはアジアで猛威をふるっていたのですが、東方貿易に従事していたイタリア商人等が感染し、イタリア、フランスの港に入り(1347年)、1348年には全西ヨーロッパに拡大しました。ペストには腺ペストや肺ペスト等の種類が在りますが、この時ヨーロッパで流行したのは腺ペストの方で、その症状については有名なボッカチオの「デカメロン」(1348年~53年の作)の冒頭に次のように書かれています。
「東洋では鼻血がでたら死が疑い無しでしたが、それとは違って罹病の初期にはこわばったはれものが出来て、そのうちのあるものは普通のりんごぐらいに他のものは鶏卵ぐらいに大きくなり・・。命取りのはれものはまたたく間に全身にわたってところかまわず吹き出し盛り上がってまいりました。こうなってからあとはそのはれものは黒色かなまり色の斑点に変わり出しました。たいていの者には両わきだの、両足だの体中いたるところにあらわれてくるのです・・・あのペストのはれものが死の到来のきわめて確かなしるしであったように、この斑点はそれが出てきた人にとって同じく死の徴候でした。こうした病気の治療には、医者の診察もどんな効能のある薬もききめがあるようには見えませんでした・・・徴候があらわれて3日以内に、多少遅い早いはあってもたいていは少しの熱も出さず、そうかといって別に変わったこともなく死んでいきました。このペストはそれは驚くべき力をもっておりました。・・・」
このペストの大流行によって、イギリス、フランスでは人口の3分の1が病死したと云われています。
農村人口も激減して領主の直営地経営が困難となり、貨幣地代の普及が促進され、農奴は賦役や領主裁判権等の身分的束縛から解放される様に成りました。

独立自営農民
この様な動きを農奴解放と呼び、農奴解放によって農民の地位は向上し、嘗ての農奴は家族労働によって保有地を耕作し、僅かな地代を担いますが、身分的にはほとんど自由に成りました。
この様な農民を独立自営農民(ヨーマン)と呼びます。
こうして自立化していく農民に対して、貨幣経済の進展で窮乏化した領主が再び束縛や搾取を強化しようとすると(この様な動きを封建反動と云う)、彼等は激しく反抗し、農奴制廃止等の要求を掲げて農民一揆を起こしました。

ジャックリーの乱
フランスでは、1358年にジャックリーの乱と呼ばれる大農民反乱が起こります。
百年戦争初期のポワティエの戦い(1356年)後の無給傭兵達の村荒らしや領主の身代金調達の為の重税賦課が直接の原因となり、フランス北東部の農民達がギョーム・カール(カイエ)を指導者として立ち上がります。
ここでジャックとは当時の貴族が農民達を軽蔑して呼んだ呼び方ですが、反乱軍は諸侯軍に破れ、カールは処刑され、徹底的に弾圧されました。
この反乱は規模や処刑の厳しさでフランス史上最大と云われています。

「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰がジェントリ(郷紳、地主)であったか?」
イギリスでも、1381年にワット・タイラーの乱が起こります。
百年戦争の戦費調達の為に15才以上の国民に人頭税がかけられると、これに反対してワット・タイラーはイングランド東南部の農民、手工業者を率いて立ち上がり、ロンドンに進撃し、国王に農奴制の廃止や地代の引き下げを約束させますが、更に教会財産没収や農民への土地分配等の新たな要求を行った際に殺害され、指導者を失った反乱軍は各地で敗れて一揆は鎮圧されました。
このワット・タイラーの思想的指導者で、巡回説教師としてウィクリフの教会革新の説を広めていたジョン・ボールは「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰がジェントリ(郷紳、地主)であったか」と唱え、社会的平等思想を説いて、農民や下層民を引きつけますが、一揆の失敗で彼も処刑されます。
この様にジャックリーの乱やワット・タイラーの乱は鎮圧されましたが、再発防止の為に農民の要求の多くは次第に実現され、自由化が進んでいくことに成ります。
荘園制、封建制の崩壊は諸侯、騎士の没落を促進し、諸侯、騎士は十字軍による軍事的、経済的な負担によって没落しつつあったのですが、荘園制崩壊は彼等の経済的な基盤を失わせ、又火砲の使用等による戦術の変化は諸侯、騎士の没落を決定的にしました。

弩(いしゆみ)
14世紀に出現した弩(いしゆみ)と長弓は戦争の様相を大きく変えたのです。
弩はハンドルで弓弦を引きしぼり、引き金を引いて矢をとばす武器で、矢の飛ぶ力が強く殺傷力は格段に高まったのですが、発射迄に時間を要することが難点でした。
一方の弓の長さが1.7mもある長弓は速射が可能で、鎧(よろい)を突き通す力も備えていたのです。

長弓
この様な武器の出現と共に重装騎士が出現します。
彼等は強い矢に対抗する為に、全身を鋼の板金を重ねた鎧に身を包みましたが、鎧の重さは50~60kgに達したと云われ、その為まっすぐに立つことも難しく、一人で馬に乗ることも出来ず、落馬すれば起きあがることも出来ませんでした。
その為、重装騎士は限られた力しか発揮できず、騎士による一騎打ちは意味を失い、軽装騎兵や歩兵が戦闘で大きな役割を果たすように成りました。

14世紀から15世紀頃の大型大砲
更に14世紀以後、火砲の出現は戦術を一層大きく変化させていきます。
14世紀中葉には大砲が使用される様に成ります。
初期の大砲は、砲身長1m程の鉄製筒で、弾丸は石や鉄、鉛等で作られ、筒の一端に火薬をつめ、長い棒の先につけた種火で点火して発射したのですが、平均10発で砲身が破裂し、発射速度は1時間に1発位であったと云われ、破壊力、飛距離は期待出来るものでは無かったのですが、大音響で人馬を驚かせて混乱させる方に効果が在ったようです。
15世紀になると進歩の度合いも大きく進み、射程距離は約1kmに伸び、砲身の寿命も約100発に向上していました。

オーストリア・マスケット銃部隊
鉄砲は、大砲より遅れて15世紀後半に使用される様に成ります。
初期の鉄砲は発射と照準を合わせることが面倒で命中率も悪かったのですが、16世紀初頭にはいわゆる火縄銃が発明され、発射と照準が容易になり急速に普及して行きました。
射程距離は約300mでしたが、100m以内が有効とされ、重装騎士に対しても十分に威力を発揮します。しかし、2分に1発程度と発射に時間がかかることと、雨によって火縄が濡れて不発火になる欠点が大きな問題でした。

戦国時代
日本には1543年、種子島に渡来したポルトガル人によって伝えられますが、ヨーロッパで鉄砲が盛んに使われる様に成って間もない事で、鉄砲の使用が織田信長、豊臣秀吉等の天下統一に大きな役割を果たした事は良く知られています。
火砲の使用等による戦術の変化は騎士の役割を低下させ、彼等の没落を早め、諸侯や騎士は、当時中央集権化を進めていた国王の廷臣となり、農民からは地代を取り立てるだけの地主になっていったのです。
ジョークは如何?
ロシアにある「赤の広場」で、男が「スターリンは馬鹿だ」と叫びながら走り回っていた。
当然男は逮捕され、裁判の結果懲役25年が言い渡された。
刑期のうち5年は侮辱罪、残りの20年は国家機密漏洩罪であった。
続く・・・

2封建制・荘園制の崩壊
封建制は自給自足を本質とする荘園制の上に成り立っていましたが、十字軍以後商業や都市が発達し、貨幣経済が進展する中で荘園制や封建制も崩れ始めました。
貨幣経済が広まるに連れて、領主層もその賛否には関係なくその中に取り込まれていきます。
領主としての体面を保つためにより多くの貨幣を必要とした領主は、賦役を止め、直営地を農民に貸し与え、地代を生産物や貨幣で受け取る様に成ります。

農奴の賦役
賦役は、農奴が領主の直営地で、週に2~3日、無償で働くことで、労働地代とも呼ばれました。農奴は賦役を嫌いましたが、領主から土地を借りるためには賦役に出て行かねば成りませんでした。
賦役による直営地の収穫物は全て領主の物となり、農奴達が如何に一生懸命働いても自分達の物にならなかった為、農奴達は本気で働こうとしませんでした。
その為、同じ面積当たりから取れる収穫物は、農民の保有地(領主から借りた土地)の方が遥かに多く、言い換えれば賦役は非能率だったのです。

農作業
その為、領主は非能率な賦役を止めて、賦役を金納化し、場合によっては直営地を分割して農奴に貸し与えるように成りました。
領主から土地を借りた農奴は、収穫物の一定割合を作物で納めた結果、この税は貢納又は生産物地代と呼ばれます。
この様に地代形態は、労働地代から生産物地代、貨幣地代へと変化していったのです。
この地代形態の変化は、農奴にとっても有利で、生産物、貨幣で納める場合、その割合が一定で在る場合や定額の場合、農奴達が一生懸命働き収穫量を増やせば増やす程、農奴の手元に残る量も多くなり、農奴の一部には貨幣を蓄えて次第に富裕になっていく者も存在したのです。

黒死病死者の搬送
当時、1348年に黒死病(ペスト)が全ヨーロッパに流行し、農村人口が激減すると領主の直営地経営は更に困難を極め、賦役の金納化(売却)が促進され、農奴の身分的束縛が緩んで行きました。
ペストは歴史上何回も猛威をふるい、多くの人々の命を奪ったおそろしい伝染病ですが、特に14世紀中頃ヨーロッパ襲ったペストの流行は歴史上最も有名です。

ヨーロッパのペスト感染経路
この時のペストはアジアで猛威をふるっていたのですが、東方貿易に従事していたイタリア商人等が感染し、イタリア、フランスの港に入り(1347年)、1348年には全西ヨーロッパに拡大しました。ペストには腺ペストや肺ペスト等の種類が在りますが、この時ヨーロッパで流行したのは腺ペストの方で、その症状については有名なボッカチオの「デカメロン」(1348年~53年の作)の冒頭に次のように書かれています。
「東洋では鼻血がでたら死が疑い無しでしたが、それとは違って罹病の初期にはこわばったはれものが出来て、そのうちのあるものは普通のりんごぐらいに他のものは鶏卵ぐらいに大きくなり・・。命取りのはれものはまたたく間に全身にわたってところかまわず吹き出し盛り上がってまいりました。こうなってからあとはそのはれものは黒色かなまり色の斑点に変わり出しました。たいていの者には両わきだの、両足だの体中いたるところにあらわれてくるのです・・・あのペストのはれものが死の到来のきわめて確かなしるしであったように、この斑点はそれが出てきた人にとって同じく死の徴候でした。こうした病気の治療には、医者の診察もどんな効能のある薬もききめがあるようには見えませんでした・・・徴候があらわれて3日以内に、多少遅い早いはあってもたいていは少しの熱も出さず、そうかといって別に変わったこともなく死んでいきました。このペストはそれは驚くべき力をもっておりました。・・・」
このペストの大流行によって、イギリス、フランスでは人口の3分の1が病死したと云われています。
農村人口も激減して領主の直営地経営が困難となり、貨幣地代の普及が促進され、農奴は賦役や領主裁判権等の身分的束縛から解放される様に成りました。

独立自営農民
この様な動きを農奴解放と呼び、農奴解放によって農民の地位は向上し、嘗ての農奴は家族労働によって保有地を耕作し、僅かな地代を担いますが、身分的にはほとんど自由に成りました。
この様な農民を独立自営農民(ヨーマン)と呼びます。
こうして自立化していく農民に対して、貨幣経済の進展で窮乏化した領主が再び束縛や搾取を強化しようとすると(この様な動きを封建反動と云う)、彼等は激しく反抗し、農奴制廃止等の要求を掲げて農民一揆を起こしました。

ジャックリーの乱
フランスでは、1358年にジャックリーの乱と呼ばれる大農民反乱が起こります。
百年戦争初期のポワティエの戦い(1356年)後の無給傭兵達の村荒らしや領主の身代金調達の為の重税賦課が直接の原因となり、フランス北東部の農民達がギョーム・カール(カイエ)を指導者として立ち上がります。
ここでジャックとは当時の貴族が農民達を軽蔑して呼んだ呼び方ですが、反乱軍は諸侯軍に破れ、カールは処刑され、徹底的に弾圧されました。
この反乱は規模や処刑の厳しさでフランス史上最大と云われています。

「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰がジェントリ(郷紳、地主)であったか?」
イギリスでも、1381年にワット・タイラーの乱が起こります。
百年戦争の戦費調達の為に15才以上の国民に人頭税がかけられると、これに反対してワット・タイラーはイングランド東南部の農民、手工業者を率いて立ち上がり、ロンドンに進撃し、国王に農奴制の廃止や地代の引き下げを約束させますが、更に教会財産没収や農民への土地分配等の新たな要求を行った際に殺害され、指導者を失った反乱軍は各地で敗れて一揆は鎮圧されました。
このワット・タイラーの思想的指導者で、巡回説教師としてウィクリフの教会革新の説を広めていたジョン・ボールは「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰がジェントリ(郷紳、地主)であったか」と唱え、社会的平等思想を説いて、農民や下層民を引きつけますが、一揆の失敗で彼も処刑されます。
この様にジャックリーの乱やワット・タイラーの乱は鎮圧されましたが、再発防止の為に農民の要求の多くは次第に実現され、自由化が進んでいくことに成ります。
荘園制、封建制の崩壊は諸侯、騎士の没落を促進し、諸侯、騎士は十字軍による軍事的、経済的な負担によって没落しつつあったのですが、荘園制崩壊は彼等の経済的な基盤を失わせ、又火砲の使用等による戦術の変化は諸侯、騎士の没落を決定的にしました。

弩(いしゆみ)
14世紀に出現した弩(いしゆみ)と長弓は戦争の様相を大きく変えたのです。
弩はハンドルで弓弦を引きしぼり、引き金を引いて矢をとばす武器で、矢の飛ぶ力が強く殺傷力は格段に高まったのですが、発射迄に時間を要することが難点でした。
一方の弓の長さが1.7mもある長弓は速射が可能で、鎧(よろい)を突き通す力も備えていたのです。

長弓
この様な武器の出現と共に重装騎士が出現します。
彼等は強い矢に対抗する為に、全身を鋼の板金を重ねた鎧に身を包みましたが、鎧の重さは50~60kgに達したと云われ、その為まっすぐに立つことも難しく、一人で馬に乗ることも出来ず、落馬すれば起きあがることも出来ませんでした。
その為、重装騎士は限られた力しか発揮できず、騎士による一騎打ちは意味を失い、軽装騎兵や歩兵が戦闘で大きな役割を果たすように成りました。

14世紀から15世紀頃の大型大砲
更に14世紀以後、火砲の出現は戦術を一層大きく変化させていきます。
14世紀中葉には大砲が使用される様に成ります。
初期の大砲は、砲身長1m程の鉄製筒で、弾丸は石や鉄、鉛等で作られ、筒の一端に火薬をつめ、長い棒の先につけた種火で点火して発射したのですが、平均10発で砲身が破裂し、発射速度は1時間に1発位であったと云われ、破壊力、飛距離は期待出来るものでは無かったのですが、大音響で人馬を驚かせて混乱させる方に効果が在ったようです。
15世紀になると進歩の度合いも大きく進み、射程距離は約1kmに伸び、砲身の寿命も約100発に向上していました。

オーストリア・マスケット銃部隊
鉄砲は、大砲より遅れて15世紀後半に使用される様に成ります。
初期の鉄砲は発射と照準を合わせることが面倒で命中率も悪かったのですが、16世紀初頭にはいわゆる火縄銃が発明され、発射と照準が容易になり急速に普及して行きました。
射程距離は約300mでしたが、100m以内が有効とされ、重装騎士に対しても十分に威力を発揮します。しかし、2分に1発程度と発射に時間がかかることと、雨によって火縄が濡れて不発火になる欠点が大きな問題でした。

戦国時代
日本には1543年、種子島に渡来したポルトガル人によって伝えられますが、ヨーロッパで鉄砲が盛んに使われる様に成って間もない事で、鉄砲の使用が織田信長、豊臣秀吉等の天下統一に大きな役割を果たした事は良く知られています。
火砲の使用等による戦術の変化は騎士の役割を低下させ、彼等の没落を早め、諸侯や騎士は、当時中央集権化を進めていた国王の廷臣となり、農民からは地代を取り立てるだけの地主になっていったのです。
ジョークは如何?
ロシアにある「赤の広場」で、男が「スターリンは馬鹿だ」と叫びながら走り回っていた。
当然男は逮捕され、裁判の結果懲役25年が言い渡された。
刑期のうち5年は侮辱罪、残りの20年は国家機密漏洩罪であった。
続く・・・
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