歴史を歩く137
18 宗教改革②
1 ルターの宗教改革②

16世紀にオランダで行われた再洗礼派の処刑
神聖ローマ皇帝カール5世とルターの対立が深まっていた頃、ルターが聖書中心主義を唱えたのに対し、聖霊による神秘的な体験を重視し、聖書を軽んずる教派がおこり、広まっていました。
この教派は、自覚のない幼児期の洗礼を無効として、成人の「再洗礼」を主張したので、再洗礼派と呼ばれており、ルターは、このような動きを知り、ヴァルトブルク城からヴィッテンベルクへ戻り、警告の説教を行いました(1522年)。
この頃までに、ルターの教えは、教皇や皇帝に反感を抱く諸侯、没落しつつあった騎士、自由を求める都市の市民、封建制の重圧に苦しむ農民に受け入れられていましたが、その受け入れられ方は身分や階層の利害と関わっていたので、宗教改革は単に信仰の問題には留まらず、政治化の方向を辿って行ったのです。

ドイツ農民戦争(1524年~25年)
没落しつつあった騎士達は、宗教動乱に乗じて教会諸侯領の撃破を唱えて蜂起しましたが、諸侯軍によって鎮圧されます(騎士戦争、1522~23年)。
教会や諸侯の圧迫に苦しんでいた農民達は、ルターの思想的影響を受けて、1524年に南ドイツを中心に大規模な反乱を起こし、この出来事はドイツ農民戦争(1524年~25年)と呼ばれ、彼らは農奴制の廃止や封建的地代の軽減等を求めて「十二カ条の要求」を掲げて戦い、一時は南ドイツの3分の2を制圧しました。
反乱は更に各地に広がり、特に再洗礼派の代表者であるトマス・ミュンツァー(1490年頃~1525年)が指導した中部ドイツでは激しい暴動が繰り返し発生しています。

トマス・ミュンツァー(中央の人物)
トマス・ミュンツァーは、初めルターの福音主義を支持しましたが、再洗礼派の人々に出会い、次第にルターから離れて急進化し、教会の腐敗・堕落を激しく攻撃するように成り、後にドイツ農民戦争に参加し、信仰を社会改革に結びつけて徹底した社会改革を求め、中部ドイツのチューリンゲンで一時市当局を打倒する迄に勢力を拡大しますが、後に諸侯軍に敗れて斬首されています。
ルターは、初め農民を支持していましたが、ミュンツァーに率いられた農民達が財産の共有や神の前での平等を主張して教会を襲撃する等、過激な行動をとるようになると、彼らを「殺人強盗団」と罵り、諸侯に「狂犬同様に絞め殺し、打ち殺してしまえ」と過激な鎮圧を勧告しています。
これに対してミュンツァーはルターを「嘘つき博士」と呼んで激しく非難しますが、ルターがこのような行動をとったのは、彼が問題としたのは内面的な信仰のあり方であって、社会の現状を変革することまでは考えていなかったためなのです。
装備に勝る諸侯軍は、ルターの支持に力を得て結束して反撃に転じ、反乱側の分裂・不統一に乗じて農民軍を徹底的に鎮圧し、農民の犠牲者数は10万人にも達したと云われています。
ドイツ農民戦争後、南ドイツの貧しい農民達はルター派から離れ、以後ルター派の支持者は、おもに北ドイツの諸侯や豊かな市民・農民に移って行きました。
ルター派の諸侯は、領内の教会の首長として、領内の教会の支配権を握り(領邦教会制)、修道院の解散等の改革を進めて行きました。

スレイマン1世
その頃、神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス王フランソワ1世とイタリア領有を廻て抗争を繰り返し(イタリア戦争)、フランソワ1世はカール5世に対抗するためにドイツのルター派諸侯を援助し、またオスマン・トルコ帝国のスレイマン1世とも結びます。
スレイマン1世はハンガリーを攻略してオーストリアに侵入し、孤立したカール5世は、第1シュパイアー帝国議会(シュパイエル国会、1526年)でルター派を認め、ルター派諸侯の支持を取りつけて危機を脱しました。

ウィーン包囲(1529年)
その後スレイマン1世は再度オーストリアに侵入し、1529年にはウィーンを包囲しますが、カール5世はウィーン包囲をかろうじて撃退し、第2シュパイアー帝国議会で3年前の決定を取り消し、再びルター派を禁止したため、ルター派諸侯は抗議書を提出し(1529年)、このため彼らはプロテスタント(抗議する者の意味)と呼ばれるように成りました。
ルター派諸侯・都市はシュマルカルデン同盟を結成して(1530年)、皇帝に対抗し、両者の争いは後にシュマルカルデン戦争(1546年~47年)と呼ばれる内戦に発展しますが、同盟側は内部分裂によって戦いに敗れて瓦解します。
しかし、国内の混乱を恐れた両者は妥協して、1555年にアウグスブルクの和議を結び、この和議によって諸侯にはカトリック派(旧教)とルター派(新教)のうちいずれかを選択する権利が認められ、都市では両派の存在が認められました。

アウグスブルクの和議
しかし、アウグスブルクの和議では、個人の信仰の自由は認められず、領民の信仰は諸侯のそれと一致することが要求され、領民は諸侯が選択した派を信仰しなければならず、又当時各地に普及していたカルヴァン派は除かれる等問題も多く、後に三十年戦争(1618年~48年)が起こる原因と成りました。
ルター派はやがてデンマーク・スウェーデン・ノルウェーなどの北欧諸国にも広がっていきます。
ジョークは如何?
スターリンが占い師に尋ねた。
「私の寿命はどれくらいだ?」
「わからない。しかし、おまえは最も大きな祝祭日に死ぬだろう」
「それはいつだ」
「おまえが死ぬ日がそうだ」
続く・・・
1 ルターの宗教改革②

16世紀にオランダで行われた再洗礼派の処刑
神聖ローマ皇帝カール5世とルターの対立が深まっていた頃、ルターが聖書中心主義を唱えたのに対し、聖霊による神秘的な体験を重視し、聖書を軽んずる教派がおこり、広まっていました。
この教派は、自覚のない幼児期の洗礼を無効として、成人の「再洗礼」を主張したので、再洗礼派と呼ばれており、ルターは、このような動きを知り、ヴァルトブルク城からヴィッテンベルクへ戻り、警告の説教を行いました(1522年)。
この頃までに、ルターの教えは、教皇や皇帝に反感を抱く諸侯、没落しつつあった騎士、自由を求める都市の市民、封建制の重圧に苦しむ農民に受け入れられていましたが、その受け入れられ方は身分や階層の利害と関わっていたので、宗教改革は単に信仰の問題には留まらず、政治化の方向を辿って行ったのです。

ドイツ農民戦争(1524年~25年)
没落しつつあった騎士達は、宗教動乱に乗じて教会諸侯領の撃破を唱えて蜂起しましたが、諸侯軍によって鎮圧されます(騎士戦争、1522~23年)。
教会や諸侯の圧迫に苦しんでいた農民達は、ルターの思想的影響を受けて、1524年に南ドイツを中心に大規模な反乱を起こし、この出来事はドイツ農民戦争(1524年~25年)と呼ばれ、彼らは農奴制の廃止や封建的地代の軽減等を求めて「十二カ条の要求」を掲げて戦い、一時は南ドイツの3分の2を制圧しました。
反乱は更に各地に広がり、特に再洗礼派の代表者であるトマス・ミュンツァー(1490年頃~1525年)が指導した中部ドイツでは激しい暴動が繰り返し発生しています。

トマス・ミュンツァー(中央の人物)
トマス・ミュンツァーは、初めルターの福音主義を支持しましたが、再洗礼派の人々に出会い、次第にルターから離れて急進化し、教会の腐敗・堕落を激しく攻撃するように成り、後にドイツ農民戦争に参加し、信仰を社会改革に結びつけて徹底した社会改革を求め、中部ドイツのチューリンゲンで一時市当局を打倒する迄に勢力を拡大しますが、後に諸侯軍に敗れて斬首されています。
ルターは、初め農民を支持していましたが、ミュンツァーに率いられた農民達が財産の共有や神の前での平等を主張して教会を襲撃する等、過激な行動をとるようになると、彼らを「殺人強盗団」と罵り、諸侯に「狂犬同様に絞め殺し、打ち殺してしまえ」と過激な鎮圧を勧告しています。
これに対してミュンツァーはルターを「嘘つき博士」と呼んで激しく非難しますが、ルターがこのような行動をとったのは、彼が問題としたのは内面的な信仰のあり方であって、社会の現状を変革することまでは考えていなかったためなのです。
装備に勝る諸侯軍は、ルターの支持に力を得て結束して反撃に転じ、反乱側の分裂・不統一に乗じて農民軍を徹底的に鎮圧し、農民の犠牲者数は10万人にも達したと云われています。
ドイツ農民戦争後、南ドイツの貧しい農民達はルター派から離れ、以後ルター派の支持者は、おもに北ドイツの諸侯や豊かな市民・農民に移って行きました。
ルター派の諸侯は、領内の教会の首長として、領内の教会の支配権を握り(領邦教会制)、修道院の解散等の改革を進めて行きました。

スレイマン1世
その頃、神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス王フランソワ1世とイタリア領有を廻て抗争を繰り返し(イタリア戦争)、フランソワ1世はカール5世に対抗するためにドイツのルター派諸侯を援助し、またオスマン・トルコ帝国のスレイマン1世とも結びます。
スレイマン1世はハンガリーを攻略してオーストリアに侵入し、孤立したカール5世は、第1シュパイアー帝国議会(シュパイエル国会、1526年)でルター派を認め、ルター派諸侯の支持を取りつけて危機を脱しました。

ウィーン包囲(1529年)
その後スレイマン1世は再度オーストリアに侵入し、1529年にはウィーンを包囲しますが、カール5世はウィーン包囲をかろうじて撃退し、第2シュパイアー帝国議会で3年前の決定を取り消し、再びルター派を禁止したため、ルター派諸侯は抗議書を提出し(1529年)、このため彼らはプロテスタント(抗議する者の意味)と呼ばれるように成りました。
ルター派諸侯・都市はシュマルカルデン同盟を結成して(1530年)、皇帝に対抗し、両者の争いは後にシュマルカルデン戦争(1546年~47年)と呼ばれる内戦に発展しますが、同盟側は内部分裂によって戦いに敗れて瓦解します。
しかし、国内の混乱を恐れた両者は妥協して、1555年にアウグスブルクの和議を結び、この和議によって諸侯にはカトリック派(旧教)とルター派(新教)のうちいずれかを選択する権利が認められ、都市では両派の存在が認められました。

アウグスブルクの和議
しかし、アウグスブルクの和議では、個人の信仰の自由は認められず、領民の信仰は諸侯のそれと一致することが要求され、領民は諸侯が選択した派を信仰しなければならず、又当時各地に普及していたカルヴァン派は除かれる等問題も多く、後に三十年戦争(1618年~48年)が起こる原因と成りました。
ルター派はやがてデンマーク・スウェーデン・ノルウェーなどの北欧諸国にも広がっていきます。
ジョークは如何?
スターリンが占い師に尋ねた。
「私の寿命はどれくらいだ?」
「わからない。しかし、おまえは最も大きな祝祭日に死ぬだろう」
「それはいつだ」
「おまえが死ぬ日がそうだ」
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
秋分の日を過ぎたら、
たちまち冬仕様に変わったようです。
それでも日中は暑い日もありますね。
金木犀があっと言う間に花を咲かせ、
芳香を放っています。
草花はどこで季節を感知するのでしょうね。
2015-09-24 21:03 葉山左京 URL 編集
おはようございます。
9月25日、金曜日のご挨拶です。
私の連休2日目、今日もお天気は良くありません。
空は灰色の雲に覆われ、雨の降りだしそうなお天気ですが、ジロくんの散歩は、無事に終える事が出来ました。
彼岸花が盛りを過ぎ、此方でも金木犀の香りが僅かですが、漂い始めています。
長い間、空家になっていた散歩道の家にも、新しい方が引っ越され、灯が灯る様に成りました。
27日は中秋の名月、今月は無事に名月を愛でる事が、叶いますでしょうか?
2015-09-25 08:52 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
京都もまだ彼岸花が真っ赤な花を咲かせています。
今年は寿命が長いように見受けられます。
27日晴れると良いのですが。
もうそろそろ鍋のおいしい時期ですね。
海が傍にある小倉は鍋の材料に事欠きませんね。
2015-09-25 18:06 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
9月26日、土曜日のご挨拶です。
私の連休最終日、やっとお天気も回復しそうな気配ですが、今も雲が大変多く、朝日が差し込みません。
明日は中秋の名月ですが、お天気はどうなることでしょう?
公園の花壇にコスモスが、沢山開いていました。
彼岸花は終わりが近く、葉鶏頭も沢山んの種を落とし始めています。
見かける柿の木の実も黄色く色づいてきました。
植物は季節の移り変わりを敏感に感じています。
朝晩は空気が冷たく、日中は暑さを感じる時も在ります。
体調管理には、ご注意を!
2015-09-26 08:48 秋葉 奈津子 URL 編集