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2015/05/15

歴史を歩く107

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立③

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ヘースティングズの戦い

3イギリスとフランス

 イギリスでは、ノルマン征服(1066年)によってノルマン朝が成立しました。

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ノルマンディー公ウィリアム

 ノルマンディー公ウィリアムは、イギリスでエドワード懺悔王が崩御し、義弟のハロルドが王位に就くと、王位継承権を主張してイギリスに侵入し、ヘースティングズの戦い(1066年)でハロルドを破りウィリアム1世(在位1066年~87年)として即位しノルマン朝(1066年~1154年)の開祖と成りました。

 ウィリアム1世は5年間でイギリスの統一をはたし、全国で検地を行いドゥームズデー・ブック(全国的な検地帳、土地台帳)を完成させ(1086年)、全国の土地所有者をソールズベリに集めて忠誠を誓わせ(ソールズベリの誓約、1086年)、又カンタベリ大司教を自ら任命するなど集権的封建制でイギリスを統治しました。
この様にノルマン朝では当初より王権の強い王朝でした。

 ウィリアム1世はイギリス国王ですが、フランス領(ノルマンディー公国)に関してフランス王の臣下です。
この様にフランス王の臣下がイギリス王となり、主君より強大に成ることは、以後英仏間で抗争が続く原因と成りました。

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アンジュー伯アンリ(プランタジネット朝ヘンリ2世)

 ノルマン朝は4代続き、ウィリアム1世の孫スティーブンの死によって断絶し、フランスのアンジュー伯アンリ(ウィリアム1世の曾孫、母はスティーブンの従妹にあたるマティルダ)がヘンリ2世として即位し、プランタジネット朝(1154年~1399年)を創始します。
ヘンリ2世は、即位する以前に既に父からアンジュー伯領を継承し(1151年)、その翌年にフランス王ルイ7世と離婚したエレオノールとの結婚によってアキテーヌ(=ギュイエンヌ)公領等を継承していました。
そのヘンリ2世がイギリス王と成った結果、フランスのほぼ西半分がイギリス領となり、ヘンリ2世はイングランド・ノルマンディーと合わせて当時の西ヨーロッパで最も広大な領土を支配することと成ります。

 しかし、ヘンリ2世の晩年は悲劇でした。
フランス王と結んだ息子達(後のリチャード1世やジョン)の反乱に苦しめられ、最後はリチャードに攻められて、フランスの陣中で没します。

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リチャード1世

 リチャード1世(在位1189年~99年)は、ヘンリ2世の3男として生まれ、母からアキテーヌ公領を受け継ぎ、父王に2度反乱を起こし、父の死後イギリス王と成りました。

 即位後間もなく、フランス王フィリップ2世、ドイツ皇帝フリードリヒ1世と共に第3回十字軍(1189年~92年)に参加し、単独でサラディンと勇戦し、「獅子心王」とあざなされます。
帰途、ドイツ皇帝の捕虜と成ってしまいますが莫大な身代金を払って釈放され帰国を果たします(1194年)。
帰国後、弟のジョンから王位を奪い返し、諸侯の反乱を鎮圧した後、フランスに出兵してフィリップ2世との戦いの臨みますが、戦場で討たれてしまいます。

 リチャードは10年の治世の間、イギリスに留まったのは半年余りであったと云われ、戦いに明け暮れた、勇猛な武将で、中世騎士道の典型的な人物と称えられますが、一方政治的には無能であったと云われています。

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ジョン王「欠地王」

 プランタジネット朝第3代の王、ジョン(在位1199年~1216年)はヘンリ2世の末子で兄達にはそれぞれ領地が分け与えられたのですが、ジョンだけには与えられなかったことから「欠地王」と渾名され、兄リチャードの死後イギリス王位を継承し、引き続いてフェリペ2世と大陸で戦いますが(1204年~06年)結果的にフランス国内の多くの領地を失っています。

 又カンタベリ大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世と争った結果破門され(1209年)、全領土を一旦教皇に献上し、改めて封土として受け、教皇の封建的臣下となりました。

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「マグナ=カルタ(大憲章)」署名

 翌年、再び大陸に出兵してフェリペ2世と戦うものの敗退、国内では戦費の負担に苦しんだ貴族の反乱を招き、帰国後有名な「マグナ=カルタ(大憲章)」に署名しました(1215年)。
しかし、ジョンはインノケンティウス3世に訴えてマグナ=カルタ無効の宣言を受け、更に反乱を起こした貴族達を破門させた結果、再び内乱が勃発し、貴族軍と交戦中に病没しました(1216年)。
  
「マグナ=カルタ(大憲章)」はジョンの悪政に対して貴族が団結して王に認めさせたもので全63条から成っていいます。

権利の請願(1628年)や権利章典(1689年)と共にイギリス憲法を構成する重要な文書であり「イギリス憲政のバイブル」とも云われています。

 主要条項は以下、
第1条 まず第一に、朕は、イングランドの教会は自由であり、その権利を減ずることなく、その自由を侵されることなく有すべきことを、神に容認し、この朕の特許状によって、朕及び朕の後継者のために永久に確認した。・・・

第12条 如何なる軍役免除金又は御用金も、王国全体の協議によるのでなければ、朕の王国において課せられるべきでない。・・・

第13条 又ロンドン市は、全てのその古来の特権と、水路陸路を問わず自由な関税とを有すべきである。更に朕は総ての他の都市、市邑、町、港が総てその特権と自由な関税を有すべきことを望み、又認可する。

第16条 如何なる者も、騎士の封、又如何なる自由な封の保有についても、その封に付帯する以上の奉仕をおこなうことを強制されることはない。

第39条 如何なる自由人も、彼と同輩の者の判決によるか、又は国法による以外には、逮捕され、監禁され、又自由を奪われ、又法の保護外に置かれ、又追放され、又如何なる方法にてもあれ侵害されることはなく、又朕は彼に敵対することなく、彼に対して軍勢を派遣することはない。

第41条 凡ゆる商人は、古来の正当な慣習により、如何なる悪税をも課せられることはなく、売買のため、水路陸路を問わず、安全かつ無事にイングランドに入国出国し、イングランド内に滞在し、通行することが出来る。・・・                      
(山川出版社「世界史史料・名言集」より)

 此処で第39条の様に国民の権利に関する条項も存在しますが、全体としては僅かで、その大部分は封建社会において教会、貴族、都市等が慣習的に持っていた特権を再確認させたものでした。
しかしマグナ=カルタは国王が臣下の要求に屈した最初ものであり、イギリス憲政史上画期的な出来事でした。

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12世紀〜13世紀のイギリス・フランス

ジョークは如何?

イギリスのチャーチルは議会で何かと物議をかもしだす人物であったことで有名である。
チャーチルが首相の時に議会である議員と言い合いになった。その議員は勢い余ってこう言ってしまった。
「あんたは酒のみの大馬鹿ものだ!」
チャーチルは激怒してこう言った。

「お前を裁判所へ訴えることにする。罪名は国家重要機密漏洩罪だ!」


続く・・・


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