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2015/08/13

歴史を歩く128

17ヨーロッパ世界の拡大④

4スペインによるアステカとインカの征服

 コロンブスによるアメリカ大陸への到達以後、スペイン人はアメリカ大陸の征服と開拓を中心とする植民活動を行いました。

 アメリカ大陸の先住民であるインディオ(インディアン)は、ベーリング海峡がまだアジアと陸続きであった時に、モンゴロイド系の一部が移住、拡散した人々で、古くから独自の文化を形成していました。

 アメリカ大陸では、既に紀元前1000年頃から、メソアメリカ文明やアンデス文明等の古代アメリカ文明が発展していました。

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テオティワカン

 メキシコ湾岸では、紀元前1000年頃からオルメカ文明が、メキシコ高原では紀元前2世紀~紀元後6世紀にテオティワカン文明が成立していました。
そして6世紀~14世紀にはユカタン半島を中心にマヤ文明が栄え、メキシコのアステカ文明に受け継がれますが、これ等の文明は総称してメソアメリカ文明と呼ばれています。

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マヤ文明:チチェンイッツア遺跡

 マヤ文明は、マヤ族がユカタン半島を中心に形成した都市文明で、紀元前500年頃から始まり、4世紀以後都市国家が形成されました。
神殿、石造の階段ピラミッド、天文台が建造され、二十進法による記数法、精密な太陽暦、象形文字等を持つ独自の文明が発達しました。
住民は石器を使用し、とうもろこしやじゃがいもを栽培していました。

 マヤ文明は10世紀~13世紀に最盛期を迎えますが、その後メキシコ・インディアンに破壊され、その文明はアステカ文明に継承されます。

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テノチティトラン

 メキシコ高原では、北部に興ったアステカ(チチメカ)族が、6世紀~10世紀にかけて栄えたトルテカ文明に打撃を与えつつ南下し、他種族を制圧して12世紀中頃にメキシコ中央高原に進出します。14世紀中頃に首都テノチティトランを建設し、15世紀にはアステカ王国を建設しました。

 アステカ族はマヤ文明やトルテカ文明を継承し、神殿、ピラミッド、象形文字、彩文土器、太陽暦を持つ文明を発達させた一方、鉄器や車輪の使用は最後迄知ることは在りませんでした。

 アステカ文明は1521年にスペイン人のフェルナンド・コルテスによって滅ぼされました。

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チャビン文化

 南米のアンデス山脈一帯では、紀元前1000年頃に北部ペルーにチャビン文化が形成され、以後モチイカ文化(1世紀~8世紀、ペルー北部中心)、ナスカ文化(1世紀~8世紀、ペルー南部中心)、ティアワナコ文明(1世紀~12世紀、ボリビア高原中心)等の文化が成立しました。

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インカ帝国・首都クスコ(現在)

 ペルー・ボリビアに居住していたインカ(ケチュア)族は、1200年頃からアンデス山脈一帯の諸王国を次第に統合、15世紀後半にはエクアドルからチリに至る広大な統一国家・インカ帝国(タワンティン・スウユ)を形成し、都をクスコに定めました。

 インカ帝国では、太陽の化身である国王(インカ、太陽の子の意味)が強大な権力を持ち、優れた石造技術によって神殿、宮殿、道路、灌漑施設等が建設され、人々はとうもろこし、じゃがいもを栽培し、リャマ、アルパカ等の小型家畜を飼養しました(新大陸には牛、馬、羊等の大型家畜は居なかった)。

 インカ文明も鉄器の利用を知りませんでしたが青銅器は知られており、叉金、銀は装飾用に大量に使用され、インカでは金、銀細工や美しい陶器、織物等が作られたのです。

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キープ(結縄)

 インカの人々は文字を持ちませんでした。
キープ(結縄)と呼ばれる縄の結び目によって意味や数量を示す記録方法を用いています。

 インカ帝国も1533年にスペイン人のフランシスコ・ピサロによって滅ぼされました。

 スペインはコルテスやピサロに代表される「コンキスタドレス」(征服者)を新大陸に送り込み、インディオの諸王国を征服し、中米から南米にかけて広大な植民地を築き上げて行きました。

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エルナン・コルテス

 コルテス(1485年~1547年)は、スペインの下級貴族の家に生まれ、新大陸に渡って(1504年)キューバで活躍した後に、キューバ総督の命を受けて、兵500人、馬16頭、銃約50丁を持ってメキシコ探検に出発しました。
ユカタン半島に上陸し、反アステカ同盟と結んでアステカの首都テノチティトランを占領し(1519年)、その後反撃に出たアステカ王国軍を打ち破って首都を占領して略奪、破壊を行い、アステカ王国を滅ぼします(1521年)。

コルテスはノバ・イスパニア(新イスパニア=メキシコ)の総督に任命されますが、強引な政策を強行した結果、総督を罷免され失意の内に帰国し(1526)、その後も各地の探検を行うものの不遇の晩年を過ごし、失意のうちに本国で他界します。

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メキシコ銀

 メキシコ征服によって、スペインは新大陸で初めて大量の金・銀(特に銀)を獲得し、メキシコ産出の銀で銀貨を鋳造し、この銀貨はメキシコ銀と呼ばれ、スペインがアジア貿易に使用したため後にアジア各地でも流通することに成ります。

フランシスコ・ピサロ
フランシスコ・ピサロ

 ピサロ(1470年頃~1541年)も、スペインの地方貴族の私生児として生まれ、後にバルボア(1470年頃~1517年、スペインの探検家で1513年にパナマ地峡を横断して太平洋を発見した)の部下となり、彼の航海に同行し、インカの黄金伝説(エルドラド)を聞き、「第二のコルテス」になることを熱望し、南米西海岸を探検して(1524年・1526年)インカ帝国の存在を確かめました。

 1531年にスペイン王の援助を受けて、兵180人、馬27頭と銃を携えてパナマを出発し、翌年ペルーに上陸し、アンデス山脈を越えてクスコに入り、内紛に乗じてインカ王を不意打ちで捕らえて莫大な身代金を要求し、それを手に入れると王を処刑し、インカ帝国はここに滅亡します(1533年)。

 ピサロはペルー征服の功績により、侯爵位を授けられますが、後に同僚のアルマグロと争い、これを処刑しますが、彼自身もアルマグロの同調者によって暗殺され、ピサロ自身はインディオの虐殺と略奪の激しさで悪名高い人物です。

 アステカ王国やインカ帝国が僅かな兵しか持たなかった「コンキスタドレス」によってあっけなく滅ぼされたのは、インディオが平和的な民族であったこと以上に火器の威力と機動力に富む騎兵に太刀打ちできなかったことが最大の原因でした。

世界遺産・ポトシ市街_convert_20150813223833
ポトシ銀山:現在

 ペルー征服によって大量の貴金属(特に銀)を手に入れたことからスペインは以後植民地経営の中心を鉱山経営に向け、新大陸最大の銀山であるポトシ銀山(ボリビア南部)の発見(1545年)以後は、スペイン人はインディオの強制労働によって、大量の安価な銀の採掘を強行し、インディオ人口の激減や絶滅を招いきました。
そのためにアフリカ西海岸の黒人を奴隷として新大陸に連行して鉱山労働に使役するように成ります。

ジョークは如何?

ユダヤ&日本ジョーク

第二次世界大戦が終わった。

世界最強の商人は世界最強の兵士になった。
世界最強の兵士は世界最強の商人になった。


続く・・・

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