2015/08/08

歴史を歩く127

17ヨーロッパ世界の拡大③

3新大陸への到達

 ポルトガルより大西洋進出が出遅れたスペインは、西回りインド航路の開拓に関心を示しました。

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トスカネリと世界地図

 フィレンツェの天文・地理学者トスカネリ(1397年~1482年)は地球球体説と大西洋を西航する方がインドへの近道であるとする説を唱えてコロンブスに大きな影響を与えます。
当時の世界地図やトスカネリが作成した地図には、もちろん新大陸は描かれてないので、ジパング(日本)の位置は今のメキシコの辺りと考えられていた様です。

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バロセロナに立つコロンブス像

 ジェノヴァ生まれの船乗りコロンブス(1451年~1506年)は、このトスカネリ説を信じて西回りインド航路の開拓をポルトガル王に進言したものの受け入れられず、スペインに赴いてスペイン女王イサベル(在位1479年~1504年)を説得し続け、ついにイサベルの援助を得て、1492年8月に3隻の船と120人を率いてパロス港を出航しました。

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コロンブス船団(サンタマリア号・ピンタ号・ニーニャ号)

 コロンブス船団はカナリア諸島で食料や飲料水を補給し、9月2日にカナリア諸島を出帆、以後は陸地を見ることなく困難な航海を続け、10月12日現在のバハマ諸島に到達し、最初に到達した島にサンサルバドル島と命名します。
更に近辺のキューバ、ハイチ島等を探検して、1493年3月に帰国し、大歓迎を受け、コロンブスは発見地の総督に任命されました。

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新大陸到達

 コロンブスはその後も、第2回(1493年~96年)、第3回(1498年~1500年)、第4回(1502年~04年)と航海を繰り返し、南米や中米にも到達し、植民地の建設等に努めますが、中傷によって失脚し、総督職も解かれ、不遇、失意のうちに没しています。

 コロンブスは、中米、南米の発見地をインドの一部と信じていたため、その地の先住民をインディオ(インディアン)と呼び、又彼が到達したカリブ海に散在する島々は西インド諸島と呼ばれるように成りました。

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ペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Alvares Cabral)

 ポルトガル人のカブラル(1460年頃~1526年)は、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓の後に、国王からインドへの航海を命じられ、1500年にリスボンを出航しますが、暴風のためにブラジルのバイア地方南の海岸に漂着し、同地をポルトガル領と宣言し、その後も航海を続けてインドに到達し、翌年リスボンに帰航しました。

 ポルトガルとスペインの対外進出が進むにつれて、両国の間に植民や貿易をめぐって勢力争いが起こります。
コロンブスが「アジア」(実際は新大陸)に到達した報が伝わると、教皇アレクサンデル6世(在位1492年~1503年)は両国の争いを調停するために、スペインの要請によって1493年に教皇子午線(ブラジルの東端を通る線)を設定し、その東をポルトガル、西をスペインの勢力圏と定めました。

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 これにポルトガルが抗議して両国が協議した結果、トルデシリャス条約(1494年)が結ばれ、教皇子午線は西方に移動します。

 カブラルが漂着した地はこの条約の線より東にあったので、ブラジルはポルトガル領となり、その後のスペインの植民地活動によって、中南米のほとんどの地域がスペイン領と成りますが、ブラジルだけがポルトガル領として残ります。
そのため今日でも殆んどの中南米諸国がスペイン語を公用語としている中で、ブラジルのみがポルトガル語を公用語としています。

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アメリゴ・ヴェスプッチ

 フィレンツェ生まれのアメリゴ・ヴェスプッチ(1454年~1512年)は、1497年以後4回にわたってスペインやポルトガルのアメリカ遠征隊に参加して新大陸を探検し、コロンブスが発見した土地はアジアではなく、「新大陸」であるとの見解を報告しました。
そのためドイツの地理学者ヴァルトゼー・ミューラーがアメリゴ・ヴェスプッチの名を取ってアメリカと呼んで(1507年)以来一般化し、新大陸はアメリカ大陸と呼ばれるように成ります。
その結果、今日コロンブスの名は僅かにコロンビアに残るに過ぎなくなっています。

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フェルナン・デ・マガリャンイス(Fernão de Magalhães )

 ポルトガル人のマガリャンイス(マゼラン、1480年頃~1521年)は、下級貴族に生まれ、1505年からインド総督の下で軍務につき、ゴア征服やモルッカ諸島征服にも従事し、この頃西回り航路でモルッカ諸島に至る計画を立ててポルトガル王に援助を依頼したが拒絶され、亡命したスペインのカルロス1世から特許を得て、1519年8月に5隻と265人からなる船団を率いてセビリャを出帆しました。
 
 マガリャンイスはリオデジャネイロに同年12月に到達し、そこから南下して翌年1月にラプラタ川に到達し、そこに留まって海峡を探しますが、後にその水域が川と分かり、荒れる海と寒さに苦しめられながら更に南下を続けてパタゴニア南部に達し、その地で5ヶ月間越冬します。

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マゼラン海峡通過

この間、乗組員の反乱が起こり、また船を1隻失ったものの、この困難を乗り越えて更に南下し、マゼラン海峡(南アメリカ大陸とフェゴ島の間)を発見、1520年10月に3隻の船団は(1隻が脱走して3隻になっていた)終に太平洋を望みました。

それまでの荒れた海から静かな海に出たマガリャンイスは、この海を太平洋(Pacific Ocean、穏やかな・平和な海の意味)と命名します。

 以後100日を越す航海で太平洋を横断したものの、一度も陸地を発見せず、食料と飲料水は底をつき、ねずみや皮をかじり、腐った水を飲み、壊血病に苦しめられながらも、グァム島を経てフィリッピン諸島に到着しました。

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マガリャンイス艦隊・ヴィクトリア号

 マガリャンイスはその地のスペイン領化を進めたが、セブ島で住民の争いに巻き込まれて戦死しますが、残った少数の部下達はアフリカ南端を回って、1522年9月にパロスに帰還を果たしました。
帰国したのは当に廃船同然に成った1隻と18人の乗組員でした。
こうしてマガリャンイスとその部下によって世界史上最初の世界周航が成し遂げられ、地球が球形であることが実証されたのです。

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続く・・・

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