2015/05/15

歴史を歩く108

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立④

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百年戦争・クレシーの戦い

3イギリスとフランス②

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ヘンリ3世

 ジョンの死後、子のヘンリ3世(在位1216年~72年)が幼少で即位します。
当初は摂政が国内を上手く統治したのですが、親政を始めるとフランスから王妃を迎え、フランス人を重用し、又対仏戦での戦費が多額に成り、マグナ=カルタを無視して重税を課したため、貴族の不満を招き、一度はオックスフォード条令(1258年)で貴族の特権を認めたものの、まもなくこれを無視したことから、シモン・ド・モンフォール率いる貴族の反乱が起き、身柄を拘束されます(1264年)。 後に王太子エドワード(後のエドワード1世)に救出されますが(1265年)、以後政治の実権はエドワードに移って行きました。

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シモン・ド・モンフォール

 シモン・ド・モンフォール(1208年頃~65錬)はノルマンディーでフランスの名門貴族の家に生まれ、父はアルビジョワ十字軍に参加して功績があり、母がイギリス人であったことからレスター伯領を相続してイギリスに渡り(1229年)、ヘンリ3世の妹と結婚したものの(1238年)、ヘンリ3世に対する貴族の不満が増大すると、その指導者に選ばれ、オックスフォード条令を王に認めさせます。

 ヘンリ3世が条例を無視すると反乱を起こし(1263年~65年)、王を捕らえ、翌1265年に従来の大貴族、高位聖職者の集会に州騎士(地方の小領主)と都市の市民代表を加えて諮問議会を召集しました。
この諮問議会(シモン・ド・モンフォール議会)はイギリス議会(下院)の始まりとされています。しかし彼は王太子エドワードとの戦いで敗死します(65年)。

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エドワード1世

 エドワード1世(在位1272年~1307年)は即位すると多くの法令を発布し、制度を整えました。彼が1295年に召集した議会は模範議会(大貴族、高位聖職者の他に、各州2人の騎士、各都市2人の市民で構成)と呼ばれ、その後の議会構成のモデルと成ります。

 エドワード3世(在位1327年~77年)の治世に、議会は上院(大貴族、高位聖職者で構成)と下院(騎士と市民構成)に分かれ、課税には下院の承認を必要とすることになり、議会は諮問議会から立法機関へと発展して行きました。

 このエドワード3世の時に有名な百年戦争が勃発します。

 フランスでは10世紀末にカペー朝(987年~1328年)が成立しますが王室領はパリ周辺に限られており王権は弱く、典型的な封建制の下で国王より遥かに広大な領地を持つ大諸侯(ノルマンディー公、ブルターニュ公、アンジュー伯、アキテーヌ公等)の勢力が強かったのです。

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フィリップ2世

 カペー朝第7代の王が有名なフィリップ2世(尊厳王、在位1180年~1223年)です。
フィリップ2世は王領の拡大と中央集権化に努め、封建諸侯と戦って王権を伸張し、フランス王権の基礎を固めて行きました。

 前王ルイ7世(在位1137年~80年)の時代にイギリス領となったフランス西半分の領土の奪回をはかり、ヘンリ2世、リチャード1世と抗争を繰り返します(1187年~)。

 第3回十字軍(1189年~92年)に参加したものの、リチャードと対立して途中から帰国し、後にノルマンディーの領有をめぐってリチャードと戦い(1194年~99年)、更に次王ジョンとも衝突し、ノルマンディー、アンジュー等大陸のイギリス領の大半を奪回、王領を一挙に拡大し(1204年)、その後ジョンはドイツ皇帝と結んで失地奪回を図りますがが、フェリペ2世は連合軍を破って領土を確保します(1214年)。

 当時、南フランスのアルビ地方を中心にアルビジョワ派が盛んとなり、南フランスの諸侯の間に信仰されました。
アルビジョワ派は、マニ教の影響を受け現世は苦と罪のみであると考えて肉体を罪悪視し、禁欲を唱えたカタリ派系キリスト教の一派で異端の宣告を受けていました。
フィリップ2世はアルビジョワ派討伐のためにアルビジョワ十字軍(1209年~29年)を起こし、アルビジョワ派の諸侯を討って南フランスにも王権を拡大します。

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ルイ9世

 フィリップ2世の孫でカペー朝第9代の王位に就いたルイ9世(在位1226年~70年)は敬虔なカトリック教徒で聖王と渾名され、12才で即位したため、最初の10年間は母后が摂政を務め、この間南フランスのアルビジョワ派を根絶して(1229年)、南フランスに王権を拡大しました。

 イギリス王ヘンリ3世との間にパリ条約を結び(1259年)、ノルマンディー、アンジュー、ポワトゥー等の諸地方を獲得し、代わりにギュイエンヌ地方を与えて英仏間の紛争を解決し、内政にも力を尽くしたので、長い治世の間国内は安定し、カペー朝の全盛期を現出しました。

 ルイ9世は第6回十字軍(1248年~54年)、第7回十字軍(1270年)に参加しましが、第7回十字軍の際チュニスで病没しています。

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フィリップ4世

 ルイ9世の孫でカペー朝第11代の王が中世フランスを代表する偉大な王フィリップ4世(在位1285年~1314年)で、彼は王権の強化と国家統一を強力に押し進め、当時のヨーロッパで最初に国家統一を実現しました。

 フィリップ4世は、当時親英、反仏的だったフランドル諸都市(イギリスから羊毛を輸入していたのでイギリスとの繋がりが強かった)とギュイエンヌ(ボルドーを中心とする地方でイギリスにぶどう酒を輸出していた)へのイギリスの影響力を排除し、王領化をはかるために出兵しますが失敗に終わっています。

 フィリップ4世はこの戦争の戦費による財政難を打開するために聖職者への課税を企てて教皇ボニファティウス8世と対立し、三部会を召集し(1302年)、国民の支持を背景にアナーニ事件(1303年)を引き起こし、ボニファティウス8世をアナーニに幽囚して憤死させ、更にフランス人教皇を擁立して教皇庁をアヴィニョンに移し(教皇のバビロン捕囚、1309年~77年)、教皇をフランス王の監視下に置く端緒を開きます。

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フィリップ6世

 フィリップ4世の死後、3人の子供達が後を継ぎますが、シャルル4世の死(1328年)によってカペー朝は断絶し、ヴァロア朝のフィリップ6世即位が有名な百年戦争(1339年~1453年)が起こる発端と成ったのです。

ジョークは如何?

「いいか諸君、われわれにはバターがない。しかし、私は質問したい。諸君はバターと大砲のいずれを欲するか?ラードを輸入するか、それとも金属部品を輸入するか?いいか諸君、バターは我々を太らせるだけだ。」(1936年)

笑いのコツ:ヘルマン・ゲーリングの立派な体格


続く・・・

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