歴史を歩く109
15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立⑤
4百年戦争とばら戦争

イギリスは、ノルマン朝、プランタジネット朝の成立によってフランスに広大な領土を持つこととなり、その奪回をはかるフランスとの間で抗争が繰り返されました。
フランスでフィリップ2世からフィリップ4世の時代に王領の拡大と中央集権化が進むとフランス国内のイギリス領をめぐる英仏の抗争はますます激しくなっていきます。
フィリップ4世はフランドル、ギュイエンヌ地方に対するイギリスの影響力を排除し、その王領化を企ててエドワード1世と両地方をめぐって激しく争いました。
フランドル地方は中世ヨーロッパで最大の毛織物の産地でしたが、その原料である羊毛の大部分を当時のヨーロッパ第一の羊毛生産国であるイギリスから輸入していました。
フィリップ4世は、フランス国王の封建的臣下であるフランドル伯領を直接支配下に組み入れることを画策しますが、イギリスは経済的に緊密な関係にあったフランドルにフランス王の勢力が及ぶことを阻止しようとします。
百年戦争の発端は王位継承問題ですが、最大の原因はこのフランドルをめぐる英仏の争いでした。
又、ギュイエンヌ地方はぶどう酒の特産地として知られ、ボルドーからイギリスに輸出され、イギリスの王侯、貴族に愛飲されていたのです。
フランスではカペー朝断絶後、フィリップ4世の甥のフィリップ6世(在位1328年~50年)が即位し、ヴァロア朝(1328年~1589年)を創始しました。
フィリップ6世は、イギリス王がギュイエンヌに関して、フランス王の封建的臣下であることを利用し、口実を設けてギュイエンヌの領地没収を宣言しました(1337年)。

「エドワード3世のソンム川の渡河」1788年製作
これに対してイギリス国王エドワード3世(在位1327年~77年)は、母イサベラがフィリップ4世の娘であることから、甥のフィリップ6世に王位継承権が存在するなら、孫の自分にも当然王位継承権が存在すると主張し(1337年)、その一方でフランドル諸都市に対しては羊毛輸出禁止を発令して対仏反乱を誘導し、百年戦争(1339年~1453年)が始まります。
王位継承権に関する書簡を送った翌年、イギリス軍がノルマンディーに上陸し、その翌年に戦争が始まります。
近年、この戦争開始の年(1339年)をもって百年戦争の開始としています。
百年戦争と呼ばれていますが、百年間絶えず戦争が続けられた訳では無く、休戦期間も長く、時折決戦が行われたのでした。

エドワード黒太子
百年戦争の最初の決戦となったのがクレシーの戦い(1346年、クレシーは北仏、カレーの南)です。この戦いではエドワード黒太子(エドワード3世の長男、黒い鎧を着用していたことからBlack Princeと呼ばれた)の率いるイギリス長弓隊が活躍し、重装騎兵とジェノヴァの傭兵からなる弩(いしゆみ)隊に完勝しました。
又、イギリス軍が初めて大砲を使用した戦いとしても有名で、クレシーの戦いの翌年、イギリス軍はカレーを占領してこの町を大陸への足がかりとしました。

ポワティエの戦い(1356年)
エドワード黒太子は、1355年にイギリス領ギュイエンヌに渡り、翌年北上してロワール川流域に進出し、戦利品を獲得して引き上げようとしていた時、ノルマンディーから南下してきたフランス国王ジャン2世(在位1350年~64年)の軍勢と遭遇し、ここにポワティエの戦い(1356年)が始まりました。
この戦いは激戦の末にイギリス軍の勝利に終わり、敗れたジャンは捕虜と成ります。
これより前に西ヨーロッパではペストが大流行し(1346年~50年)、フランスでも人口の3分の1が病死したと云われており、更に大農民反乱であるジャックリーの乱(1358年)が起こるなどフランス国内は大混乱に陥りました。
こうした状況の中でブレティニーの和約が結ばれ、イギリスはポワトゥー・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・カレーを獲得する代わりに王位継承権を放棄、ジャン2世を釈放、一時休戦と成りました。

シャルル5世
フランスでジャン2世の死後、名君シャルル5世(在位1364年~80年)が即位すると、イギリスに占領された地を次々に奪回し(1369年~75年)、75年にはイギリスはカレー・ボルドー・バヨンヌ(フランス南西部)を残すのみと成ります。
シャルル5世の死後、長男シャルル6世(在位1380年~1422年)が11歳で即位しますが、不幸にもブルターニュ地方に遠征した際に発狂し、以後長い狂気と短い正気を繰り返したのでブルゴーニュ公が摂政となりました。
以後、フランス国内の諸侯は、オルレアン公(シャルル6世の弟)を中心とするアルマニャック派(国王派)とブルゴーニュ公(シャルル6世の叔父)を中心とするブルゴーニュ派に2分され、対立、抗争を続けます。
ブルゴーニュ公は、当時フランドルを併合し、フランス東部に強大な勢力を打ち立てていましたが、後にイギリスと手を結びます。
一方、イギリスではエドワード3世の後、リチャード2世(在位1377年~99年、エドワード黒太子の子)が即位しますが、一族のランカスター家のヘンリ(後のヘンリ4世)と争い、捕えられて廃位後に暗殺され、プランタジネット朝は断絶し、ランカスター朝(1399年~1461年)が成立しました。
ジョークは如何?
エッフェル塔の展望階にあるカフェにて
係員:「貴方は毎日エッフェル塔に来てらっしゃる。よほどここがお好きなんですね」
老人:「わしはエッフェル塔など好きではない。むしろ嫌いだ」
係員:「何故嫌いなのに来てらっしゃるのですか?」
老人:「ここからはエッフェル塔が見えん」
続く・・・
4百年戦争とばら戦争

イギリスは、ノルマン朝、プランタジネット朝の成立によってフランスに広大な領土を持つこととなり、その奪回をはかるフランスとの間で抗争が繰り返されました。
フランスでフィリップ2世からフィリップ4世の時代に王領の拡大と中央集権化が進むとフランス国内のイギリス領をめぐる英仏の抗争はますます激しくなっていきます。
フィリップ4世はフランドル、ギュイエンヌ地方に対するイギリスの影響力を排除し、その王領化を企ててエドワード1世と両地方をめぐって激しく争いました。
フランドル地方は中世ヨーロッパで最大の毛織物の産地でしたが、その原料である羊毛の大部分を当時のヨーロッパ第一の羊毛生産国であるイギリスから輸入していました。
フィリップ4世は、フランス国王の封建的臣下であるフランドル伯領を直接支配下に組み入れることを画策しますが、イギリスは経済的に緊密な関係にあったフランドルにフランス王の勢力が及ぶことを阻止しようとします。
百年戦争の発端は王位継承問題ですが、最大の原因はこのフランドルをめぐる英仏の争いでした。
又、ギュイエンヌ地方はぶどう酒の特産地として知られ、ボルドーからイギリスに輸出され、イギリスの王侯、貴族に愛飲されていたのです。
フランスではカペー朝断絶後、フィリップ4世の甥のフィリップ6世(在位1328年~50年)が即位し、ヴァロア朝(1328年~1589年)を創始しました。
フィリップ6世は、イギリス王がギュイエンヌに関して、フランス王の封建的臣下であることを利用し、口実を設けてギュイエンヌの領地没収を宣言しました(1337年)。

「エドワード3世のソンム川の渡河」1788年製作
これに対してイギリス国王エドワード3世(在位1327年~77年)は、母イサベラがフィリップ4世の娘であることから、甥のフィリップ6世に王位継承権が存在するなら、孫の自分にも当然王位継承権が存在すると主張し(1337年)、その一方でフランドル諸都市に対しては羊毛輸出禁止を発令して対仏反乱を誘導し、百年戦争(1339年~1453年)が始まります。
王位継承権に関する書簡を送った翌年、イギリス軍がノルマンディーに上陸し、その翌年に戦争が始まります。
近年、この戦争開始の年(1339年)をもって百年戦争の開始としています。
百年戦争と呼ばれていますが、百年間絶えず戦争が続けられた訳では無く、休戦期間も長く、時折決戦が行われたのでした。

エドワード黒太子
百年戦争の最初の決戦となったのがクレシーの戦い(1346年、クレシーは北仏、カレーの南)です。この戦いではエドワード黒太子(エドワード3世の長男、黒い鎧を着用していたことからBlack Princeと呼ばれた)の率いるイギリス長弓隊が活躍し、重装騎兵とジェノヴァの傭兵からなる弩(いしゆみ)隊に完勝しました。
又、イギリス軍が初めて大砲を使用した戦いとしても有名で、クレシーの戦いの翌年、イギリス軍はカレーを占領してこの町を大陸への足がかりとしました。

ポワティエの戦い(1356年)
エドワード黒太子は、1355年にイギリス領ギュイエンヌに渡り、翌年北上してロワール川流域に進出し、戦利品を獲得して引き上げようとしていた時、ノルマンディーから南下してきたフランス国王ジャン2世(在位1350年~64年)の軍勢と遭遇し、ここにポワティエの戦い(1356年)が始まりました。
この戦いは激戦の末にイギリス軍の勝利に終わり、敗れたジャンは捕虜と成ります。
これより前に西ヨーロッパではペストが大流行し(1346年~50年)、フランスでも人口の3分の1が病死したと云われており、更に大農民反乱であるジャックリーの乱(1358年)が起こるなどフランス国内は大混乱に陥りました。
こうした状況の中でブレティニーの和約が結ばれ、イギリスはポワトゥー・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・カレーを獲得する代わりに王位継承権を放棄、ジャン2世を釈放、一時休戦と成りました。

シャルル5世
フランスでジャン2世の死後、名君シャルル5世(在位1364年~80年)が即位すると、イギリスに占領された地を次々に奪回し(1369年~75年)、75年にはイギリスはカレー・ボルドー・バヨンヌ(フランス南西部)を残すのみと成ります。
シャルル5世の死後、長男シャルル6世(在位1380年~1422年)が11歳で即位しますが、不幸にもブルターニュ地方に遠征した際に発狂し、以後長い狂気と短い正気を繰り返したのでブルゴーニュ公が摂政となりました。
以後、フランス国内の諸侯は、オルレアン公(シャルル6世の弟)を中心とするアルマニャック派(国王派)とブルゴーニュ公(シャルル6世の叔父)を中心とするブルゴーニュ派に2分され、対立、抗争を続けます。
ブルゴーニュ公は、当時フランドルを併合し、フランス東部に強大な勢力を打ち立てていましたが、後にイギリスと手を結びます。
一方、イギリスではエドワード3世の後、リチャード2世(在位1377年~99年、エドワード黒太子の子)が即位しますが、一族のランカスター家のヘンリ(後のヘンリ4世)と争い、捕えられて廃位後に暗殺され、プランタジネット朝は断絶し、ランカスター朝(1399年~1461年)が成立しました。
ジョークは如何?
エッフェル塔の展望階にあるカフェにて
係員:「貴方は毎日エッフェル塔に来てらっしゃる。よほどここがお好きなんですね」
老人:「わしはエッフェル塔など好きではない。むしろ嫌いだ」
係員:「何故嫌いなのに来てらっしゃるのですか?」
老人:「ここからはエッフェル塔が見えん」
続く・・・
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