歴史を歩く120
1ルネサンス⑥
3美術の黄金時代②
イタリア・ルネサンス絵画は、15世紀後半から16世紀前半にかけてボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ等が活躍し黄金時代を迎えました。

「春」

ヴィーナスの誕生
ボッティチェリ(1444年頃~1510年)は、フィレンツェに生まれ、メディチ家の依頼で「春」(1478年)や「ヴィーナスの誕生」(1488年)等多くの作品を制作しました。
「春」と「ヴィーナスの誕生」は官能的な女体美を描いた作品で、発表当時人々に大変な衝撃を与えたと云われています。

最後の晩餐

モナ・リザ
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)は、フィレンツェ近郊のヴィンチ村に生まれ、フィレンツェ、ミラノ、ローマで活躍しました。
彼は画家、彫刻家、建築家として活躍しただけでなく、物理学、解剖学、植物学等の諸科学、飛行の原理や軍事技術等の諸技術にも優れた天才でルネサンスの理想像であった「万能人」の典型でした。
絵画の分野でも、「最後の晩餐」(1495年~98年の作)や「モナ・リザ」(1503年頃の作)等の有名な作品を描いています。
「最後の晩餐」は、キリスト受難前の弟子達との最後の夕食を題材とし、「汝らの一人、我を売らん」というイエスの言葉に動揺する12人の弟子達の姿がみごとに描かれている名作です。
「モナ・リザ」は、ジョコンダ像とも呼ばれる婦人の肖像画で、謎の微笑といわれる神秘的な表情で有名です。

ダヴィデ像

最後の審判
ミケランジェロ(1475年~1564年)は、彫刻家、画家、建築家でレオナルド・ダ・ヴィンチと並ぶルネサンスの巨匠であり、メディチ家の保護を受け、叉ローマ教皇に仕えてフィレンツェ、ローマで創作活動を行った。
彫刻では、「ピエタ」や「ダヴィデ像」、「モーゼ像」が有名ですが、「ダヴィデ像」は若き日のダヴィデ(古代ヘブライ王国の第2代の王)をモデルにした5.4mもある巨大な彫刻で、フィレンツェ共和国の自由と独立の象徴としてつくられました。
壮年期のミケランジェロの2大作は、教皇ユリウス2世の墓廟(1513年から40年を費やした)とシスティナ礼拝堂(ヴァチカン宮殿内の主要礼拝堂でサン・ピエトロ大聖堂の側にある)の天井画です(1508年~12年の作)。
システィナ礼拝堂の天井画は、旧約聖書の天地創造や楽園追放等の場面を描いた雄大で迫力に満ちた作品です。
後にシスティナ礼拝堂の祭壇の奥の壁に「最後の審判」を描きました(1536年~41年)。
「最後の審判」はイエスが裸体で描かれていたので非難を集めましたが、力強さと気品に満ちたミケランジェロの最高傑作と評価されています。
叉ラファエロの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂の改築の責任者となり(1546年)、ブラマンテの設計を縮小して大聖堂の大部分を建設しました。
ミケランジェロは生涯独身を通し、死の数日前迄制作を続け89歳の生涯をローマで終えました。

聖母子像より美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び称せられるルネサンス三大巨匠の一人であるラファエロ(1483年~1520年)は画家、建築家として活躍しました。
幼いときから絵画を仕込まれ、後にフィレンツェに出て(1504年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの影響を強く受け、一連の「聖母子像」を描いて名声を確立します。
一連のマリア像は女性の優しさ、美しさを余すところなく描き出した名作と賞賛されています。
ローマに出てからは(1508年以降)、教皇ユリウス2世、レオ10世に重く用いられ、ブラマンテの死後、サン・ピエトロ大聖堂の改築主任と成りますが(1514年)、37歳の若さで没しています。

ファン・アイク兄弟・神秘の子羊
イタリアでルネサンス絵画が勃興した頃、ネーデルランドにもファン・アイク兄弟(兄1366年頃~1426年、弟1380年頃~1441年)が登場し、油絵画法を創めて、フランドル派を創始し、写実的な画風で宗教画や肖像画を残しています。

ブリューゲル(1528年~69年)は、フランドル(現ベルギー)の農民出身の画家で、故郷の村の名を取って姓としました。
彼は当時では例外的に名もない農民達とその生活を好んで描いたので「農民のブリューゲル」と呼ばれました。
彼の絵画は20世紀初頭に再評価され、今日でも高く評価され、代表作に「結婚祝い」「農民の踊り」等が在ります。

Melancolia(メランコリア)
ドイツでは、デューラーやホルバインらが活躍した。
デューラー(1471年~1528年)は、ニュルンベルクで金細工師の子に生まれ、父に金細工を学んだ後に絵画と木版画を学びました。
イタリア、ネーデルランド等各地を遍歴して修業し、帰国後重く沈んだ宗教的な名画「四使徒」を制作し(1526年)、叉絵画の他に多くの優れた木版画や銅版画も残しました。

ヘンリ8世像
ホルバイン(1497年~1543年)は、アウグスブルクに生まれ、スイスのバーゼルに住み、個々でエラスムスの「愚神礼讃」の挿し絵を描いたことが縁となり、トマス・モアに招かれてロンドンに滞在し、一度帰国し、その後再びイギリスに渡り以後永住しました。
やがてヘンリ8世の宮廷画家となり、「エラスムス像」「ヘンリ8世像」「トマス・モア像」等の優れた肖像画を残しました。
ジョークは如何?
ルーマニアの洪水では欧米や日本、ロシアからの援助があった。
米国からのドルは道路を復旧させた。
日本からの円は新しい橋になった。
ロシアからのルーブルは尻ふき紙になった。
続く・・・
3美術の黄金時代②
イタリア・ルネサンス絵画は、15世紀後半から16世紀前半にかけてボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ等が活躍し黄金時代を迎えました。

「春」

ヴィーナスの誕生
ボッティチェリ(1444年頃~1510年)は、フィレンツェに生まれ、メディチ家の依頼で「春」(1478年)や「ヴィーナスの誕生」(1488年)等多くの作品を制作しました。
「春」と「ヴィーナスの誕生」は官能的な女体美を描いた作品で、発表当時人々に大変な衝撃を与えたと云われています。

最後の晩餐

モナ・リザ
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)は、フィレンツェ近郊のヴィンチ村に生まれ、フィレンツェ、ミラノ、ローマで活躍しました。
彼は画家、彫刻家、建築家として活躍しただけでなく、物理学、解剖学、植物学等の諸科学、飛行の原理や軍事技術等の諸技術にも優れた天才でルネサンスの理想像であった「万能人」の典型でした。
絵画の分野でも、「最後の晩餐」(1495年~98年の作)や「モナ・リザ」(1503年頃の作)等の有名な作品を描いています。
「最後の晩餐」は、キリスト受難前の弟子達との最後の夕食を題材とし、「汝らの一人、我を売らん」というイエスの言葉に動揺する12人の弟子達の姿がみごとに描かれている名作です。
「モナ・リザ」は、ジョコンダ像とも呼ばれる婦人の肖像画で、謎の微笑といわれる神秘的な表情で有名です。

ダヴィデ像

最後の審判
ミケランジェロ(1475年~1564年)は、彫刻家、画家、建築家でレオナルド・ダ・ヴィンチと並ぶルネサンスの巨匠であり、メディチ家の保護を受け、叉ローマ教皇に仕えてフィレンツェ、ローマで創作活動を行った。
彫刻では、「ピエタ」や「ダヴィデ像」、「モーゼ像」が有名ですが、「ダヴィデ像」は若き日のダヴィデ(古代ヘブライ王国の第2代の王)をモデルにした5.4mもある巨大な彫刻で、フィレンツェ共和国の自由と独立の象徴としてつくられました。
壮年期のミケランジェロの2大作は、教皇ユリウス2世の墓廟(1513年から40年を費やした)とシスティナ礼拝堂(ヴァチカン宮殿内の主要礼拝堂でサン・ピエトロ大聖堂の側にある)の天井画です(1508年~12年の作)。
システィナ礼拝堂の天井画は、旧約聖書の天地創造や楽園追放等の場面を描いた雄大で迫力に満ちた作品です。
後にシスティナ礼拝堂の祭壇の奥の壁に「最後の審判」を描きました(1536年~41年)。
「最後の審判」はイエスが裸体で描かれていたので非難を集めましたが、力強さと気品に満ちたミケランジェロの最高傑作と評価されています。
叉ラファエロの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂の改築の責任者となり(1546年)、ブラマンテの設計を縮小して大聖堂の大部分を建設しました。
ミケランジェロは生涯独身を通し、死の数日前迄制作を続け89歳の生涯をローマで終えました。

聖母子像より美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び称せられるルネサンス三大巨匠の一人であるラファエロ(1483年~1520年)は画家、建築家として活躍しました。
幼いときから絵画を仕込まれ、後にフィレンツェに出て(1504年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの影響を強く受け、一連の「聖母子像」を描いて名声を確立します。
一連のマリア像は女性の優しさ、美しさを余すところなく描き出した名作と賞賛されています。
ローマに出てからは(1508年以降)、教皇ユリウス2世、レオ10世に重く用いられ、ブラマンテの死後、サン・ピエトロ大聖堂の改築主任と成りますが(1514年)、37歳の若さで没しています。

ファン・アイク兄弟・神秘の子羊
イタリアでルネサンス絵画が勃興した頃、ネーデルランドにもファン・アイク兄弟(兄1366年頃~1426年、弟1380年頃~1441年)が登場し、油絵画法を創めて、フランドル派を創始し、写実的な画風で宗教画や肖像画を残しています。

ブリューゲル(1528年~69年)は、フランドル(現ベルギー)の農民出身の画家で、故郷の村の名を取って姓としました。
彼は当時では例外的に名もない農民達とその生活を好んで描いたので「農民のブリューゲル」と呼ばれました。
彼の絵画は20世紀初頭に再評価され、今日でも高く評価され、代表作に「結婚祝い」「農民の踊り」等が在ります。

Melancolia(メランコリア)
ドイツでは、デューラーやホルバインらが活躍した。
デューラー(1471年~1528年)は、ニュルンベルクで金細工師の子に生まれ、父に金細工を学んだ後に絵画と木版画を学びました。
イタリア、ネーデルランド等各地を遍歴して修業し、帰国後重く沈んだ宗教的な名画「四使徒」を制作し(1526年)、叉絵画の他に多くの優れた木版画や銅版画も残しました。

ヘンリ8世像
ホルバイン(1497年~1543年)は、アウグスブルクに生まれ、スイスのバーゼルに住み、個々でエラスムスの「愚神礼讃」の挿し絵を描いたことが縁となり、トマス・モアに招かれてロンドンに滞在し、一度帰国し、その後再びイギリスに渡り以後永住しました。
やがてヘンリ8世の宮廷画家となり、「エラスムス像」「ヘンリ8世像」「トマス・モア像」等の優れた肖像画を残しました。
ジョークは如何?
ルーマニアの洪水では欧米や日本、ロシアからの援助があった。
米国からのドルは道路を復旧させた。
日本からの円は新しい橋になった。
ロシアからのルーブルは尻ふき紙になった。
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんにちは。
仕事場で冷房は入っていますが、毎日汗びっしょりです。
皆さん同じでしょうね。電力節約で設定温度が高いですから。
道行く道路沿いに百日紅の花が咲き出し、ピンクや白の花が心を癒してくれます。
大型台風が接近中ですが、東へ東へずっとそれてくれると良いのですが。
2015-07-14 15:42 hayama(葉山左京) URL 編集