歴史を歩く134
17ヨーロッパ世界の拡大・コロンブスの遺骨は何処に
コロンブスの遺骨
コロンブスの上陸した島

クリストファー・コロンブス ドミニカ共和国500ペソ紙幣
イタリア、ジェノヴァの生まれのクリストファー・コロンブス(1456年~1506年)が、スペイン女王イザベル1世の援助を受け。サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の帆船に、120名の乗組み員を乗せ、故国のバロス港を出帆して、大西洋横断に旅立ったのは1492年8月3日未明の事でした。
途中、部下達がその航海の前途多難による不安から、幾度も反乱の予兆を抑えながら、航海を続け、同年10月12日午前2時、故国を出帆しておよそ70日後、バハマ諸島(西インド諸島)のひとつの島に到達し、この島を「サン・サルバドル島」命名しました。
ヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の第一歩と成りました。
この島は、現在のワットリング島と推定されています。

バハマ諸島
コロンブスが第一歩を印したバハマ諸島には、30以上の大小の島々が存在し、彼が「サン・サルバドル」と名づけた島が、正確には現在のどの島なのか、特定する事は大変な事でした。
コロンブスの新大陸への航海日誌は、不幸にも、彼の死後間も無く所在が不明と成りますが、彼の生前、同時代の僧侶フレイ・ラス・カオスが、コロンブスの原書である1492年10月12日付けの航海日誌を忠実に複製しました。
これは後に翻訳され、複製刊行されます。
その文献によれば、10月11日の夜、強い東風が吹き、月の光に浮かび上がる島影を最初に発見したのは、ピンタ号の水夫ロドリゴであることが判ります。

新大陸上陸
コロンブスは「サン・サルバドル島」について、次の様に記録しています。
「島は極めて大きく、かつ扁平であり、島の中央部には大きな湖が存在し、島の形はソラマメの様で、多くの木々が繁茂している」。
更に2日後の10月14日付けの日誌には、「明け方、私は船を1隻用意させ、島を観察するために、島に沿って東北方向に航海をした。住民たちが岸に出て来た。上陸地を探したが、島を取り巻く岩礁が心配であった。しかし、やがて岩礁の切れ間を見つけ、其処は全キリスト教国の船舶を収容するに足りる広大な入り江だった」と記しています。
以上は、サン・サルバドル島に関し、現存するコロンブスの航海日誌(模写)の殆ど全てですが、詳細な記録とは言い難いものです。
バハマ諸島には30の大島と600以上の小島が存在し、コロンブスがそのいずれかに上陸した事は間違い無く、しかも彼は大西洋を東方から航海した為、最初に遭遇する島は、10個程度の外洋に面した島と成ります。
列挙すると、大アバコ島、エリューセラ島、コンセプション島、ユーマ島、サマナ島、キャット島(後年コロンブスの乗船したマリア・テレジア号が座礁した島)等があります。
ワットリング島

新大陸の確認と上陸
1892年、コロンブスのアメリカ発見400年記念博覧会が開催された時、慎重な再調査が行われた結果、ワットリング島を正式にコロンブスの上陸第一歩を印した地とし、「サン・サルバドル島」と命名しました。
その年、新聞記者ウォルター・ウェルマンは、コロンブスが第一歩を印したと推定される場所を示す為、島の東海岸に小さな記念碑を建立したのでした。

航海図
コロンブスの上陸した最初の島が、ワットリング島で在る事を確認する資料として、1921年刊行のルドルフ・クロナウ博士による「アメリカの発見とコロンブスの上陸」(Dr.Rudolf Cronau;The Discovery of America and Landfall of Columbus,1921)が在ります。
博士は大西洋側に面した島々を綿密に調査し、その結果、ワットリング島こそが、コロンブスの最初の上陸地点で在る事を決定づけました。
しかも、1892年のコロンブス博覧会開催の折り、ウォルター・ウェルマンがコロンブス上陸地点として、記念碑を建立した東海岸では無く、島の北側で在る事を明らかにしたのでした。
其処には入り江が在り、サンゴ礁が自然の防波堤となり、内側には幅1マイルに及ぶ、静かな入り江を伴っていました。
此処ならば、15世紀頃の全キリスト教国の艦艇を収容できた事でしょう。
クロナウ博士の著作が刊行されて、記念碑の位置の誤りで在る事を指摘し、東海岸の記念碑を北側の最も正確な場所と推定される地点に移動されましたが、現在この島には、100名足らずの原住民が住んでおり、稀にコロンブス上陸地点見物の観光客が訪れる程度なのです。
コロンブスの墓

ドミニカ共和国:サント・ドミンゴ:コロンブス像
コロンブスに関しては、上陸地点の確定も然りですが、その墓の場所についても多年に渡り、多くの研究者の意見が分かれ、この結果、一国の宰相が更迭され、キリスト教会が非難を受け、国家間の戦争勃発寸前の状況を作り出しました。
ヨーロッパとアメリカでは、コロンブスと云う、キリスト以後世界で最も有名な人物の遺骨の存在と所有を廻って、論争が絶えませんでした。
クリストファー・コロンブスは、第一回の航海の後、3回に渡り合計4回、大西洋を横断し、「黄金のジパング」や「香料」の国インドを必死に探し求めましたが、その思惑とは裏腹に、原住民の反乱や本国の反対派による逮捕拘束される等、かつての提督も晩年は、病と貧困に悩まされ、不遇の内に1506年スペインのバリヤドリーで、寂しくこの世を去りました。

15世紀スペインよって作成されたヒスパニオラ島地図
彼がその死にあたり、繰り返し第一回の航海で発見した、豊かで美しい島ヒスパニオラ(現ハイチ)に遺体を葬る様懇願したのでした。
其処には、繁栄したサント・ドミンゴ港が在り、全スペイン人衆目の土地で在り、コロンブスが最初に建設した、恒久的植民地で、巨万の富を求めて、海外へ向かう人々の目標の土地と成っていました。
この新世界の中心地と云うべき場所に、コロンブスの遺体が移されたのは、彼の死後30年を経過した、1540年の事で、スペインから到着した鉛製の柩は、この為に新たに建立された教会で、厳かな儀式が行われた後、祭壇の北側の床下に安置されました。
その時、息子のディエゴ・コロンブスの遺体も、スペインから一緒に運ばれ、父親の遺体の傍に埋葬され、二つの墓にはそれぞれ大理石の墓碑銘が刻まれ、150年の間、何事も無く時間が過ぎていきました。
しかし、1655年英国海軍が、サント・ドミンゴを攻略した時、教会は英国軍による暴挙から、墳墓の冒涜を守る為、大理石の墓碑銘をはじめ、遺体の所在を明らかにする物の全てを抹消してしまい、戦乱後も墓碑は修復されず、コロンブスの遺体の安置された場所を示す、墓碑銘等は復活せぬまま140年の時間が経過していきました。
1795年、スペインはフランスから、ヒスパニオラ島西側を強制的に割譲された為、スペイン人は自国の国民的英雄の遺体を、手放す訳には行かず、コロンブスの柩をキューバ島に移動します。
彼等は、教会の祭壇の下にある墓所を掘り、姿を見せた鉛製の柩をハバナの教会に移し、納骨所に安置するとその場所を封印しました。
納骨所には、コロンブスのレリーフが置かれ、次の様な碑銘が掲げられました。
「偉大なるコロンブスの遺体とその像よ、この柩の中に、そして、我が国民の記憶の中に、永久に安らぎ給え」
遺骸紛争

セビーリャ大聖堂:スペイン
サント・ドミンゴ教会は、その栄光を剥奪されたまま、荒廃するに負かせ、誰も顧みる者が在りませんでした。
1877年教会の再建が決まり、その時祭壇前の床石を掘り起こしていた作業員が、1795年にハバナに移動させた鉛製の柩と同様な柩を発見しました。
柩の上には、“D.de la A.per.Ate”の略語が掘り込まれており、コロンブスに事跡を調査していた、クロナウ博士は、“Descubridor de la America primer Almirante”(アメリカの発見者、第一級提督)と解釈し、又柩の3方の側面にはC,C,A,の文字が1文字ずつ掘り込まれていました。
この文字の意味は、“Cristoval Colon,Almirante”(クリストヴァル・コロン提督)と解釈する事が出来ました。
この柩の発見を重要な事態と考えた、教会関係者は、柩の蓋を開けるに当たり、全サント・ドミンゴの名士・名家、各国の領事等を招待しました。
開けられた蓋の裏には、次の様な銘が刻まれていました。
“Llltre y Esdo Varon.Criztoval Colon”この銘に意味は明らかに“Lllustre y Varon Don Criztoval Colon”即ち「名声多き、クリストヴァル・コロン男爵」と解釈されるもので、鉛製の柩の底に、朽ちるにまかせられた遺骨が、誰のものであるか、疑う余地は有りませんでした。

セビーリャ大聖堂:コロンブスの墓所
ハバナの教会では、多年にわたり、別のコロンブスを崇めていた事に成り、墳墓の墓標が早い時期に喪失していた事、コロンブスの子供が父親の傍に葬られていた事、以上を多くの人間が忘れていた事が原因でした。
スペイン人は、偉大なるアメリカの発見者クリストファー・コロンブスの代わりに、息子のディエゴの遺骨の入った柩をキューバに移し、盛大な儀式の内にこれを葬ったのでした。
サント・ドミンゴの教会から、コロンブスの本当の遺骨が発見されたニュースは、全世界に一大センセーショナルを巻き起こし、スペインでは、明確な証拠を敢えて否定し、憤然としてその真実性を否定しました。
コロンブスの柩の蓋を開ける時に立ち会った、ドミニカ共和国駐在スペイン公使が、コロンブスの遺骨発見が真実である事を本国政府に報告するや、スペイン政府は、この公使をサント・ドミンゴから召還するなど、スペインは自国の主張以外絶対に妥協しませんでした。
1898年キューバが宗主国のスペインから独立した時、スペイン政府は、尚もコロンブスの遺骨は、スペイン領内に安置されるべき事を主張し、無銘の柩(ディエゴの柩)を350年前に旅立った、故国スペインのセヴィリアに三度移し、「クリストヴァル・コロン」の銘を記した石棺に納めなおし、壮大なセヴィリア教会に安置しまが、大多数の人々は其処にコロンブスに遺骨が存在しない事を知っていました。

サンタ・マリア・ラ・メノル大聖堂(アメリカ首座大司教座聖堂)(1540年.建造)
サント・ドミンゴの人々は、彼等が託されているものが、如何に貴重なものなのかを理解し、彼等も又教会の中に、コロンブスの遺骨を安置する堂を建立します。
堂の中央には、重い青銅の柩があり、柩の側面は折畳みに成っていて開閉可能であり、必要に応じて内部の柩を見る事が出来る様に成っていました。
毎年10月12日、コロンブスのアメリカ発見の日を記念して、その日は柩の側面が開放され、鉛製の柩全体が参拝者に公開されました。
鉛の柩の大きさは、長辺42.5cm 短編22.5cmであり、中には遺骨が固体と粉体になって、内部を満たしていますが、その損傷度合いが激しく、そのまま放置する事は遺骨の雲散消滅に繋がり兼ねない状況でした。
現在、サント・ドミンゴ大聖堂に静かに安置され、永遠の眠りについています。
コロンブスによって発見された、アメリカ大陸、特にカリブ地方がその後、大航海時代を通じて如何様に変化し、又原住民から見たコロンブス(スペイン人)の姿、歴史家のその後の評価について、敢えて此処に書きません。
ジョークは如何?
先生がジョニーに尋ねた。
「ジョニー、ワシントンが『庭の桜の木を切ったのは僕です』と正直に告白した時、
ワシントンのお父さんは叱らずに許してやりました。なぜかしら?」
「はーい。ワシントンがまだ手に斧を持っていたからです」とジョニー
続く・・・
コロンブスの遺骨
コロンブスの上陸した島

クリストファー・コロンブス ドミニカ共和国500ペソ紙幣
イタリア、ジェノヴァの生まれのクリストファー・コロンブス(1456年~1506年)が、スペイン女王イザベル1世の援助を受け。サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の帆船に、120名の乗組み員を乗せ、故国のバロス港を出帆して、大西洋横断に旅立ったのは1492年8月3日未明の事でした。
途中、部下達がその航海の前途多難による不安から、幾度も反乱の予兆を抑えながら、航海を続け、同年10月12日午前2時、故国を出帆しておよそ70日後、バハマ諸島(西インド諸島)のひとつの島に到達し、この島を「サン・サルバドル島」命名しました。
ヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の第一歩と成りました。
この島は、現在のワットリング島と推定されています。

バハマ諸島
コロンブスが第一歩を印したバハマ諸島には、30以上の大小の島々が存在し、彼が「サン・サルバドル」と名づけた島が、正確には現在のどの島なのか、特定する事は大変な事でした。
コロンブスの新大陸への航海日誌は、不幸にも、彼の死後間も無く所在が不明と成りますが、彼の生前、同時代の僧侶フレイ・ラス・カオスが、コロンブスの原書である1492年10月12日付けの航海日誌を忠実に複製しました。
これは後に翻訳され、複製刊行されます。
その文献によれば、10月11日の夜、強い東風が吹き、月の光に浮かび上がる島影を最初に発見したのは、ピンタ号の水夫ロドリゴであることが判ります。

新大陸上陸
コロンブスは「サン・サルバドル島」について、次の様に記録しています。
「島は極めて大きく、かつ扁平であり、島の中央部には大きな湖が存在し、島の形はソラマメの様で、多くの木々が繁茂している」。
更に2日後の10月14日付けの日誌には、「明け方、私は船を1隻用意させ、島を観察するために、島に沿って東北方向に航海をした。住民たちが岸に出て来た。上陸地を探したが、島を取り巻く岩礁が心配であった。しかし、やがて岩礁の切れ間を見つけ、其処は全キリスト教国の船舶を収容するに足りる広大な入り江だった」と記しています。
以上は、サン・サルバドル島に関し、現存するコロンブスの航海日誌(模写)の殆ど全てですが、詳細な記録とは言い難いものです。
バハマ諸島には30の大島と600以上の小島が存在し、コロンブスがそのいずれかに上陸した事は間違い無く、しかも彼は大西洋を東方から航海した為、最初に遭遇する島は、10個程度の外洋に面した島と成ります。
列挙すると、大アバコ島、エリューセラ島、コンセプション島、ユーマ島、サマナ島、キャット島(後年コロンブスの乗船したマリア・テレジア号が座礁した島)等があります。
ワットリング島

新大陸の確認と上陸
1892年、コロンブスのアメリカ発見400年記念博覧会が開催された時、慎重な再調査が行われた結果、ワットリング島を正式にコロンブスの上陸第一歩を印した地とし、「サン・サルバドル島」と命名しました。
その年、新聞記者ウォルター・ウェルマンは、コロンブスが第一歩を印したと推定される場所を示す為、島の東海岸に小さな記念碑を建立したのでした。

航海図
コロンブスの上陸した最初の島が、ワットリング島で在る事を確認する資料として、1921年刊行のルドルフ・クロナウ博士による「アメリカの発見とコロンブスの上陸」(Dr.Rudolf Cronau;The Discovery of America and Landfall of Columbus,1921)が在ります。
博士は大西洋側に面した島々を綿密に調査し、その結果、ワットリング島こそが、コロンブスの最初の上陸地点で在る事を決定づけました。
しかも、1892年のコロンブス博覧会開催の折り、ウォルター・ウェルマンがコロンブス上陸地点として、記念碑を建立した東海岸では無く、島の北側で在る事を明らかにしたのでした。
其処には入り江が在り、サンゴ礁が自然の防波堤となり、内側には幅1マイルに及ぶ、静かな入り江を伴っていました。
此処ならば、15世紀頃の全キリスト教国の艦艇を収容できた事でしょう。
クロナウ博士の著作が刊行されて、記念碑の位置の誤りで在る事を指摘し、東海岸の記念碑を北側の最も正確な場所と推定される地点に移動されましたが、現在この島には、100名足らずの原住民が住んでおり、稀にコロンブス上陸地点見物の観光客が訪れる程度なのです。
コロンブスの墓

ドミニカ共和国:サント・ドミンゴ:コロンブス像
コロンブスに関しては、上陸地点の確定も然りですが、その墓の場所についても多年に渡り、多くの研究者の意見が分かれ、この結果、一国の宰相が更迭され、キリスト教会が非難を受け、国家間の戦争勃発寸前の状況を作り出しました。
ヨーロッパとアメリカでは、コロンブスと云う、キリスト以後世界で最も有名な人物の遺骨の存在と所有を廻って、論争が絶えませんでした。
クリストファー・コロンブスは、第一回の航海の後、3回に渡り合計4回、大西洋を横断し、「黄金のジパング」や「香料」の国インドを必死に探し求めましたが、その思惑とは裏腹に、原住民の反乱や本国の反対派による逮捕拘束される等、かつての提督も晩年は、病と貧困に悩まされ、不遇の内に1506年スペインのバリヤドリーで、寂しくこの世を去りました。

15世紀スペインよって作成されたヒスパニオラ島地図
彼がその死にあたり、繰り返し第一回の航海で発見した、豊かで美しい島ヒスパニオラ(現ハイチ)に遺体を葬る様懇願したのでした。
其処には、繁栄したサント・ドミンゴ港が在り、全スペイン人衆目の土地で在り、コロンブスが最初に建設した、恒久的植民地で、巨万の富を求めて、海外へ向かう人々の目標の土地と成っていました。
この新世界の中心地と云うべき場所に、コロンブスの遺体が移されたのは、彼の死後30年を経過した、1540年の事で、スペインから到着した鉛製の柩は、この為に新たに建立された教会で、厳かな儀式が行われた後、祭壇の北側の床下に安置されました。
その時、息子のディエゴ・コロンブスの遺体も、スペインから一緒に運ばれ、父親の遺体の傍に埋葬され、二つの墓にはそれぞれ大理石の墓碑銘が刻まれ、150年の間、何事も無く時間が過ぎていきました。
しかし、1655年英国海軍が、サント・ドミンゴを攻略した時、教会は英国軍による暴挙から、墳墓の冒涜を守る為、大理石の墓碑銘をはじめ、遺体の所在を明らかにする物の全てを抹消してしまい、戦乱後も墓碑は修復されず、コロンブスの遺体の安置された場所を示す、墓碑銘等は復活せぬまま140年の時間が経過していきました。
1795年、スペインはフランスから、ヒスパニオラ島西側を強制的に割譲された為、スペイン人は自国の国民的英雄の遺体を、手放す訳には行かず、コロンブスの柩をキューバ島に移動します。
彼等は、教会の祭壇の下にある墓所を掘り、姿を見せた鉛製の柩をハバナの教会に移し、納骨所に安置するとその場所を封印しました。
納骨所には、コロンブスのレリーフが置かれ、次の様な碑銘が掲げられました。
「偉大なるコロンブスの遺体とその像よ、この柩の中に、そして、我が国民の記憶の中に、永久に安らぎ給え」
遺骸紛争

セビーリャ大聖堂:スペイン
サント・ドミンゴ教会は、その栄光を剥奪されたまま、荒廃するに負かせ、誰も顧みる者が在りませんでした。
1877年教会の再建が決まり、その時祭壇前の床石を掘り起こしていた作業員が、1795年にハバナに移動させた鉛製の柩と同様な柩を発見しました。
柩の上には、“D.de la A.per.Ate”の略語が掘り込まれており、コロンブスに事跡を調査していた、クロナウ博士は、“Descubridor de la America primer Almirante”(アメリカの発見者、第一級提督)と解釈し、又柩の3方の側面にはC,C,A,の文字が1文字ずつ掘り込まれていました。
この文字の意味は、“Cristoval Colon,Almirante”(クリストヴァル・コロン提督)と解釈する事が出来ました。
この柩の発見を重要な事態と考えた、教会関係者は、柩の蓋を開けるに当たり、全サント・ドミンゴの名士・名家、各国の領事等を招待しました。
開けられた蓋の裏には、次の様な銘が刻まれていました。
“Llltre y Esdo Varon.Criztoval Colon”この銘に意味は明らかに“Lllustre y Varon Don Criztoval Colon”即ち「名声多き、クリストヴァル・コロン男爵」と解釈されるもので、鉛製の柩の底に、朽ちるにまかせられた遺骨が、誰のものであるか、疑う余地は有りませんでした。

セビーリャ大聖堂:コロンブスの墓所
ハバナの教会では、多年にわたり、別のコロンブスを崇めていた事に成り、墳墓の墓標が早い時期に喪失していた事、コロンブスの子供が父親の傍に葬られていた事、以上を多くの人間が忘れていた事が原因でした。
スペイン人は、偉大なるアメリカの発見者クリストファー・コロンブスの代わりに、息子のディエゴの遺骨の入った柩をキューバに移し、盛大な儀式の内にこれを葬ったのでした。
サント・ドミンゴの教会から、コロンブスの本当の遺骨が発見されたニュースは、全世界に一大センセーショナルを巻き起こし、スペインでは、明確な証拠を敢えて否定し、憤然としてその真実性を否定しました。
コロンブスの柩の蓋を開ける時に立ち会った、ドミニカ共和国駐在スペイン公使が、コロンブスの遺骨発見が真実である事を本国政府に報告するや、スペイン政府は、この公使をサント・ドミンゴから召還するなど、スペインは自国の主張以外絶対に妥協しませんでした。
1898年キューバが宗主国のスペインから独立した時、スペイン政府は、尚もコロンブスの遺骨は、スペイン領内に安置されるべき事を主張し、無銘の柩(ディエゴの柩)を350年前に旅立った、故国スペインのセヴィリアに三度移し、「クリストヴァル・コロン」の銘を記した石棺に納めなおし、壮大なセヴィリア教会に安置しまが、大多数の人々は其処にコロンブスに遺骨が存在しない事を知っていました。

サンタ・マリア・ラ・メノル大聖堂(アメリカ首座大司教座聖堂)(1540年.建造)
サント・ドミンゴの人々は、彼等が託されているものが、如何に貴重なものなのかを理解し、彼等も又教会の中に、コロンブスの遺骨を安置する堂を建立します。
堂の中央には、重い青銅の柩があり、柩の側面は折畳みに成っていて開閉可能であり、必要に応じて内部の柩を見る事が出来る様に成っていました。
毎年10月12日、コロンブスのアメリカ発見の日を記念して、その日は柩の側面が開放され、鉛製の柩全体が参拝者に公開されました。
鉛の柩の大きさは、長辺42.5cm 短編22.5cmであり、中には遺骨が固体と粉体になって、内部を満たしていますが、その損傷度合いが激しく、そのまま放置する事は遺骨の雲散消滅に繋がり兼ねない状況でした。
現在、サント・ドミンゴ大聖堂に静かに安置され、永遠の眠りについています。
コロンブスによって発見された、アメリカ大陸、特にカリブ地方がその後、大航海時代を通じて如何様に変化し、又原住民から見たコロンブス(スペイン人)の姿、歴史家のその後の評価について、敢えて此処に書きません。
ジョークは如何?
先生がジョニーに尋ねた。
「ジョニー、ワシントンが『庭の桜の木を切ったのは僕です』と正直に告白した時、
ワシントンのお父さんは叱らずに許してやりました。なぜかしら?」
「はーい。ワシントンがまだ手に斧を持っていたからです」とジョニー
続く・・・
スポンサーサイト
コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
雨と風が夕方になるほど強くなりました。
傍を流れる山科川も少し増水しています。
どうも近畿、東海を直撃のようで、
被害が心配です。
明日一日中心が通るようで仕事になるかどうか心配しています。
今日の最高気温は23度でした。
涼しいですね。
2015-09-08 20:37 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 こんにちは。
台風が大雨をもたらし、各地でかなりの被害が出ているようです。
京都市内は雨が激しく降りましたが、そう永く降らず被害は免れました。
関東、東北が被害すごいようですね。
北九州は影響なかったのでしょうか?
こちらは曇り空に雨が時々降り、
台風が過ぎ去ってもカラリとは晴れません。
2015-09-10 14:05 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
なかなか河川の決壊は無いのですが、
鬼怒川や渋井川の決壊は凄まじい勢いですね。
台風が過ぎても、
災害予防は国が率先してやらなければならない大事な事業だと思います。
国内に向けての政策を政府はしっかり取り組んで欲しいものです。
2015-09-11 20:18 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
気温は16℃、低くなりました。
涼しすぎる風が入ってきたので、あわてて窓を閉めました。
北九州はいかがでしょうか?
段々紅葉も始まることでしょうね。
街路樹の銀杏の葉やニシキギの葉が少し色が変わりだしました。
これからの彩が楽しみです。
2015-09-12 05:41 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
今は少し明るくなってきましたね。
あちらこちらでコスモスの花便りが目に付きます。
京都の西隣亀岡市の夢コスモス園が19日より開園するようです。
毎年行っていますが、
年々規模が大きくなっていくようです。
今年は500万本植えてあるそうです。
楽しみです!
2015-09-13 09:52 葉山左京 URL 編集