歴史を歩く116
1ルネサンス②
2文学

イタリア・ルネサンスの先駆者となった人物は、ダンテ(1265年~1321年)でした。
フィレンツェの貴族階級に生まれたダンテは、ボローニャ大学で修辞学を学び、ラテン文学や哲学の教養を積み、9歳の時に美少女ベアトリーチェ(8歳)に出会い、永遠の女性として生涯思い続けました。
ベアトリーチェは別の男性に嫁ぎ24歳で亡くなりますが、彼女への思慕は「新生」(1293年頃)に歌われています。

ダンテとベアトリーチェの再開
その後、政治活動に没頭し(1295年~1302年)、ゲルフ党に属してフィレンツェの統領に推されますが、反対党によって永久追放され、以後各地を放浪し、その間に「神曲」(1304年~21年)を書き、最後はラヴェンナの君主のためにヴェネツィアに使いし、その帰途病死します。

ステュクスの沼-船頭プレギュアス(地獄篇第八歌)ギュスターヴ・ドレ
「神曲」は、地獄・煉獄(カトリック教で死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられた場所)・天国の3編からなる大叙事詩で、ダンテ自身が古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれて地獄と煉獄を、そしてベアトリーチェに導かれて天国を巡り、歴史上の人物の死後の姿に出会う構想で描かれています。
ダンテは、この「神曲」をラテン語でなく、トスカナ語(フィレンツェを中心とするトスカナ地方の口語)で描いた結果、「神曲」はイタリア国民文学の最初の作品とされています。

ペトラルカ(1304年~74年)の父はダンテと共にフィレンツェを追放され、ペトラルカはその父と共に各地を転籍し、ボローニャ大学で法学を学んだ後にアヴィニョン教皇庁に聖職者として仕えて文学を志しました。
その頃、美しい人妻ラウラに出会い、彼女への思慕を「叙情詩集」に歌っています。
その後、諸国を巡り、この間ラテン古典の文献収集や復活に努め、ヒューマニズム(人文主義)の先駆者となり、最初のヒューマニスト(人文主義者)と呼ばれました。

ボッカチオ
ペトラルカの友人であったボッカチオ(1313年~75年)は、フィレンツェの富裕商人の私生児として生まれ、ナポリで商業の見習いと法律を学びながら文学に没頭し、後にフィレンツェに戻り、「デカメロン」(1348年~53年)を著しました。
晩年はフィレンツェ近郊で古典の研究に専念し、ペトラルカとも深く交わり、ペトラルカの死の翌年に没しています。

デカメロン:ギリシャ語の10日deka hemeraiに由来
「デカメロン」は十日物語とも訳され、黒死病(ペスト)の流行を避けた3人の紳士と7人の淑女が森の奥の小屋で共同生活をするなかで退屈をまぎらすために、各人1日1話ずつ、10日で100の話を語り合う形式になっています。
このなかでボッカチオは聖職者や王侯等を風刺し、人間の性欲・物欲を赤裸々に描いたため「デカメロン」は後世好色本の代名詞となりました。
後にボッカチオはこの作品を涜神として否定したが、「デカメロン」は、ダンテの「神曲」に対して「人曲」と呼ばれ、近代小説の先駆とされいます。
ジョークは如何?
パーティもたけなわの頃、バレンティノが美しいマダムの耳元で
囁いた。
「奥さま、あなたを愛しています」
「まあ、お目にかかって間もないのにあなたは私のハートを
お求めになるのね?」
「とんでもない。そんな高いところまでは望んでおりません」
続く・・・
2文学

イタリア・ルネサンスの先駆者となった人物は、ダンテ(1265年~1321年)でした。
フィレンツェの貴族階級に生まれたダンテは、ボローニャ大学で修辞学を学び、ラテン文学や哲学の教養を積み、9歳の時に美少女ベアトリーチェ(8歳)に出会い、永遠の女性として生涯思い続けました。
ベアトリーチェは別の男性に嫁ぎ24歳で亡くなりますが、彼女への思慕は「新生」(1293年頃)に歌われています。

ダンテとベアトリーチェの再開
その後、政治活動に没頭し(1295年~1302年)、ゲルフ党に属してフィレンツェの統領に推されますが、反対党によって永久追放され、以後各地を放浪し、その間に「神曲」(1304年~21年)を書き、最後はラヴェンナの君主のためにヴェネツィアに使いし、その帰途病死します。

ステュクスの沼-船頭プレギュアス(地獄篇第八歌)ギュスターヴ・ドレ
「神曲」は、地獄・煉獄(カトリック教で死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられた場所)・天国の3編からなる大叙事詩で、ダンテ自身が古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれて地獄と煉獄を、そしてベアトリーチェに導かれて天国を巡り、歴史上の人物の死後の姿に出会う構想で描かれています。
ダンテは、この「神曲」をラテン語でなく、トスカナ語(フィレンツェを中心とするトスカナ地方の口語)で描いた結果、「神曲」はイタリア国民文学の最初の作品とされています。

ペトラルカ(1304年~74年)の父はダンテと共にフィレンツェを追放され、ペトラルカはその父と共に各地を転籍し、ボローニャ大学で法学を学んだ後にアヴィニョン教皇庁に聖職者として仕えて文学を志しました。
その頃、美しい人妻ラウラに出会い、彼女への思慕を「叙情詩集」に歌っています。
その後、諸国を巡り、この間ラテン古典の文献収集や復活に努め、ヒューマニズム(人文主義)の先駆者となり、最初のヒューマニスト(人文主義者)と呼ばれました。

ボッカチオ
ペトラルカの友人であったボッカチオ(1313年~75年)は、フィレンツェの富裕商人の私生児として生まれ、ナポリで商業の見習いと法律を学びながら文学に没頭し、後にフィレンツェに戻り、「デカメロン」(1348年~53年)を著しました。
晩年はフィレンツェ近郊で古典の研究に専念し、ペトラルカとも深く交わり、ペトラルカの死の翌年に没しています。

デカメロン:ギリシャ語の10日deka hemeraiに由来
「デカメロン」は十日物語とも訳され、黒死病(ペスト)の流行を避けた3人の紳士と7人の淑女が森の奥の小屋で共同生活をするなかで退屈をまぎらすために、各人1日1話ずつ、10日で100の話を語り合う形式になっています。
このなかでボッカチオは聖職者や王侯等を風刺し、人間の性欲・物欲を赤裸々に描いたため「デカメロン」は後世好色本の代名詞となりました。
後にボッカチオはこの作品を涜神として否定したが、「デカメロン」は、ダンテの「神曲」に対して「人曲」と呼ばれ、近代小説の先駆とされいます。
ジョークは如何?
パーティもたけなわの頃、バレンティノが美しいマダムの耳元で
囁いた。
「奥さま、あなたを愛しています」
「まあ、お目にかかって間もないのにあなたは私のハートを
お求めになるのね?」
「とんでもない。そんな高いところまでは望んでおりません」
続く・・・
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