歴史を歩く133
17ヨーロッパ世界の拡大・中南米よりインカ
太陽の処女
1太陽の王国

ピサロの侵略経路
コロンブスがアメリカ大陸に到達した頃、現在のメキシコから中央アメリカにかけてアステカ王国が、ユカタン半島を中心にマヤ王国が、そして南アメリカのアンデス山脈一帯にはインカ帝国(タワンティン・スーユ)が繁栄し、非常に高度な独自の文明を営んでいました。
インカの起源についての研究は、現在でも進められていますが、未だその成り立ちが確立されておらず、ケチュア族、アイマラ族の古くからの伝承によって、幾つかの説話が知られていますが、勿論歴史的事実として正式に認められている訳では在りません。
ペルー共和国とボリビア共和国の国境を跨ぎ、アンデス山脈のアルティプラノ南部に位置するチチカカ湖(神の黄金の鉢)は、全長176km、最大幅46km、面積8,280平方km、標高3,810mに在り、南アメリカ大陸最大の湖であるばかりでなく、世界最高地点に位置する湖なのです。

マンコ・カパック
古来、この湖はインカ人にとって、最も神聖な地域の一つに数えられました。
この天上の湖の中に大小40余りの島が存在していますが、伝説によれば、インカ初代皇帝マンコ・カパック(Manco Capac)とその妻ママ・オクリョが、太陽神の命令でインカの国を建設する為、地上に降臨した際、初めて第一歩を踏み出した場所であり、嘗てこの二つの島は、金と銀で固められていたと云います。
太陽神の子として、国民から尊敬されたインカ皇帝は、この島に宮殿と太陽神の神殿を建立し、黄金の太陽神像を創り、朝夕2回、聖なる湖に捧げものを投じたと伝えられており、現在、島には考古学上重要な遺跡が存在していいます。

チチカカ湖
湖畔の土地は、耕作に十分は雨量を確保し、湖水の存在が冬季並びに昼夜の寒暖差を緩和する為、現在も多くのインティヘナが居住し、麦、ジャガイモ、とうもろこしを栽培し、リャマ、羊等を飼育しています。
ヨシの一種トトラ(バルサ)で作られた舟が一般に移動手段として用いられ、更に食料にも成っています。
チチカカ湖では、漁業も行われていますが、固有種は小魚が中心で、日本の援助でニジマスの養殖が行われています。
2マチュ・ピチュ

マチュ・ピチュ
古代インカ人は、優れた民族で太陽を神と崇め、偉大な文化を築き上げて発展しました。
9世紀初頭、ヨーロッパ全土が暗黒時代の頃、インカ人はアンデス山脈の東側に居住し、標高3,000m余りの高地に、石造りの都市を建設し、この場所を「マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)」と名づけました。
町には400戸程の家々や神殿、宮殿も造営され、神殿の祭壇は100トンを越える、一枚岩で造られています。
石材の組立てには、モルタル等の接着剤を用いず、石と石の隙間が殆ど判らない位、巧みに組み上げられ、1,000年以上を経過した現在も、少しの狂いも生じていません。
これ等の石材を採掘した石切り場は、600m下の峡谷の底に在り、その巨大な石材を階段状のテラスを持つ町の頂上に運び上げたのか、又、鉄製品を知らない彼らが、如何なる方法で石材を切断し、組み上げたのか、近代建築史上大きな疑問なのです。
この地に古くから住んでいる、インティヘナの人々は、古代インカ人は「天使の建築家」が作業を援助し、魔法の技術で峡谷を横切り、巨大な石を断崖の頂上まで運んだと云います。

シンチ・ロカ
200年の間、インカ人はマチュ・ピチュに居住しましたが、人口の増加に比例して、食料が不足した為、46km離れたアンデス山脈の西側に位置するクスコ高原に移住します。
スペイン人の記録によれば、12世紀初頭、マンコ・カパックの子シンチ・ロカ(Sinchi Roca)が、その妹ママ・クーラ(Mama Cura)を妻に迎え、当事クスコ渓谷に居住していたケチュア族(Quichua)の統治者と成り、彼もまた両親の様に、もはや神話上の人物では無く、既に歴史上の人物と成っていました。
ロカの孫マイタ・カパック(Mayta Capac、1195年~1230年)の時代と成ると、統治面積は更に広大と成り、更に第9代ハイナ・カパック(Huayna Capac,1438年~1471年)の時代、その領土は北部コロンビアから南はアルゼンチン北部乃至チリに達し、インカ帝国の最盛期を向かえ、人口は1,100万人を数えました。
インカには文字が存在しませんでしたが、彼らは縄の結び目で数を記録する「キープ」と呼ばれる結縄文字を用い、その結び方や色で、意味を表しましたが、この方法を理解する為には、特別に教育を受けた専門家(キープカマヨ)が必要で、その数は限られたものでした。

インカの吊り橋(現存するインカ時代の工法で設営された橋)
インカは、道路、つり橋、灌漑設備、城砦、宮殿、神殿を設計し建造し、鉱物資源である金を用いて、色々な細工物や神像を創り、更にインカ人の崇拝する太陽に見立て、金の持つ光を太陽神の象徴として扱い、神殿には大量の黄金製品を置きました。
スペイン人はこの噂を伝え聞き、黄金を手中に収め様と考え、この事がインカや先のアステカ侵略の大目的でした。
1531年1月、スペインのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、三隻の帆船に165名の兵士と27頭の馬を乗せ、パナマを南下しペルーに向う途中、現在のエクアドル沖で遭難し、辛うじて小島に上陸して難を逃れます。
スペイン国王は、直ぐに二隻の帆船を急派し彼らを救助しますが、ピサロの求めたものは、救助ではなく征服への糸口でした。
彼は、海岸の砂の上に剣で一本の線を引くと其れを眺める部下達に言いました。
「諸君!この線の向こう側には、辛苦と空腹、不毛の地と暴風雨、荒廃と死が待ち構えている。しかし、其れを乗り越えたなら、計り知れぬ富を擁した場所が待っている。線のこちら側は、安易と快楽、家庭と貧困が待っている。諸君!祖先を辱しめぬ立派なカスティリア人(スペイン人)と成る最善の道を選べ!私は言う迄も無く南に行く!」
ピサロに続いて、13人の若者が之に従いました。

一攫千金
本国からの救助船は、ピサロを含めた14名を残し、旅立ちますが、大海原に浮かぶ小さな島には、食料も陸地に渡る舟すら無く、衣類も無ければ、武器も無く、更には之から向うインカに対する知識さえ在りませんでした。
只、インカ帝国に対して、自らが十字軍と成る事であり、ピサロは万難を排して13名の部下と共に海を渡り、インカ帝国攻略に立ち向かいます。
3太陽の乙女達

太陽の乙女達
ピサロが、現在のペルーの地に上陸し、アンデス山脈を登り始めた時、初めて白人に遭遇したインカの民は、彼らを伝説の白い人ビラコチャと思い、友好的な態度を示しました。
ピサロはこのインカ人の心情を巧みに利用し、インカ帝国第13代皇帝アタワルパ(Atahuallpa)を姦計にかけました。

運命の瞬間・カハマルカ
時に1533年11月16日、現在のペルー共和国北部に位置する、カハマルカ(Cajamarca)の町でピサロとアタワルパは会見の時を持ちます。
ピサロとビンセント・デ・バルベルデ神父らの随行者は、皇帝アタワルパとの会見に臨み、バルベルデ神父は通訳を通し、スペイン本国への服従とキリスト教への改宗とを要請した文面を読み上げますが、通訳障害の為、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰について更に質問を試みたが、スペイン人達は皇帝の随行者を倒し、皇帝アタワルパを人質として捕らえたのでした。

黄金の身代金
後日、皇帝アタワルパは、ピサロ一行がインカ帝国を訪れた本当の理由は、黄金に在ることを知り、今自分が軟禁されている部屋いっぱいの黄金と引き換えに、自由の身とされる事を申し出ます。
アタワルパが軟禁されていた部屋は、幅5.1m、長さ6.6m、高さ2.7mあり、1ヶ月後には、クスコの王宮や神殿、貴族から持ち込まれた黄金で、いっぱいに成りました。
しかし、皇帝アタワルパはピサロの命令により、自由の身と成る代わりに、カハマルカの町の広場で、火刑の処せられましたが、インカ人は、皇帝をインカ=太陽神(神)と信じていた為、皇帝がスペイン人に殺されたのは、インカの民を見捨てて逃げ去ったのだと解釈し、反抗を止めてしまいます。

アタワルパ
ピサロの勢力は、先の13人に加え兵士154人、重火器1門、馬27頭でしたが、その戦力は皇帝アタワルパの率いる8万人のインカ軍を完全に凌駕していました。
ピサロを含めた14名の侵略者は、飽くことを知らず、略奪を繰り返して行きましたが、常に飢え、乾き、苦汁を強いられ、少しも状況は変わる事無く、彼らの内で最後まで生き残ったのは、3名に過ぎず、ピサロ本人は、アタワルパの身代金の内、57,000ペソの分け前を受けたものの、故国の土を踏む事は叶いませんでした。
例えば、レギサーノと云う一騎兵は、戦利品の分け前として、インカ帝国の太陽神をかたどる、黄金品を手に入れましたが、たった一晩の博打ですっかり消えてしまい、以来スペインでは「フェサ・エル・ソル・アンテス・ケ・アマネスカ」(日の出前に太陽を使い果たす)と云う諺が有名に成りました。

クスコ市街図(風の旅行者より)
さてこれより先、クスコには一生を太陽神インカに仕える為、上流階級から選抜された清純な乙女達100人から成る「太陽の尼僧院」が存在していました。
ピサロの一隊は、クスコに入場するや、まずこの尼僧院を襲い、彼女達を虜にして隷属させ様と考えましたが、彼等がその場所に到着した時、既に一切の人間は残らず何処かに移動した後でした。
彼女達が、何処に身を隠したのか、全くの秘密とされ、誰も知る者も無く、恐らく太陽神の導きにより、何を逃れたのだろうと伝えられていました。

ハイラム・ビンガム
其れから400年の歳月が経過し、100人の乙女達の事も伝承の彼方に消え去ろうとしていた頃、1911年、偶然の事から、この伝承が真実として語られる時が、やって来ました。
1911年7月、アメリカ合衆国エール大学考古学教授 ハイラム・ビンガム博士(Dr Hiram Bingham)と同僚のハリー・ワード・フォート(Harry Word Foote)、ウィリアム・G・アービング(Willam G,Erving)と共に、ウルバンバ渓谷のインカ時代の遺跡を調査した際、現地人ガイド、メルコール・アルテガに導かれて、マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)を発見しました。
ガイドは、「或る古い高台」を望見する為に、博士一行を禁断の山の頂上に案内します。
ビンガム博士一行は、道の険しさに、幾度もその希望を棄て様と考えましたが、熱心なガイドに励まされ、ようやく禁断の山の山頂に立つ事が出来ました。
その場所こそ、インカの伝承に在る「天使の建てた町」でした。
町の中央に在る神殿に近い神聖な墓地から、什器備品に混じって173体にも及ぶ遺骨が発掘されましたが、その内150人迄が女性であり、彼女達こそ太陽神インティに仕えた「太陽の乙女達」であると信じられています。

太陽の乙女達
1533年、ピサロの一隊がクスコに入城した時、身の危険を察した「太陽の乙女達」は、太陽神インティに仕える神官の案内で、神殿からウルバンバ渓谷に逃れ、更に険しい山道を辿ってマチュ・ピチュに至り、下界との一切の交渉を断ち、その生涯をこの町で終えたのだと考えられています。

伝説
伝説は次の様に伝えています。
太陽の乙女達は、年と供にその美しさも衰え、次第に年を重ね、一人又一人と此の世を去って行き、やがては数人を残すのみと成りました。
更に年月は流れ、疲れ、衰え、世を忘れ、世に忘れられ、終に残った二人の内の一人が世を去って行きました。
たった一人に成ったその人は、最後の墓に友を葬ると、既に語る友も無く、廃墟の中にただ一人、遠くの川の囁きを聞きながら、その時を待つばかりでした。
帝国の最盛期、人口1,100万人を誇ったインカの民も現在その人口は、極めて少数に成っています。
彼らは、嘗ての首都クスコ(現在の人口30万人)で、彼ら本来の言葉であるケチュア語もスペイン語に変わりましたが、そのインカの昔話はケチュア語で、伝承されています。
現在のクスコは、インカ時代の基礎の上にスペイン式の建造物が並ぶ街で、嘗ての黄金で装飾された神殿や王宮は存在しませんが、モロッコのフェス、インドのバラナシ、サウジアラビアのメッカ、イスラエルのエルサレムと同じく、「太陽神の都」であり「聖都」なのです。
スペイン人は彼らから、全ての物を奪い去って行きました。
土地、自由、富、信仰の対象である太陽さえも。

マチュピチュ遺跡の上空を飛ぶコンドル
ジョークは如何?
民主主義では,一歩進むために,一日をかける.
全体主義では,一歩進むために,一人を殺す.
共産主義では,一歩進むために,二歩下がる.
続く・・・
太陽の処女
1太陽の王国

ピサロの侵略経路
コロンブスがアメリカ大陸に到達した頃、現在のメキシコから中央アメリカにかけてアステカ王国が、ユカタン半島を中心にマヤ王国が、そして南アメリカのアンデス山脈一帯にはインカ帝国(タワンティン・スーユ)が繁栄し、非常に高度な独自の文明を営んでいました。
インカの起源についての研究は、現在でも進められていますが、未だその成り立ちが確立されておらず、ケチュア族、アイマラ族の古くからの伝承によって、幾つかの説話が知られていますが、勿論歴史的事実として正式に認められている訳では在りません。
ペルー共和国とボリビア共和国の国境を跨ぎ、アンデス山脈のアルティプラノ南部に位置するチチカカ湖(神の黄金の鉢)は、全長176km、最大幅46km、面積8,280平方km、標高3,810mに在り、南アメリカ大陸最大の湖であるばかりでなく、世界最高地点に位置する湖なのです。

マンコ・カパック
古来、この湖はインカ人にとって、最も神聖な地域の一つに数えられました。
この天上の湖の中に大小40余りの島が存在していますが、伝説によれば、インカ初代皇帝マンコ・カパック(Manco Capac)とその妻ママ・オクリョが、太陽神の命令でインカの国を建設する為、地上に降臨した際、初めて第一歩を踏み出した場所であり、嘗てこの二つの島は、金と銀で固められていたと云います。
太陽神の子として、国民から尊敬されたインカ皇帝は、この島に宮殿と太陽神の神殿を建立し、黄金の太陽神像を創り、朝夕2回、聖なる湖に捧げものを投じたと伝えられており、現在、島には考古学上重要な遺跡が存在していいます。

チチカカ湖
湖畔の土地は、耕作に十分は雨量を確保し、湖水の存在が冬季並びに昼夜の寒暖差を緩和する為、現在も多くのインティヘナが居住し、麦、ジャガイモ、とうもろこしを栽培し、リャマ、羊等を飼育しています。
ヨシの一種トトラ(バルサ)で作られた舟が一般に移動手段として用いられ、更に食料にも成っています。
チチカカ湖では、漁業も行われていますが、固有種は小魚が中心で、日本の援助でニジマスの養殖が行われています。
2マチュ・ピチュ

マチュ・ピチュ
古代インカ人は、優れた民族で太陽を神と崇め、偉大な文化を築き上げて発展しました。
9世紀初頭、ヨーロッパ全土が暗黒時代の頃、インカ人はアンデス山脈の東側に居住し、標高3,000m余りの高地に、石造りの都市を建設し、この場所を「マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)」と名づけました。
町には400戸程の家々や神殿、宮殿も造営され、神殿の祭壇は100トンを越える、一枚岩で造られています。
石材の組立てには、モルタル等の接着剤を用いず、石と石の隙間が殆ど判らない位、巧みに組み上げられ、1,000年以上を経過した現在も、少しの狂いも生じていません。
これ等の石材を採掘した石切り場は、600m下の峡谷の底に在り、その巨大な石材を階段状のテラスを持つ町の頂上に運び上げたのか、又、鉄製品を知らない彼らが、如何なる方法で石材を切断し、組み上げたのか、近代建築史上大きな疑問なのです。
この地に古くから住んでいる、インティヘナの人々は、古代インカ人は「天使の建築家」が作業を援助し、魔法の技術で峡谷を横切り、巨大な石を断崖の頂上まで運んだと云います。

シンチ・ロカ
200年の間、インカ人はマチュ・ピチュに居住しましたが、人口の増加に比例して、食料が不足した為、46km離れたアンデス山脈の西側に位置するクスコ高原に移住します。
スペイン人の記録によれば、12世紀初頭、マンコ・カパックの子シンチ・ロカ(Sinchi Roca)が、その妹ママ・クーラ(Mama Cura)を妻に迎え、当事クスコ渓谷に居住していたケチュア族(Quichua)の統治者と成り、彼もまた両親の様に、もはや神話上の人物では無く、既に歴史上の人物と成っていました。
ロカの孫マイタ・カパック(Mayta Capac、1195年~1230年)の時代と成ると、統治面積は更に広大と成り、更に第9代ハイナ・カパック(Huayna Capac,1438年~1471年)の時代、その領土は北部コロンビアから南はアルゼンチン北部乃至チリに達し、インカ帝国の最盛期を向かえ、人口は1,100万人を数えました。
インカには文字が存在しませんでしたが、彼らは縄の結び目で数を記録する「キープ」と呼ばれる結縄文字を用い、その結び方や色で、意味を表しましたが、この方法を理解する為には、特別に教育を受けた専門家(キープカマヨ)が必要で、その数は限られたものでした。

インカの吊り橋(現存するインカ時代の工法で設営された橋)
インカは、道路、つり橋、灌漑設備、城砦、宮殿、神殿を設計し建造し、鉱物資源である金を用いて、色々な細工物や神像を創り、更にインカ人の崇拝する太陽に見立て、金の持つ光を太陽神の象徴として扱い、神殿には大量の黄金製品を置きました。
スペイン人はこの噂を伝え聞き、黄金を手中に収め様と考え、この事がインカや先のアステカ侵略の大目的でした。
1531年1月、スペインのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、三隻の帆船に165名の兵士と27頭の馬を乗せ、パナマを南下しペルーに向う途中、現在のエクアドル沖で遭難し、辛うじて小島に上陸して難を逃れます。
スペイン国王は、直ぐに二隻の帆船を急派し彼らを救助しますが、ピサロの求めたものは、救助ではなく征服への糸口でした。
彼は、海岸の砂の上に剣で一本の線を引くと其れを眺める部下達に言いました。
「諸君!この線の向こう側には、辛苦と空腹、不毛の地と暴風雨、荒廃と死が待ち構えている。しかし、其れを乗り越えたなら、計り知れぬ富を擁した場所が待っている。線のこちら側は、安易と快楽、家庭と貧困が待っている。諸君!祖先を辱しめぬ立派なカスティリア人(スペイン人)と成る最善の道を選べ!私は言う迄も無く南に行く!」
ピサロに続いて、13人の若者が之に従いました。

一攫千金
本国からの救助船は、ピサロを含めた14名を残し、旅立ちますが、大海原に浮かぶ小さな島には、食料も陸地に渡る舟すら無く、衣類も無ければ、武器も無く、更には之から向うインカに対する知識さえ在りませんでした。
只、インカ帝国に対して、自らが十字軍と成る事であり、ピサロは万難を排して13名の部下と共に海を渡り、インカ帝国攻略に立ち向かいます。
3太陽の乙女達

太陽の乙女達
ピサロが、現在のペルーの地に上陸し、アンデス山脈を登り始めた時、初めて白人に遭遇したインカの民は、彼らを伝説の白い人ビラコチャと思い、友好的な態度を示しました。
ピサロはこのインカ人の心情を巧みに利用し、インカ帝国第13代皇帝アタワルパ(Atahuallpa)を姦計にかけました。

運命の瞬間・カハマルカ
時に1533年11月16日、現在のペルー共和国北部に位置する、カハマルカ(Cajamarca)の町でピサロとアタワルパは会見の時を持ちます。
ピサロとビンセント・デ・バルベルデ神父らの随行者は、皇帝アタワルパとの会見に臨み、バルベルデ神父は通訳を通し、スペイン本国への服従とキリスト教への改宗とを要請した文面を読み上げますが、通訳障害の為、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰について更に質問を試みたが、スペイン人達は皇帝の随行者を倒し、皇帝アタワルパを人質として捕らえたのでした。

黄金の身代金
後日、皇帝アタワルパは、ピサロ一行がインカ帝国を訪れた本当の理由は、黄金に在ることを知り、今自分が軟禁されている部屋いっぱいの黄金と引き換えに、自由の身とされる事を申し出ます。
アタワルパが軟禁されていた部屋は、幅5.1m、長さ6.6m、高さ2.7mあり、1ヶ月後には、クスコの王宮や神殿、貴族から持ち込まれた黄金で、いっぱいに成りました。
しかし、皇帝アタワルパはピサロの命令により、自由の身と成る代わりに、カハマルカの町の広場で、火刑の処せられましたが、インカ人は、皇帝をインカ=太陽神(神)と信じていた為、皇帝がスペイン人に殺されたのは、インカの民を見捨てて逃げ去ったのだと解釈し、反抗を止めてしまいます。

アタワルパ
ピサロの勢力は、先の13人に加え兵士154人、重火器1門、馬27頭でしたが、その戦力は皇帝アタワルパの率いる8万人のインカ軍を完全に凌駕していました。
ピサロを含めた14名の侵略者は、飽くことを知らず、略奪を繰り返して行きましたが、常に飢え、乾き、苦汁を強いられ、少しも状況は変わる事無く、彼らの内で最後まで生き残ったのは、3名に過ぎず、ピサロ本人は、アタワルパの身代金の内、57,000ペソの分け前を受けたものの、故国の土を踏む事は叶いませんでした。
例えば、レギサーノと云う一騎兵は、戦利品の分け前として、インカ帝国の太陽神をかたどる、黄金品を手に入れましたが、たった一晩の博打ですっかり消えてしまい、以来スペインでは「フェサ・エル・ソル・アンテス・ケ・アマネスカ」(日の出前に太陽を使い果たす)と云う諺が有名に成りました。

クスコ市街図(風の旅行者より)
さてこれより先、クスコには一生を太陽神インカに仕える為、上流階級から選抜された清純な乙女達100人から成る「太陽の尼僧院」が存在していました。
ピサロの一隊は、クスコに入場するや、まずこの尼僧院を襲い、彼女達を虜にして隷属させ様と考えましたが、彼等がその場所に到着した時、既に一切の人間は残らず何処かに移動した後でした。
彼女達が、何処に身を隠したのか、全くの秘密とされ、誰も知る者も無く、恐らく太陽神の導きにより、何を逃れたのだろうと伝えられていました。

ハイラム・ビンガム
其れから400年の歳月が経過し、100人の乙女達の事も伝承の彼方に消え去ろうとしていた頃、1911年、偶然の事から、この伝承が真実として語られる時が、やって来ました。
1911年7月、アメリカ合衆国エール大学考古学教授 ハイラム・ビンガム博士(Dr Hiram Bingham)と同僚のハリー・ワード・フォート(Harry Word Foote)、ウィリアム・G・アービング(Willam G,Erving)と共に、ウルバンバ渓谷のインカ時代の遺跡を調査した際、現地人ガイド、メルコール・アルテガに導かれて、マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)を発見しました。
ガイドは、「或る古い高台」を望見する為に、博士一行を禁断の山の頂上に案内します。
ビンガム博士一行は、道の険しさに、幾度もその希望を棄て様と考えましたが、熱心なガイドに励まされ、ようやく禁断の山の山頂に立つ事が出来ました。
その場所こそ、インカの伝承に在る「天使の建てた町」でした。
町の中央に在る神殿に近い神聖な墓地から、什器備品に混じって173体にも及ぶ遺骨が発掘されましたが、その内150人迄が女性であり、彼女達こそ太陽神インティに仕えた「太陽の乙女達」であると信じられています。

太陽の乙女達
1533年、ピサロの一隊がクスコに入城した時、身の危険を察した「太陽の乙女達」は、太陽神インティに仕える神官の案内で、神殿からウルバンバ渓谷に逃れ、更に険しい山道を辿ってマチュ・ピチュに至り、下界との一切の交渉を断ち、その生涯をこの町で終えたのだと考えられています。

伝説
伝説は次の様に伝えています。
太陽の乙女達は、年と供にその美しさも衰え、次第に年を重ね、一人又一人と此の世を去って行き、やがては数人を残すのみと成りました。
更に年月は流れ、疲れ、衰え、世を忘れ、世に忘れられ、終に残った二人の内の一人が世を去って行きました。
たった一人に成ったその人は、最後の墓に友を葬ると、既に語る友も無く、廃墟の中にただ一人、遠くの川の囁きを聞きながら、その時を待つばかりでした。
帝国の最盛期、人口1,100万人を誇ったインカの民も現在その人口は、極めて少数に成っています。
彼らは、嘗ての首都クスコ(現在の人口30万人)で、彼ら本来の言葉であるケチュア語もスペイン語に変わりましたが、そのインカの昔話はケチュア語で、伝承されています。
現在のクスコは、インカ時代の基礎の上にスペイン式の建造物が並ぶ街で、嘗ての黄金で装飾された神殿や王宮は存在しませんが、モロッコのフェス、インドのバラナシ、サウジアラビアのメッカ、イスラエルのエルサレムと同じく、「太陽神の都」であり「聖都」なのです。
スペイン人は彼らから、全ての物を奪い去って行きました。
土地、自由、富、信仰の対象である太陽さえも。

マチュピチュ遺跡の上空を飛ぶコンドル
ジョークは如何?
民主主義では,一歩進むために,一日をかける.
全体主義では,一歩進むために,一人を殺す.
共産主義では,一歩進むために,二歩下がる.
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
気温は30度ですが風は冷たさを運んできました。
秋らしい雰囲気が漂ってきました。
晴れるとツクツクボウシが鳴き出します。
何となく秋めいて心も秋めく時期なのでしょうか?
今年は夏場も昨年と比べて早く気温が下がったようです。
2015-09-02 20:37 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
山科川遊歩道沿いの夏草刈が雨の中始まっています。
造園業者の人達が雨に濡れながら頑張っている姿を見ると
大変だなーと感心しています。
例年ですと年末までに後一度草刈があると思います。
少しずつ気温が下がり、秋になって行きますね。
2015-09-03 21:05 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
秋雨前線も一休み!でしょうか。
気温も30度になりまだ晴れた日は暑いですね。
今の時間、窓を開けると涼しい風が入ってきて、
虫の声を運んできます。
静かなる初秋の夜が訪れています。
2015-09-04 21:28 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
何故だか理由がわかりませんが。
まだ本格的な秋ではありませんが、
気候的にも秋が忍びよってきています。
風や雲や自然の移り変わりに人は癒しを求めています。
そうです、私もですが自然の移ろいは心をひきつけられますね。
2015-09-05 22:21 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
秋の本格的な訪れが目の前に迫ってきったようです。
ニシキギの葉が一部赤くなってきました。
街路樹の銀杏のはも少し色が変わりだしました。
カンナの花も終わりに近いようです。
最低気温も20度前後に変わってきて、
朝晩が生活しやすくなりましたね。
2015-09-06 21:29 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
今の時刻夕焼けでしょうか、西の空が赤くなっています。
明日は晴れると良いですが、台風が近畿を直撃しそうです。
今年は早めに涼しくなり冬が早そうです。
遊歩道は気候が良くなってウォーキングの人達で賑わっています。
2015-09-07 18:32 葉山左京 URL 編集